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すり替えられた縄文の歴史 ~古事記は縄文の封印のためにつくられた?!~


Ⅰ.古代の文献が焼かれてしまったのは、平安時代の戦乱が原因?

縄文を調べていると、古い記録があまり残っていないことに気づきます。その原因の一つは、平安後期に起こった、保元の乱、平治の乱
「保元の乱」は、崇徳上皇と後白河法皇が皇位継承をめぐる争いに、源氏と平氏の武力を利用した政変。のちに争うことになる源義朝と平清盛は、この時点では味方として後白河天皇方に付き勝利。その結果、武士が力を持つようになり、のちの武家政権へと繋がることとなります。
かわりに、平安時代に権力を集中していた、大貴族の藤原氏が没落し、かわりに、源氏や平氏といった武家軍団が勢力を伸ばしていくことになります。

次に起こった「平治の乱」は、「保元の乱」でともに勝者となった源義朝と平清盛が政権を争って1159年(平治元年)12月に戦った戦乱です。
こちらは、源氏が敗れ、平氏が勝利。「平氏にあらずんば人にあらず」と言われた平氏全盛期につながっていきます。この二つの戦で、平安時代と、それ以前の書物は焼かれ、現代にほとんど残っていません。

私は思春期の頃、少女向け文庫の「何て素敵にジャパネスク(氷室冴子作・コバルト文庫)」を読みました。この小説は平安時代の貴族の、おてんばなお姫様がヒロイン。その後「花とゆめ」の雑誌(白泉社発行)でマンガ化されました。
この原作をマンガにした漫画家の山内直美さん。「何て素敵にジャパネスク」のコミック本の後書きに、この方が、「平安時代の資料は、保元・平治の乱で焼けてしまったので、資料がない~。平安時代は古代!!」みたいなコメントが、書かれていたのを覚えています。実際に、保元の乱と平治の乱。この二つの戦乱で、平安時代とそれ以前の歴史書が、ほとんど焼かれてしまったそうです。
 

 

Ⅱ.君臨する権力者たちによる焚書 ~奈良時代の焚書とは?~

しかし実は、奈良時代に大規模な焚書が行われていたと言います。焚書(ふんしょ)は、書物を焼却する行為。通常は、支配者や政府などによる組織的で大規模なものを指し、言論統制や歴史の改ざん、検閲のために、しばしば権力者たちに行われてきました。
古代、この焚書をしたことで有名なのが中国の秦の始皇帝。始皇帝は、古代から伝わる貴重な書物を次々と焼いていきます。その中で焚書をまぬがれたのが、易経(えききょう)と呼ばれる、易占いのテキスト。

易は「占い」となり、政治的思惑を外れ、始皇帝の焚書をまぬがれました。そのため当時の知識人たちは、焚書で失われる古代の英知を、この易経につめこんだそうです。実際に易経を読みましたが、奥深く興味深い本でした。
また始皇帝は史上初めて、「帝」を名乗った人物です。以前、易占いの講座を受講した際、易占いの先生が「始皇帝が自らを、帝と名乗ったのは、始皇帝のおごりだ」と言っていたのが印象的でした。何でも「帝」という言葉は、宇宙の北極星に座する「天帝」をさし、本来、人間が名乗ってはならない敬称。それくらい、始皇帝は自らの権力を、北極星の天帝になぞらえ、並ぶものがいない絶大な存在として、君臨したかったのかもしれません。
 
 

Ⅲ.縄文の封印?鬼として滅ぼされた古代王国・鬼無里(きなさ)

日本では、奈良時代に大規模な焚書が行われました。そのカギを握るのが、天智天皇(中大兄皇子)、藤原鎌足、そして天武天皇です。
彼らがめざしたのは、当時、圧倒的な軍事力を持ち栄えていた、唐の律令制度を日本に持ち込みむこと。律令とは法律をさします。
おそらく天智天皇(中大兄皇子)と藤原鎌足は、唐の律令をまねて、自分たちでつくった法律を全国に行きわたらせ、それを日本全土に普及させようとしました。
そのためには、ヤマト王権による日本統一が急務でした。
そして日本各地にいまだ残っていた、先住民系?の古代王国を攻略していきます。その一つが、長野県の「鬼無里(きなさ)王国」でした。

