教材研究の現在地

 うーん。そんなにやれているもんですか?教材研究。正直言って今学校現場で行えている教材研究というのはかなり厳しい状況です。そんなに授業1時間に対して時間を掛けられているとは言えないと思うんでけど・・・

 何度も言いますが、教科担任と学級担任では割ける教材研究の時間には差があります。圧倒的に教科担任の方が多い。だから小学校に教科担任制が導入されていると言われるならそれはそれでいいのですが、正直それで1教科しか教えない中学校や高等学校と同等になるとは言えないわけです。

 1教科あたり5分間で何ができるのかということ。勤務時間としての教材研究の時間は判例では1時間あたり5分が妥当ということです。しかし5分以上割いたところで、というか何時間掛かっても満足いくかどうかというのは本人の感覚にすぎません。

 さらに協働的に教材研究を進めるということは、さらに時間と労力がかかります。しかし今現場での研究では「協働」であることが善であるという前提で物事が進められることが多い。特に校内研究の最新スタイルというのはこれが採用されていることが多いわけです。対話という言葉が独り歩きしていることもその一因かと。正直対話は相手によります。私なんか特に嫌がられるタイプですし。そういえばこないだも研修内のランダムなグループ決めで座った瞬間「えー」って言われたような。

 こうした教員の現状に対して、マニュアル本や大学教員および教育委員会制度、文科省が求める「あるべき教師像」というのは苛烈すぎませんか?単純にそう思うわけです。

 個人的な自分の感想を洩らしてしまえば、もっとできる、もっと上手くなりたい、世界で一番いい授業したい、そう思うわけです。できればいかなる方向から飛んでくる要求に応える要素満載の授業をしてそうした批判や疑問や課題に正対できる己でありたいと思うんです。
 しかし実際のところ、一つの学習目標をクラスルーム全員に押し込むことができる授業ができることすらなかなか稀です。自分にとって最低限と考える授業が日々続くわけです。大人になると他人にはなかなか褒めれられないですので、こうしたことがメンタルにじわじわ効いてくるはずです。(私は書くことで逃がしています。)ましてこうした外部からのプレッシャーが多くかかる社会的要因に加えて情報の流動性が異様に高まっている現代においては尚更効いてくるでしょう。
 マスコミや大学教員・専門家・学識経験者・デキる教員を「かたる」人間、教育委員会の人間、文科省の通知や取り組みといったものが発する情報のシャワーは総じて(こう書くとエビデンスは?とか言われますし、根拠がないことを証明するのは厄介です。論破みたいなヤメタもん勝ちの遣り口もメンドーです。)教職員に対しては雑音であり、不協和音みたいな感じなんだと思います。

 こうしたものの例としてがまくんの「あー」を取り上げたわけです。
 まあ、確かにあの書き振りでは伝わらんよな。書きぶりが良くない。でもまあ推敲なんかしないし。辞書引いてまでSNSを書くつもりなんぞありません。そんなのAIもどきにやらしとけばよくないですか?そんな暇もありません。私にとってnoteは思考の足跡です。読めない人間をなんとかする責任は私にはありません。

 まあぼやきはこれくらいにして。
 じゃあこんな教材研究できない状況をなんとかしたいと考えるわけです。もちろん教材研究しない(ように見える)平常(運転のフツーの)授業が悪いわけではない。それはそれなりの意味がある。批判の対象ではないです。まして外部からの雑音でペースを乱されるなんてアホらしいことです。

 しかし私は今の教材研究できない状況と授業にSOMETHING NEWを強要する雑音が二重に教職員を苦しめていると考えます。それが今の教材研究の現在地であるのではないかと考えるわけです。

 なんとかしたいし、なんとかしてあげたい。そう考えて行動すればするほど他者を、自分を苦しめる。そうしたことはすでに何校も、何人も通過してきたことです。
 解決が本当に難しい。
 教材研究が本務になる公立小学校ができるといいなと思うわけです。

 
 

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