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「生きづらさの正体」其の一 自由からの逃走

何かを決断したり、決定したりする。
それって、とても怖いんだよね。
不安の波が押し寄せる。

一人きりならそんな波は押し寄せてこない。
人との関りの中での決断が不安の波を作り出す。

できれば、
決めてほしい。
教えてほしい。
親に、
上司に、
友だちに、

責任を取ってくれそうなあの人の顔をうかがったり、
周りをキョロキョロ、
この決定で合っていそうか?雰囲気を見たり、

そんな中、
誰かが決断してくれと、、、
情けない気持ちと、
安堵の気持ち。。。


決めてくれたり、
教えてくれたり、
みんなと同じだったり、

それって安心する。

けれど、
その安心と引き換えに何かを失っている気もする。

僕の人生は、
あの人や周りの人の決定に従うことで出来ているのだろうか?

“自由”っていうのは、
何にも縛られず、
自分で決定できることのはず。

それなのに、
僕は決定を何かに委ねていまっている。
つまり、
僕は自ら進んで不自由になっているわけだ。




その昔、
社会はもっと単純だった。
レールに乗ればみんなと同じように生きられた。
役割に従えばよかった。
歯車として役立ててば居場所はあった。

答えはだいたい一つだったし、
そんなに自分が決断しなくてもよかった。

だけど、
それって何だか不自由だったんだ。

だから、
みんな自由を目指したのだと思う。


でも、
それって大きな罠だよね。

自由になった分だけ、
当然だけれども、
自分で決めなくちゃいけなくなってしまった。

追い打ちをかけるように、
社会は複雑になってしまったようだ。
まず何が正解かわからない。
自分の決断が合っているのか?
とても不安だ。
けれど、
つぎつぎと決断を迫られる。


そして、
そして、
最大の問題点の登場。

僕は、
自分で決断するようには育てられていない。

僕は、
勉強を一生懸命して、
あとは社会のルールに従うように教育されてきた。

その教育の中では、
決断するための訓練はほとんどなかった。
たぶん教える側も、
自分で決断するように生きてこなかったのだと思う。

なので、
決断するってとても不安。
とても怖い。




自由からの逃走。
僕は逃げ出した。
自分でなんでも決められる=自由から逃げた。
人の顔色をうかがい、
上司の決定をひそかに待ち、
あの人の振る舞いを横目に見て、

自己決定から逃げて、
他人の正解を探り探り生きてきた。

それなのに、
うまくいかないことがあると、
誰々が悪い!だとか、
あいつのせいで!だとか、
こんな状況だから、、、とか、
誰かや周りの決定に文句をつける。

まさに奴隷根性。。。

そう、
これが僕の
「生きづらさの正体、其の一」




あるとき僕は考えていた
この不安は何なのだろう?って。
たぶん決断に自信がないんだと思う。
それなのに、
社会は決断を迫ってくる。

僕にある選択肢は?

決断を他人に任せる?(空気に従う)
決断する場面から逃げる?(引きこもる)
決断を強引にする?(自分勝手に)


最後の選択肢。
「勇気をもって決断する。」
たとえ誰かの指示に従うにしても、
最後は自分の決断として従う。

決断すれば失敗もする。
つらい結末もありうる。
人と対立するかもしれない。

でも、
それを引き受けるしかないと思う。
そうたなったらなったで、
また新たな決断をするしかない。
思いやりを忘れずに、、、



「決断」
僕にはとても勇気がいること。
けれど、
それが自立への道。
“おとな”への道。
そして、
自由への道なんだと思う。


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