長野県の「鬼無里(きなさ)」は、天智天皇の弟の、天武天皇によって攻略されます。鬼無里は戸隠のすぐそばにあり、もとは「水無瀬(みなせ)」という地名でした。天武天皇はこの水無瀬に、朝廷の都を移すことを考えます。ですが、水無瀬に住んでいた先住民たちは抵抗します。
怒った天武天皇は攻勢をかけ、鬼無里に住んでいた先住民は滅亡します。
その後、天武天皇が、「鬼がいなくなったので、この地を鬼無里(きなさ)と呼ぼう」ということで、水無瀬は、鬼無里という地名になったという伝承が、地元に残っています。つまり、天武天皇によって滅ぼされた先住民。それが「鬼」と呼ばれた縄文系民族ということになります。



Ⅳ. 奈良時代、滅亡した縄文系王国、新潟県の「高志(こし)国」

ほかにも、新潟県に「高志(こし)国と呼ばれる、古い国がありました。この「高志」は古事記や出雲風土記(いずもふどき)などの文献に登場します。有名なのが、大国主命(おおくにぬしのみこと)が、この高志に住む、絶世の美姫に求婚し、結婚したという逸話。
この高志国はとても広く、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域にわたる王国でした。その高志国も、天武天皇によって滅ぼされ、その後、日本の律令制度に組み込まれます。そして692年、天羽天皇の妻だった、持統天皇の時代に、越前国、越中国、越後国の3国に分割され、高志国は完全に滅亡します。
越前は、現在の福井県。越中は富山県。そして越後は、新潟県の、佐渡を除く全域にあたります。つまり、古代の福井県、富山県、そして新潟県は「高志」と呼ばれる、広大な縄文系王国だったのかもしれません。
 



Ⅴ.焚書の目的は、縄文の封印?

話は戻りますが、奈良時代、なぜ焚書が行われたのでしょうか?それは、奈良時代以前の歴史に手を加えるため。いわば縄文の封印が目的の一つではないかと思います。私は縄文に興味を持っていから、縄文の歴史が、正史から消されていることに気づきました。
縄文人は正史では、エミシ(蝦夷)と言われています。蝦夷(えみし)とは、北東日本に住み、ヤマト王朝の支配に抵抗し、その支配の外に立ち続けた人たち。

そのため、蝦夷という漢字は良い意味ではなく、そこにはヤマト王権に従わない縄文人に対する、支配者側の苛立ちを含んだ蔑称がこめられています。
また、蝦夷(えみし)はアイヌをさすという説があります。

ですが、日本書記は、このエミシを「愛瀰詩(えみし)」と表現しています。これは、三文字とも麗わしい文字を使用しており、「えみ」しの「え」は愛をあらわし、「瀰」は水の盛んなさまをあらわし、「し」は「詩」。
愛瀰詩(えみし)は、古代の人々が「えみし」にあてた、尊称でした。
日本書紀は愛瀰詩を「一人で百人に当るほど強いが、戦わない人々」と伝えています。
エミシとは争いを好まなかった縄文人が起源です。

奈良県の生駒山に残る、「生駒神話」によると、古代から日本に住んでいた縄文人は、後からやってきた渡来人との争いを避けるため、近畿地方を出奔し、遠く東北の地を目指したと伝えています。
そして東北に渡った縄文人の中には、秋田県の地名の由来となった秋田氏や、東北で栄えた、奥州藤原氏の先祖にあたる安倍氏をはじめとした、東北の有力氏族になった人たちがいました。また争いを避け、自然とともに生きることを選び、アイヌ民族となった人々もいたそうです。
 
