ヤマタノオロチは新潟出身?奈良時代、滅亡した新潟の縄文系王国「こし(高志)」の謎 ~千年鮭・縄文探訪~
・奈良時代、新潟県の縄文系王国「こし(高志)」が滅亡した理由とは?
少し前に新潟県の村上市を訪ねました。村上市には縄文直系のアイヌ民族の鮭文化が今も色濃く残っています。アイヌ民族は、鮭をイヤボヤと呼び、大切にしていました。イヤボヤとは「魚の中の王」という意味だそうです。
そんな新潟県は、古代、「こし(高志・古志)」と呼ばれる国でした。出雲風土記には、大国主(オオクニヌシ)が、高志に住む絶世の美姫に求婚し、結婚した逸話が残っています。古い歴史がある国でしたが、奈良時代、ヤマト王権が律令制度を導入してすぐ、この国も滅亡しています。
その始まりは奈良時代の645年の大化の改新です。これは中大兄皇子(のちの天智天皇)と、藤原鎌足が、当時、大王家をしのぐほどの権勢を誇った蘇我氏を打ち取り、滅亡させて断行した律令制度の導入がスタートでした。
律令制度とは「法律」のこと。彼らは、当時栄えていた、唐のような強力な軍事力と、リーダシップを持った国づくりを行うために、この律令制度を日本全土に導入しようとします。
いわば、律令(法律)というルールを定め、それを民衆に従わせ、日本全土を、ヤマト王権のもとに、絶対的な権力で治めようとしたのです。そのためには、いまだ各地に存在していた、古代王国を滅ぼすことが必須でした。
しかし奈良時代、新潟や東北には縄文系の国々がありました。これらの縄文系の人々は、ヤマト王権から「エミシ」と呼ばれます。
そして新潟県には、エミシたちが多く住む、高志(こし)の国が栄えていました。
「高志・古志(こしのくに」は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域で、とても広い地域を持つ国。この「高志・古志(こしのくに」は、さきほどの、大化の改新以前の呼び名です。
ヤマト王権は、自分たちの支配にまつろわぬ、日本の先住民であった縄文系民族を、「エミシ」と呼びます。
エミシには2つの意味があり、一つ目は、朝廷に従わなかった蛮族をさします。これは蝦夷(えみし)という漢字であらわされます。
2つ目は、日本書記に登場する「愛瀰詩(えみし)」たち。
これは、三文字とも麗わしい文字を使用しており、「えみ」しの「え」は愛をあらわし、「瀰」は水の盛んなさまをあらわし、「し」は「詩」です。
愛瀰詩)は、古代の人々が「えみし」にあてた、尊称でした。
日本書紀は愛瀰詩(えみし)を「一人で百人に当るほど強いが、戦わない人々」と伝えています。
ですがどちらの意味の「エミシ」も、ヤマト王朝の支配に抵抗し、その支配の外に立ち続けた人たちをさしています。
そのため「エミシ(蝦夷・愛瀰詩)」という言葉には、ヤマト王権に従わない先住民に対する、支配者側の苛立ちを含んだ蔑称がこめられており、一方で「エミシ」はアイヌ民族をさすという説もあります。
・まつろわぬ国との境界線に柵をつくった、ヤマト王権
奈良時代の645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)と、藤原鎌足が、律令制度を導入後すぐに、ヤマト王権は徐々に支配域を北に広げていきます。
そして、ヤマト王権が統治する地域と、この縄文系王国・高志(こし)の国との境には、柵(さく)が築かれていました。柵(さく、き)とは防衛施設であるとともに、その地方を治めるための行政施設としての役割も担っていた城柵(じょうさく)のことを意味しています。
つまりヤマト王権は、北部のまつろわぬ国を滅ぼすたびに、この柵を広げ、自らの行政地域も広げていったこととなります。
そしてこの時代、現在の新潟北部あたりがヤマト王権の支配域の「北限」であり、それより先は、エミシたちの国である「高志(こし)」の国だったそうです。そして新潟県の「高志(こし)」滅亡後は、ヤマト王権の柵は東北地方に広がり、今度は、東北地方に住むアイヌ(縄文系)王国攻略に向け、ヤマト王権は領土を広げていくこととなります。
https://www.mapple.net/articles/bk/19791/
・新潟県村上市で継承される、縄文ゆかりの食文化・千年鮭
