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その他、書評やエッセイ

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哲学や文学、科学といった本の書評、映画や格闘技などの雑記、エッセイをまとめています
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我、忘れる、ゆえに我あり

 AmazonのPrime Videoで、『IWGP・池袋ウエストゲートパーク』が配信されていた。懐かしのあまり、一日で全話、一気見してしまった(笑)。  窪塚洋介演じる「KING」のキャラクターは、今なお傑作である。 『IWGP』を見ていたこともあり、脳内ではずっと、作品の主題歌である『忘却の空』がリピートしている。清春が歌い上げる、SADSの代表的なナンバーだ。    そんなこともあってか、ふと「忘却」というワードが異様なまでに気になりだしてしまったのであった。そして

人はなぜ集団行動に駆り立てられるのか? エリック・ホッファー『大衆運動』を読む

波止場で働く哲学者ホッファー  ドイツ系移民としてアメリカはニューヨークで生まれた異色の哲学者、エリック・ホッファー(1902‐1983)の最初の著作、『大衆運動』。原題は『The True Believer: Thoughts on the Nature of Mass Movements』(1951年)。  ホッファーは正規の学校教育を受けていないのだという。港湾労働者として働きながら思索を続け、発表した本が反響を呼び、哲学者として知られるようになった。大学教授にな

『資本主義の次に来る世界』を読む スピノザ−フッサール−アニミズム?

 7月に入ってから、心身が削られるような暑さが続いている。暑いというよりは、もはや熱い、痛い。  熱風式で身体の細胞が焙煎され、搾りカスのようになってしまいそうだ。    仕事で、外回りをしていると、特にそのことを感じる。  オフィスに戻って涼んだのち、しばらくして帰宅しようと思ったら、エレベーター前ですれ違った同僚に、「グッチさん疲れていますね」と言われた。  自分ではそのつもりはなかったのだが、やはり体力も気力も消耗しているのだろうか。  そんな時に、たまたま読ん

まるで『特攻の拓』の世界!RIZINフェザー級戦線の「混沌」は、朝倉未来がつくった

 RIZINのフェザー級戦線が混沌としている。この混沌具合は、さながら『特攻の拓』ばりに、誰が一番強いのかが「決まらない」、相対的な世界である。  ヒーロー漫画の定石は、週刊少年ジャンプであろう。絶対的なヒーローがいて、そのヒーローの目の前に強敵が現れては、順番に倒し、段階的に強くなっていく。いわば、「直線的」なストーリーというのが、少年漫画のお決まりである。  しかし、私の記憶する限り、その少年漫画のお決まりを、ことごとく無視したのが、週刊少年マガジンで連載していた、ヤ

「見えない力」を哲学する#0 プロローグ的なもの

 *   17世紀のデカルト主義以降、われわれはあまりにも近代合理主義的、科学主義的な思考、価値概念に慣らされすぎてしまっている。  これによって見失われている、あるいは嘲笑されているものが非合理的な思考、すなわち、神的なもの霊的なもの魔術的なもの信仰的なものであるというように見受けられる。  だが、科学的、論理的に説明できないからというだけで、非合理的なもの、あるいは、近代以前の人間の知(たとえば神話や宗教、迷信、幽霊的なものなど)を嘲笑するものは、その非合理的なもの

『悪は存在しない』を見る。「感情移入」の否定、あるいは「主観的視線」の解体について

あらすじ・登場人物 『ドライブ・マイ・カー』、『寝ても覚めても』でも話題の映画作家、濱口竜介監督の最新作、『悪は存在しない』を見てきた。この映画を見たことによる衝撃を、なんとしてでも言語化したいと思い至り、私が考えたことを、雑感のような形でまとめたいと思う。  正直、まだうまくまとまっていない。映画を見終えた後同様に、私はいまだに宙に放り出されたような感覚の中にあり、この映画がわれわれに突き付けた問いが何であるのか、わかっていないのだが、手探りながらも、この映画が一体

私たちの世界は弱肉強食の世界なのか『理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ』を読んでの雑記

 自然界は弱肉強食である。食物連鎖の頂点に君臨するものが、進化した生命体、人間であり、この熾烈な競争社会をその知性によりサバイブしてきた。ずっとそう思い込んでいた。学校でもそのように習ったのかは、記憶が定かではない。だが、確実に、脳に刷り込まれている。いろんなところで、耳にし、目にしてきたのだろう。  稀代の読書家であり、文筆家の吉川浩満氏による『理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ』の序章でも、著者は以下のように言う。  進化論といえば、チャールズ・ダーウィンが提唱したもの