私自身、縄文を知るまでは、アイヌ民族が縄文直系であることも知りませんでした。アイヌ語は縄文直系の言語。
本州に住む日本人の縄文DNAは約10%。そしてアイヌ民族の縄文DNAは、約50%~70%で、アイヌ民族のほうが、より多くの縄文DNAを持っているとされます。そしてほぼ日本全国に、アイヌ語が由来の地名や、史跡が残っていることに驚きます。
富士山の名前の由来も、アイヌ語で火の山を指す「ふんち」「ぷし」から来ているとか?! ほかに諸説ありますが、浅間(あさま)山の地名も、アイヌ語でアソ―(噴火)オマイ(場所)「アソ―オマイ」噴火口のある場所から来ていると言います。

また江戸という地名の由来も、アイヌ語。こちらも諸説ありますが、江戸(エド)は、アイヌ語の 「エトゥ」 が語源だそうです。
エトゥとは「岬」を意味するアイヌ語ですが、 昔の地図を見ると、江戸の重要な位置を占めるところに 江戸前島 という半島があります。 この江戸前島は、家康が大規模な湾岸の埋立工事をするまで、半島として存在していました。
これらがあらわしているのは、古代、日本全土に縄文人が住んでおり、その名残が現在も残る、アイヌ語由来の、地名なのかもしれません。
いわばアイヌ民族は主に北海道や東北に住む民族ではなく、、かつては日本中に住んでいた縄文の先住民の末裔でした。
 
 


Ⅵ. 追いやられる先住民。勢いを増す新しき人々

縄文は日本の先住民族。ですが現在、世界的にも先住民族の地位は、決して高いとは言えません。アメリカ合衆国のネイティブインディアン。オーストラリアのアボリジ。いずれも有色人種です。それらの国々の共通点は、先住民が追いやられ、後から来た人々が優位に立っているという点です。
日本でも縄文直系の、アイヌ民族は優遇されているとは言えない状況です。ちなみに本州に住む日本人よりもアイヌ民族のほうが、肌が浅黒く、より顔立ちが深い、有色人種の特徴を持っている気がします。
有色人種は非白人をさし、浅黒い肌に黒い髪です。

またイギリスやスコットランドに住むケルト民族は、最初は有色人種でした。しかし現在、イギリスやスコットランドに住むケルト民族は白人。
なぜイギリスに住むケルト民族が白人になったかというと、その理由は、ケルト民族が入れ替わったから・・。

もともと英国であるグレートブリテン島に住んでいたケルト民族は有色人。しかしヨーロッパ大陸にもケルト民族が住んでおり、彼らは白人でした。そして古代のヨーロッパは争いの絶えない場所だったため、白人のケルト民族は安住の地を求め、イギリスに渡ったと言われています。
その後、イギリスの先住民族だった、有色人種のケルト民族は次第に追いやられ、かわりに白人のケルト民族が優位に立ち、有色人種であったケルト民族は姿を消します。そして現在、イギリスのケルト民族は白人のみとなったそうです。

先日、ローマ法王庁の教皇が、17世紀、ヨーロッパ諸国がカナダを攻略した際、ヨーロッパのカトリック教会系からの、先住民族(非白人)への迫害がすさまじかったことに対して、謝罪したことが、海外で大きなニュースになりました。
カトリック教会系がおこなった、先住民に対する迫害は、書くことができないほど、悲しい出来事ばかりなので、こちらでは省略しますね。
しかしそれくらい先住民族の歴史は迫害が多く、正史から消されることがしばしばでした。その裏には世界の実権が、もともとその土地に住んでいた人々ではなく、後からきた人々が権力者になり、歴史もまた、強者により紡がれていったことが影響しています。
 


Ⅶ. 焚書により紡がれた正史 

そしてそれは日本もたぶん、同じでした。奈良時代以降の、日本のヤマト王権。彼らはもはや純粋な縄文人ではなかったようです。
日本民族はいろんな血が混じっています。イギリスのオックスフォード大学の歴史教授は、「日本人にはヒッタイト民族のDNAが流れている」と公言しています。ほかにも、朝鮮半島や中国大陸。そして秦(はた)氏をはじめとするヘブライ人などの人々も、古くから渡来し、縄文人と交わっていったと言われています。
そして日本では、時代を経るごとに、朝廷もいろんな血が混じった、権力者が存在していくことになりました。そこで権力者たちが考えたのは、自らを守る正統性。いわば、日本を統べる正統性が、自分たちの朝廷にあることを天下に示すことでした。