そんな新潟県の村上市には、今も縄文の直系民族であるアイヌ民族の文化が色濃く残っています。それは鮭文化です。
村上市では鮭を「イヤボヤ」と言います。「イヤボヤ」とは「魚の中の王」という意味だそうです。鮭はアイヌ民族にとって特別な魚。北海道では今も、「ルイベ」という料理があります。「ルイベ」はサケやマスなどの魚を冷凍させてから、解凍させないまま刺身にして食べる郷土料理。 口に入れた時の凍った食感と口のなかで次第に溶けていく味わいが特徴です。遠い昔から、アイヌ民族は、鮭を貴重なたんぱく源として、大切にしていました。
そんなアイヌ民族の鮭文化を受け継ぐのが、現在の村上市の鮭文化。
こちらは以前NHKでも放映された、村上市の千年鮭きっかわの井筒屋です。
千年近く受け継がれてきた、塩引き鮭を今に伝えています。
村上市の鮭文化は、縄文直系のアイヌ民族から受け継いだもの。
奈良時代以後、この地域がヤマト王権の支配下になってからも、鮭は大切な食糧として、その食文化が継承されてきました。
国が滅んでも、その想いは残る・・。縄文系民族の高志の国は滅亡しましたが、彼らが大切にした、鮭文化は残りました。
そしてこの鮭は、江戸時代、村上市の武家の子息の教育費にもなりました。村上藩にとっても鮭は大切な収入源。そのため鮭の養殖は、江戸時代、村上藩によって日本で一番最初に行われたと言います。何でも、鮭の自然ふ化増殖に世界で初めて成功した土地が村上とか?! また村上市の鮭料理は、鮭は頭からしっぽまで、全部大切に食べきります。
私もさきほどの、きっかわのお店で、鮭料理を食べたかったのですが、営業時間外で残念ながら食べれませんでした。でも翌日、泊まった宿の朝食で出され、うれしかったです。
・スサノオに退治されたヤマタノオロチは新潟出身?!
新潟県は縄文ゆかりの土地が多くて驚きます。その背景には、古代、高志(こし)の国と呼ばれた縄文系王国の繁栄がありました。
興味深いことに、スサノオが退治したヤマタノオロチ(八岐大蛇)は、新潟出身だったそうです。ということは、ヤマタノオロチは蛇?でなく、人??ということになります。
かなり前に、長野県の八ヶ岳に行きましたが、そこには古代、ヤマタノオロチ(八岐大蛇)が出雲から逃げてきた、という伝承が残っていました。確か、八ヶ岳か諏訪湖に、出雲から逃げたヤマタノオロチがやってきた伝承があったと思います。ずいぶん昔のことで、あまり覚えていないのですが。
ヤマタノオロチの伝承には諸説あります。ヤマタノオロチ(八岐大蛇)は、蛇や人物ではなく、古代の島根県の暴れ川で、度々氾濫を繰り返し人々を困らせた斐伊(ひい)川をさすという説も・・。もしそうだとしたら、縄文期、こし(高志・古志)王国は、優れた治水技術も持っていたと伝えられており、その高度な技術で、水害を繰り返す、出雲の斐伊川を治水したのかもしれません。
今も島根県出雲市には古志(こし)という町があり、古代、新潟県の人たちがやってきた、という伝承が残っているそうです。
それくらい縄文期は、出雲と新潟のこし(高志・古志)王国はつながりがあり、大国主と、こし(高志・古志)国の美姫との婚姻もありました。
・縄文を知ることは、自分のルーツを知ること
縄文は今から1000年以上のはるか昔のこと。でも今もあざやかに私たちの生活をいろどっています。縄文を知ることは、自分のルーツを知ること。
争いを好まず、先住民でありながらマイナーになっていった縄文人たち。そしてそんな縄文系民族の文化が、世界に誇る日本文化の根底にあります。
だから今年も私は縄文の旅を続けたい。行ってみたい縄文ゆかりの場所が、日本各地にたくさんあります。
P.S.
ちなみに、私が村上市を訪れたのは3月終わりでしたが、まだおひなさまが飾られていました。地元の方いわく、村上では、おひなさまが終わってもすぐに片づけず、4月ぐらいまで飾って楽しむそうです。
新潟の3月はまだ寒く、雪が積もった場所もありますが、村上市の中心街の商店街ではあちこちのお店が、先祖伝来のお雛様を飾り、観光客に無料で開放していました。
そんな中、のんびり歩いて、いろんなおひな様を見るのはとてもおもしろかったです。もちろん、お店のおひなさまを見るだけの、冷やかしの客でしたが、どの店も歓迎してくれました。
〈参考サイト・過去の記録〉