読書とはスポーツである 私の読書計画

読書とはスポーツである。  半分はあくまで比喩として、残り半分は本気でそう思っている。  まずは、「スポーツ」の定義を引っ張ってみたい。  ラテン語本来の意味でいくと、「気分を転じさせる」「気を晴らす」というのは驚きだ。心身の健康を目的にしていること、気分転換を、スポーツとするならば、読書もまた十分、この定義の範囲内であろう。  すると、こういう反応があるかもしれない。読書は心の気分転換、心の鍛錬はできるかもしれないが、「身体は鍛えられない」と。  読書では身体

ギャング映画考:家族主義かウルトラ個人主義か、変容するマフィアの描かれ方

愛すべきギャング映画たち    私はアウトローを描いたギャング映画、マフィアものには目がない。食指が動かされるというか、無条件で飛びついてしまうジャンルなのである。これは私に限らず、賛同してくれる世の男性は多いと思う。組織同士の覇権争い、その中で勝ち抜く強さ、タフさ。あるいは一般社会のルールをはみ出していく破天荒さ、自由奔放な振る舞いへの憧れ、というものが、きっと本能レベルで存在しているのだ。  これらは、暴力や武力的な争いというものが禁じられている現代社会において、とり

あの言葉を手繰り寄せる#1「芸術のことは自分に従う」小津安二郎

 読んだ時にはいたく気に入り、深く響いた言葉だというのに、メモをとることを怠ってしまったばかりに、ふとした瞬間に脳裏をよぎるのだが、一体誰の言葉だったかと考えあぐねてしまい、喉に引っかかった魚の骨みたいに、もどかしい思いを募らせてしまうということがよくある。  歳をとってから、なおさらその傾向は強くなり、もはやネット検索とAIチャットボットが手放せなくなってしまっている自分の現状を嘆きながらも、なんとかその記憶を手繰り寄せ、改めて目にすることとなった言葉たちとの再会は、ひと

本の街、神保町のこと

 昔から、書店めぐりが好きである。Amazonで本を購入するということが当たり前になってしまった今でも、月に何度かは街の書店に行くことを習慣としている。ネットでの購入は、あらかじめ、自分の中で既に買うと決めているものを買うことが多いが、書店においては偶発的な出会いが多い。  こんな本があるのかという出会いから、何気なく手にとった本をめくってみて、こんなことが書かれていたのか、という発見まで、書店には、ネットではたどり着くことができない情報、というよりは「体験」がある。  

中上健次の作品を読む#1『十九歳の地図』

十九歳、文学の巨人と出会う    中上健次には、ジャズがとてもよく似合う。それも、ジョン・コルトレーンのような、縦横無断に疾走するジャズ。それでいて、熱っぽさの中に時々垣間見える孤高の嘆き。ひと言でいって、黒っぽいジャズだ。    僕なんかは、ソニー・ロリンズとかセロニアス・モンクの方がお気に入りなのだが、中上健次となると、やはりコルトレーンや、アルバート・アイラ―を想起せずにはいられない。彼自身が、熱狂していたからというのもあるし、フリージャズが持つ自由なる狂気、高貴なる

自己紹介的な、あまりに自己紹介的な

 こんにちは。Guttiと申します。自己紹介的な記事をあげていなかったので、改めて自己紹介をさせて頂きます。  1978年生まれ、読書と書くことがライフワークのサラリーマンです。じつは小学生の頃から、noteをやっていました。  というのは冗談ですが(笑)、書くことは昔から好きでした。同時に本を読むことが好きです。読書は、だいたい、月で8冊くらい。年間100冊読むことを毎年のライフ計画にしていて、今のところ継続できています。私にとって「読むこと」は、「書くこと」と切り離す

考えてみたら、30年前からnoteやってた(苦笑)

 noteってなんでこんな面白いのだろう、と日々noteで記事を投稿していて思うのだが、考えてみると、私が小学5年生のとき、つまり30数年前の11歳の時から、noteの走りのようなことをやっていたものだと思い当たる。  A4サイズの印刷用紙を縦に使って、自由に文章や絵を発信してよい、「個人新聞」作りというものが、クラスで始まったのだ。  当時の担任の先生のアイディアによる、授業外での取り組みで、他にやっている学校やクラスは少なかったように思う。  どういったものか、具体