そのために日本に古くから住んでいる、純粋な縄文人の歴史を抹消し、朝廷の高い地位にいる人たちの正統性を高めることを考えます。
そのために、古代の文献を焼く焚書が行われるようになりました。

奈良時代、古文献の焼却を行ったのは、藤原鎌足と、中大兄皇子(のちの天智天皇)。
この二人はまず、飛鳥時代の645年に、当時、大王家をしのぐほど権勢を持っていた蘇我入鹿を宮中で暗殺します。そして蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼし、その後、大化の改新を断行します。いわば、クーデターにより実権を握ったのが藤原鎌足と、中大兄皇子でした。
そのため『クーデターは正しく、自分たちが王権を持つにふさわしい正統な継承者』であることを示すため、焚書を行い、都合の良くない、古文献を次々と焼いていったのかもしれません。

この流れは、天武天皇(大海人皇子)にも受け継がれました。しかし天武天皇はもともと皇太子ではなく、天智天皇(中大兄皇子)の嫡子の大友皇子が、皇太子でした。
奈良県の吉野に逃れていた大海人皇子は、天智天皇が死んだことを知ると、電光石火の勢いで軍隊を引いて、大友皇子を打ち破ります。そして大海人皇子は天武天皇として即位しました。
つまり、天智天皇も天武天皇も、クーデターにより、帝位についた人物。それゆえ、より強い皇位継承の正統性を持つことを欲していました。
藤原鎌足から始まった古文献の焼き討ちは、さらに、自らが持つ権力の『正統性』へと発展していきます。そこでて始まったのが、日本の古代史を(自らの)立場を正しいという視点で編集すること。それが古事記の作成につながっていったのではないか?と思います。
 
ところで奈良時代、藤原鎌足が行った焚書は正史でも残っている、事実のようですが、これ以外にも古墳時代、当時、急速に力をつけた新興勢力により、縄文の文献を差し出すよう強要されることが起こっていました。
その一つが神代文字で記されたとされる、竹内文書。この竹内文書には、ムー大陸や「スメラミコト(天皇)」と呼ばれた日本の王たちのスピリチャル的な内容もあり、その奇想天外さゆえ、正史では偽物となっています。
ですがこの竹内文書でさえ、古墳時代に、勢いを増した新興勢力により差し出すことが要求されました。
一説によると、新興勢力によって、竹内文書を差し出すことを要求された当時の天皇は、竹内文書を臣下に託し、その臣下を殺したことにして、文書を持って逃がしたと伝えられます。そして逃がした臣下の子孫が、現在、竹内文書を守り伝える一族です。(※正統派竹内家と呼ばれています)
竹内文書は世界最古の歴史書とされ、日本だけでなく、海外からも興味を持つ人が多い文献です。
 

Ⅷ. 縄文の封印は古事記から

古代から日本でも行われていた大がかりな焚書。その一つがおそらく、中大兄皇子や藤原鎌足によって行われた、古文献の焼却。彼らは焚書により、当時、存在していた縄文の歴史を焼却します。かわりに作ったのが、律令制度。
唐のように、朝廷が強力な権力を持ち、国を統一する政治のはじまりです。
そのためには、日本全土を治めるだけの正統性と権力を全国に示すことでした。そしてそれは成功し、日本はヤマト王権によって歴史をつむいでいくこととなります。
そして藤原鎌足を始めとした権力者たちは、焚書で失った古文献の代わりに、新たな古代史の書物の必要性を認識します。そこで作られたのが、古事記。

古事記をつくる際、朝廷は、稗田阿礼(ひえだあれい)という人物を召喚します。稗田阿礼は、飛騨出身の神官だったとか?!
阿礼の死は諸説あり、65歳まで生きたという逸話もあれば、古事記作成後、亡くなったという説もあります。
宮崎県の高千穂で見つかったという碑文(郷土誌『すみのえ』一〇四号所収)によると、「ヒエタノアレモコロサレキ」(稗田阿礼も殺されき)という碑文が記されていた、とのこと・・。この高千穂碑文によれば、阿礼は古事記が完成した712年のある日、突然、何者かの手によって暗殺されたことが、記されているそうです。

