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日本書紀に書かれていた縄文人とは、強いけれど決して戦わなかった人々 ~生駒の神話が伝える、縄文時代の終焉~

古代、ヤマト政権は縄文人のことをエミシと呼んでいました。
エミシ(蝦夷)とは、北東日本に住み、ヤマト王朝の支配に抵抗し、その支配の外に立ち続けた人たちをさします。
そのため、蝦夷という漢字は良い意味ではなく、そこにはヤマト王権に従わない縄文人に対する、支配者側の苛立ちを含んだ蔑称がこめられています。
また、エミシはアイヌをさすという説もあります。

しかし、もともと蝦夷はこの漢字ではありませんでした。
奈良県に生駒(いこま)市という、古い歴史を持つ地域があります。
この生駒の伝承によると、生駒には古代、この地を治めた王族系の縄文人が住んでいました。しかし縄文後期、あとからやってきた、南方系民族がこの地を支配しようとして、あつれきが生じたと記されています。

詳しくは、下記の「生駒の神話」というHPに書かれています。
おもしろく、興味深い古代史の神話です。
このHPには、縄文人が、あとからやってきた南方系民族との争いを避け、自ら生駒の地を去っていく経緯と、その後、遠く東北の地を目指した理由が書かれています。こちらのHPは生駒市の議員さんが作られているようです。
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生駒の神話
http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/ikomanoshinwa/


古代、生駒付近で住まいしていた人々のことを日本書紀は「愛瀰詩(えみし)」と表現しています。
これは、三文字とも麗わしい文字を使用しており、「えみ」しの「え」は愛をあらわし、「瀰」は水の盛んなさまをあらわし、「し」は「詩」です。
愛瀰詩(えみし)は、古代の人々が「えみし」にあてた、尊称でした。
日本書紀は愛瀰詩を「一人で百人に当るほど強いが、戦わない人々」と伝えています。

愛瀰詩(えみし)は強かったからこそ、争いの悲しみを知っていました。
古代史の考古学者たちは、「古代の遺跡を発掘すると、縄文人の死体はキレイだが、弥生人の死体は首と体がつながっていないことが多く、弥生時代は争いが多かった」と言っています。

実際、縄文時代に争いがなかったわけではありませんが、縄文人たちは決定的な争いを避けるフシがあったそうです。
また戦う際も弓矢といった武器でなく、銅鐸で戦うなど、相手を殺傷することをなるべく避けていたと言います。
強いからこそ、真剣にぶつかれば、お互いに無事ではすまない。
それを知っていたから、正式な決着をつけることを、古代の縄文人は避けていたのかもしれません。
勇ましく優しい。それでいて争いを避ける強さを持っていた人たち。
それこそが、愛瀰詩と呼ばれた古代の縄文人でした。

現代では、強さとは力を表し「フォース」という意味合いの、武力を示すイメージです。そして強さは、より強い力を求め、争いの火種はなくなりません。
でもそうではなかった縄文人。
弱いから逃げたのではなく、ただ争いを避け、武力を尊ぶ南方系の民族との関わりをなくそうと努め、わざと遠い東北の地を目指した古代の日本人たち。強くても、争いを好まなかった縄文人が私はやっぱり好きです。


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本だけでなく、実際に現地に行ったりして調べていますが、わからないことが多いです。だからこそ魅かれる縄文ミステリー!縄文の謎解きははじまったばかりです。(*ᴗˬᴗ)⁾⁾💕ペコリン