『資本主義の次に来る世界』を読む スピノザ−フッサール−アニミズム?
7月に入ってから、心身が削られるような暑さが続いている。暑いというよりは、もはや熱い、痛い。
熱風式で身体の細胞が焙煎され、搾りカスのようになってしまいそうだ。
仕事で、外回りをしていると、特にそのことを感じる。
オフィスに戻って涼んだのち、しばらくして帰宅しようと思ったら、エレベーター前ですれ違った同僚に、「グッチさん疲れていますね」と言われた。
自分ではそのつもりはなかったのだが、やはり体力も気力も消耗しているのだろうか。
そんな時に、たまたま読んでいた本が、経済人類学者のジェイソン・ヒッケルの『資本主義の次に来る世界』。
「脱資本主義」、「脱成長」を説く斎藤幸平氏も語っていたヒッケル先生。
資本主義の行き過ぎがもたらす未来がどういったものになるか、その危険性について、理性的、直感的には気付き始めているわれわれにとって、ヒッケル先生の言うことは、大筋同意できるものである。
あとは実践として、われわれがそのような考え方への変換に、どこまでコミットできるかなのだが、雇い主である企業から、永遠の「成長」を強いられる、いちサラリーマンでしかない私のような人間には、なかなか厳しいものがある。
それでも、「成長しなくてええんやで」というヒッケル先生の言葉は、そろそろ出口戦略のことを考え始めているアラフィフには突き刺さる。
ただし、ヒッケル先生も言っているように、この場合の「成長」とは、個人の成長、社会の成長という意味合いではなく、資本主義のシステムが、そのシステムを延命させるために不可避的に求められる成長=利益の追求、という資本主義システム自体の成長をさす。
そしてこのシステムは、おのずと、そこにいるわれわれにもそのようなシステムの「成長」へのコミットを強いる。われわれもまた、資本主義システムの中においては、そのシステムを動かす一要素としてあるのである。
これをヒッケル先生は「成長主義」として、資本主義の教義である、と指摘する。
そもそも経済学の本は滅多に読まないのだが、この書を手に取ったのは、デカルトの二元論に対して、わがスピノザを対峙させているということを知ったからである。
ヒッケル先生の論調は、今日の資本主義経済の間違いは、人間が、自然というものを支配し、自由にこねくりまわし、消費できるものとして捉えてしまったことにあるのだという。現に、資本主義は過剰なまでに自然を食い尽くそうとしている。その過ちの源流が、デカルトの二元論にあるのだ、ということがベースになっている。
ヒッケル先生によれば、デカルトの二元論とはこうだ。
「一方は精神(魂)で、もう一方は単なる物質である。精神は特別で神の一部。人間は精神を持つという点で特別な存在である。自然は精神を持たない、意識はない単なる物質、機械にすぎない」
この考え方は教会の権力を強化し、資本家の労働と自然からの搾取を正当化した。西洋の植民地化支配に、道徳的な根拠を与えた、ということで、デカルトが徹底して批判される。
ここでは、デカルトが、かなりの悪者にされている感じだが、いまやデカルトはそのような象徴となってしまっている。それに対してスピノザをもってくるというのは、最近の科学者や経済学者の常套手段になっている感じがしており、これについては若干の違和感を覚えなくはない。
ちなみに、「スピノザは称賛されてしかるべき」という風潮は、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが警鐘を鳴らしていたが、その通りだという側面がある。
今日におけるスピノザ流行の一翼を担ったものは、間違いなくドゥルーズやネグリとかなのだと思うが、レヴィナスのようにスピノザを徹底して嫌悪する人がいたってよい。あるいはデリダのように沈黙、無視し続けるとかがあってもよいのだが、スピノザを手放しで称賛するというのは、かつてのヨーロッパにおいて、デカルトがもてはやされていたことの反復ではないだろうか、という気がかりはある。
とはいえ、スピノザの思想は、ポスト資本主義の世界観を打ち出すにはもってこいなのかもしれない。そのことは否定しない。
だが、スピノザは、自然賛美やユートピア主義といったものとは無縁であった。未完となった彼の政治に関する著作、『政治論』を読めばわかるように、それはマキャベリのように、徹底したリアリズムなのである。
「資本主義の次に来る世界」といった時に、このユートピア主義に陥らないかは非常に重要である。
頭ではわかっていても、われわれの生活はどこまでいっても「資本主義」に根差しているからだ。
その点、本著作はどうかというと、資本主義の次に来る世界は、スピノザ的な、世界を一つの実体として見る思想が大事であり、その思想と同軸にある、アマゾン流域などに昔から住み続ける、先住民の事例に学ぶべきだとする。
自然とともに暮らし、エコシステムをおのずと作っているのが先住民であり、彼らのアニミズムにヒントがあると、思考の転換のための方法論を説く。
例えば、アマゾンのアチュアル族。彼らは、「自然は存在しない」と考える。「人間」と「自然」ではない。彼らは、ジャングル一帯に「人間」を見ている。
ジャングルに生息する動植物のほとんどが、人間の魂と同様の、魂(ワカン)を持っていて、人間と同じ主体性、意思、それに自意識を持っているとさえ考える。
スピノザ思想とアニミズムは、親和性があるとはいえるが、それが直ちに等号で結びつけられるかというと、注意が必要とは思う。
そこでヒッケル先生は、その緩衝材的なものとして、なんと現象学のフッサールでつなぐということをしている。
20世紀半ば、このフッサールや、メルロ=ポンティなどの哲学者が、現象学という新たな枠組みを用いて、「人間だけが主体である」「人間と自然の二元論」という、われわれが慣れ親しんだ前提を疑問視した。
彼らは言う。
現象学は、精神と身体を区別することをきっぱりと否定したのだ。
フッサールの「間主観的世界」についての説明は省くが、ここには明らかに、同時代を生きた、生物学者ユクスキュルの影響がある。ユクスキュルが唱えた「環世界」の概念がそれだ。
環世界とは、
「すべての生物は自分自身が持つ知覚によってのみ世界を理解しているので、すべての生物にとって世界は客観的な環境ではなく、生物各々が主体的に構築する独自の世界である」
という生物の営みと、その営みがなされる世界との相互関係をさす。
ヒッケル先生は、スピノザとアニミズムをただちに結び付けることなく、フッサールの間主観的世界を持ってくることで、スピノザには見られない「主観」「主体」の問題を補い、われわれが意識すべき世界、学ぶべき世界とは、原住民がもっていた思想、世界観にあると説く。
そして、資本主義という「成長」を強制する教義から解放され、生命ある世界との互恵関係に根差す未来、人間の幸福と生態系の安定を重視するポスト資本主義へと移行しなければならないのだと、言う。
そして、改めて、「成長しなくてええんやで」と、囁くようにして、「脱成長」と「脱資本主義」を説く。
正直、ポスト資本主義の議論においては、マルクスを持ってくるのか、スピノザやアニミズムを持ってくるかの違いはあれ、似たような論調になっているのは、否めない。
じゃあ、具体的にわれわれは、そのような社会に、われわれ自身で導くためにはどうすればいい? となりがちだが、重要なことは、この資本主義の教義の中で、無自覚、無意識のまま隷従してしまっているわれわれにとって、少しでも立ち止まって、自分の今のビジーすぎる状況を振り返ることである。
「成長」しくなくてもいい。そう自分に言える日が、あってもいいんじゃないか?
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