奈良県大和郡山市に賣太(めた)神社という、阿礼をご祭神として祀る神社があります。権力者によって消された人物や、非業の死を遂げた人物が、「神」として祀られるケースは歴史上多く、阿礼もそうだったのかも?と思ってしまいます。

もし阿礼が消されたとしたら、その理由は何だったのか?それは恐らく、朝廷にとって都合の良くない歴史を稗田阿礼が知っていたから。
阿礼が語った縄文の歴史・・。それは飛騨に伝わる縄文の伝承がルーツでした。飛騨は縄文を語る上で外せない場所。
古事記で初代天皇とされる、神武天皇。飛騨の伝承では、神武天皇は「サヌ」という名前の王子で、飛騨王国出身となっています。
また飛騨口碑では、縄文期、飛騨王国と出雲王国と同盟を結んでいましたが、出雲側の都合で決裂。出雲と飛騨は別々の道を歩くこととなります。

興味深いことに、出雲はヤマト王権と手を組み、古墳時代以後も栄えます。近代では、2014年に、天皇家の高円宮家の次女、典子さま(25)が、出雲大社の神職、千家国麿とご結婚されました。
出雲は縄文系ですが、現在も、天皇家の皇女が嫁がれるくらい、王権にも近い存在であるようです。

それに対して飛騨王国は5世紀、ヤマト王権により攻略されます。
約1600年前、岐阜県の飛騨では、ヤマト王権の攻略に、両面宿儺(すくな)と呼ばれる人物が、立ち向かいました。
両面宿儺は正史では悪役として書かれますが、地元飛騨では、武勇にすぐれ、神祭の司祭者であり、農耕の指導者でもあり、地域を中央集権から守った英雄であったと語り継がれています。
そんな飛騨には、縄文の歴史もたくさん残っていたのかもしれません。そしてそれらを知り、神官でもあった阿礼は古事記作成のため、奈良時代、藤原不比等らにより、朝廷に召されました。

阿礼は「帝紀、旧辞」といった、難解で長い古文献を暗記した人物として知られ、これらの古文献をもとに古事記はつくられたそうです。しかしそれ以外にも、阿礼が飛騨出身であったことも影響していたのではないか?
(ちなみに古事記作成後、この「帝紀、旧辞」の古文献も焼却され、この世から消えました。)

昔のことなので、本当のことはわかりません。ですが朝廷は、阿礼が語った飛騨口碑で、良いものだけをピックアップし、都合の良くないものを削除してできたのが、おそらく現在に伝わる古事記。
阿礼が語った縄文史を、藤原不比等たちは検閲します。そして検閲しながらつくられたのが、古事記という可能性が高いのではないか?
そうだとしたら、阿礼が語った縄文史と、それらを元に作られた古事記は、まったく同じとはいえないのかもしれません。

朝廷が、古事記を作った目的は、「律令制度」という、日本全土にいきわたらせる法律の正統化を示すため。そして、そのために必要だったのが、その朝廷であるヤマト王権の正統な血統性を示す歴史書。
いわば、民衆を従わせる正統性を、奈良時代のヤマト王権は欲していました。

そして古事記の作成は、藤原鎌足、そして天武天皇、さらにそれを受け継いだ権力者たちにより行われていくこととなっていきます。
いわば古事記のもととなった、本当の歴史を知る人物。それが稗田阿礼。
朝廷が自らの正統性を天下に知らしめるために、つくった古事記は、阿礼が語った古代史がルーツ。しかし出来上がった古事記の内容は、阿礼が語った内容と、まったく同じではありませんでした。
それゆえ、阿礼は葬り去られた可能性があるのではないか?と・・。

古事記完成後、縄文の正統な歴史を知っていた、阿礼は、逆に朝廷にとって、目の上のたんこぶとなり、古事記の正統性を損なう、要注意人物となってしまったのもしれません。

もし飛騨に伝わる口碑と古事記がまったく同じものだったら、阿礼は消されなかったと思います。朝廷が葬りさりたかった何かを、阿礼は知っていた。そしてそれを朝廷に語ったけれど、残念ながらその内容は古事記には記されなかった・・。

