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嫌われる利発顔

利発りはつおもてに出し候者は、諸人け取り申さず候。ゆりすわりて、しかとしたる所のなくては、風体ふうていよろしからざるなり。うやうやくしく、にがみありて、調子静かなるがよし。

葉隠 聞書第一 一〇八

 常朝は十三歳で元服したのを機会に、一年間家に引きこもり鏡を見ては顔付きを変えることに努めたそうである。その動機は、一門の人々から「利口な顔をしているので、早晩そうばん利発顔がお嫌いな殿様にうとんじられることになることだろう。」と常々言われていたからである。そして一年後、利発さの消えた顔付に接した人々から驚きと安堵の声が上ったという。
 顔付には内心が反映するもので、「知」を誇る気持ちが旺盛であれば、自ずと取り澄ましたかしこい顔立ちとなって接する人に苦々にがにがしさを与えかねないからである。織田信長が、重用ちょうようしていた明智あけち光秀みつひでをいつしかうとんじ始めるようになったのは、あまりにも多方面に明るい光秀の才知あふれるしたり顔に辟易へきけきしたためだとも伝えられているが、さもありなんという気がする。その点秀吉は、生来せいらいの顔付もさることながら、神経質なくらい信長の猜疑さいぎしんの強い性格を意識し、徹底した三枚目で通している。いかにもぜろから出発した者の人情の機微きびを読むにけたしたたかさが感じられてならない。

 常朝は十一歳で父と死別した後は、二十歳年上のおい山本五郎ごろう左衛門ざえもん常治つねはるに何かと指導を受けている。家に引き籠っていた一年の間に己のちっぽけさ、非力さに気づきながら謙虚な心を育てていったものと思われる。

 利口さが顔に表われている間はまだまだ心の修業が不十分ということであり、周囲からの全幅の信頼を得るまでには至らないのである。


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