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後悔は幻想でしかない

”たられば”は何も生まない

あの時こうしていれば。もっと頑張っていれば。あんなことしなければ。もっと運が良かったら。お金があったら。時間があったら。

こんな風に「後悔」したことはありますか?

以前、『東京タラレバ娘』というドラマがありましたが、「たられば」の特に”れば”は、後悔している時のキーワードですよね。

そのドラマを見ていて他ならぬ自分自身が「タラレバおっさんやん」と自覚することができ、認識が大きく変わりました。

今では、後悔することがないわけではないですが、ほとんどすることはありません。どうしたらそうなれるのかは、また別の形でお伝えしたいと思います。お伝えするかわかりませんが(笑)

後悔を生むのは選択肢を間違えたと思うから

タラレバを聞いて、疑問に思うことがよくあります。それは大したことからそうでないものまで様々ですが、”れば”を使う時は、「別の判断をしていれば」という意味ですよね。それは二者択一から、多くの選択肢の中から選んだ判断かもしれません。

しかし、選ばなかった選択を判断していたらどうなっていたかは、誰にもわかりません。量子力学的には、選択の数だけ「パラレルワールド」があるとも言われていますし、判断によって世界が分岐するとも言われてします。現時点では、それも憶測でしかなく、証明には足りないかもしれませんが、パラレルワールドの存在が事実であろうが幻であろうが、そういう考え方もあります。

話を戻しますが、自分が選んだ判断を後悔しているとして、選ばなかった判断の方が良かったという保証はどこにもありません。この世界においては、時間を遡って別の選択肢を選ぶことはできないので、自分の判断が間違っていたかどうかはわからないのです。

なので、後悔していることは、”幻想”に過ぎないということです。

起きることは全て最善、最適なこと

正しい判断は存在しない。逆に言えば、正しい判断しか存在しないのかもしれません。

「起きたことは全て最善のこと」という考え方があり、私もそれに近い考えですが、起きたこと自体に良いも悪いもなく、それをどう捉えるかの自分次第なのです。少なくとも、自分に起きたことは、それがどんなことであっても、最善であり最適ということです。

その時には受け入れ難く、辛く苦しく、嫌で仕方ないことが起きて、その時に最善だとは到底思えないとしても、人生という物語としてみたら、それは完璧で必要不可欠な出来事だと思えるでしょう。同じように、自分が選んだ判断も、それはそうなるべくしてなった判断だと思えるはずです。

少なくとも、自分の人生を否定的に生きている人には、絶対にそうは思えないでしょうね。別に、私が述べていることが正しいと言うつもりもありませんが、私は現状そう思って生きていて、これが良いと思っています。

ただ、あの時違う判断をしていたらと後悔して生きているとしたら、違う判断をしていた方が、今よりも望まない世界になっていたかもしれない可能性があることも忘れてはいけないと思います。もし時間を巻き戻してやり直せるとしても、もしかしたら後悔していた判断の方が良い判断だったと思うようになるかもしれません。

後悔とは、幻想だということです。

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