現代の日本人にとって、古事記は、縄文を知る手がかり。
ですが、古事記の作成は奈良時代に、さまざまな古文献が当時の権力者たちに焼かれたことから、端を発します。
いわば古文献を焼いて、その代わりになる書物を作成した。そして奈良時代の朝廷にとって都合の良くない歴史を葬りさり、かわりにつくられたのが古事記。
飛騨口碑や、「帝紀、旧辞」といった古文献をもとにつくられた古事記は、朝廷が『縄文の正統性』を自ら受け継ぐことを天下に示すことが目的でした。それゆえ、古事記にはさまざまな矛盾が存在します。古事記が謎に包まれているとされるのは、これが関係しているのではないか?と思います。


 

Ⅸ.焚書でも燃やされない願いは「和」 ~争いを好まなかった縄文の心~

奈良時代、どんな書物が焼かれたのか今は知るよしもありません。しかしもしその文献が残っていたら、私たちが知る古代史は、今と違った歴史であったのではないかと私は思います。
歴史は良い、悪いではなく、それを超えた何か。だけど失っていけないものは、自分たちのルーツ。日本の成り立ちに縄文は深く関わっており、日本人の争いを好まない「和」のルーツは、たしかに縄文人から受け継いだもの。
私が縄文に魅かれる理由。それは武力に勝る渡来系民族が日本にやってきた際、先住民であった縄文人は、日本の主導権を渡来系にまかせ、遠く東北の地に逃げました。そして争いを好まなかった縄文人はマイナーな民族になり、正史から消えていきます。

現在、縄文の歴史を知る手がかりは限られています。奈良時代の書物の焼却(焚書)や、平安の戦乱もあり、縄文史を伝える文献は少ないです。
現存する縄文の文献は「ホツマツタヱ」、そして聖徳太子が編さんしたとされる「先代旧事本紀」。竹内文書や、日本各地に残る伝承などです。
そしてこれらの古文献は、正史ではすべて偽物とされているものがほとんど。
それにも関わらず、どうして朝廷や権力者たちはこれ以後も、正史で偽物とされる、これらの古文献を焼き討ちしたり、検閲しようと試みたのでしょうか?

実は江戸時代も、縄文からの神道を継承する神社の古文献が幕府により焼却されたこがありました。たしか長野県にある「大御食ノ社」と言う神社で、そこの神職は、天皇家より古いとされる出雲国造(直系)より、さらに一代古い?日本最古の神官(縄文系)?!の血脈。
こういった古文献の焼却は、時代を経ても、ずっと行われてきたようです。

それではなぜ、古文献の焼却が続けられてきたのか?
それは多分、自分たちの正統性がおびやかされることを恐れたから。
せっかく自分たちの正統性をつむぐ古事記という歴史書をつくったのに、その古事記の元となった縄文の歴史が、表に出ると都合が良くない。
このことは現在、偽物とされる、これらの古文献の中に、逆に縄文を知る本当の手がかりが残されていることを示していると思います。
また過去の焚書の危機から逃れた、これらの文献が伝えるのは、縄文は決して未開ではなかったということ。古代の縄文人たちは、争いを好まず、高い文明を持ちながら、あえてそれを残すことを選ばず、渡来系民族とも共存することを選びました。

現代は弱肉強食です。世界的にも争いが絶えない世の中。
だけど縄文の生き方は、争いは好まない、けれど殺されることも選ばない。そんな古代の縄文人は、東北に逃げることで、争いの世界から身を引き、「平和」を貫く生き方を選びました。
そんな「和」を尊んだ縄文の生き方は、日本人がはるか昔に失った、大切な何かを現代の私たちに教えてくれるような気がします。
 
 


 
〈参考文献〉


https://note.com/jomonpeace/n/n3f48edd81001

そのほか、古事記、日本書記、出雲風土記、「ホツマ・カタカムナ・先代旧事本紀 古史古伝で解く!エイヴリー・モロー(著)ヒカルランド出版)」などを参照しました。
 


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