働きだして、二年目になる。 会社にはいろんな背景を持った人がいて、この職場に至った経路も人の数だけある。前職が服屋さんだったり、高校を卒業して直接入職した人もいる。私の職場では、プライベートな内容や過去の出来事が話題にのぼる機会がたまにあって、それ自体、あまり嫌なことではない。 しかし学歴の話になると、途端に口をつぐんでしまう。 よく、学歴を褒められる。褒められるというか、面白がられる。私は自分が出た大学が社会でどのような目で見られているのかピンとこないので、なんだか
仕事に行くため、バスに乗った。汗がにじむ暖かい朝だった。ゆらゆらと揺られながら、昨日とも一年前とも似た横スクロールの景色を眺めた。 数箇所のバス停を過ぎたあたりで車内に目を向けると、乗客の顔ぶれがずいぶん変わったことに気がついた。年度初めだからかもしれない。 先月までの車内を思い出そうとしてみる。すると、案外思い出せない。毎日、同じバス停で同じバスを待っていたはずの同志の顔もおぼろげだ。 今居るひとが先月も居たことはまだ思い出しやすいが、先月居たのに今月居ない人は、と
昔、岐阜の山村に「くるぶし太郎」と呼ばれた少年が居ました。そう呼ばれていたのには勿論、くるぶしに特徴があるからでして、黒いアメーバのような痣が全体を覆っているのでした。くるぶし太郎の両親は、痣を見る度に悲しさに心を奪われ、「もっときれいに産んでやれなかったものか」と気が滅入っていました。しかし、くるぶし太郎は一欠片のもの悲しさも見せずに、毎日明るく、村で一番多く笑う子供でした。 そんなくるぶし太郎がある日、畑の隅でひっそりと泣いているのを私は見つけました。彼とはお隣同士で
どうして書くかというと、自分が分からなくなるからだ。思考は、帆を張っている。帆は風を受け、同時に船体も進路を変える。でも、風はいつも心地よいものではない。時々適当だし、誰かの意図で強風が吹きつけられることもある。実は風なんてなかった、というときもある。この揺れやすい状況を、僕は良く思っていない。友達に誘われたからというだけで、変わった本屋さんを訪れたときを思い出す。退屈だった。 帆は下ろしてはならない。小さなエンジンを積むのだ。それが「書く」をさそう。書くと、自分に輪郭がで
テレビで「意外な素顔が明らかに!」という文字を見ると、ただちに興味を無くす。かちゃっとリモコンを拾って、テレビに向けて思い切り電波を飛ばす動作は、まるで西部劇のガンマンだ。 「意外」とは何か。 例えば、真面目そうに見える芸能人が家でだらだらとスマホをいじっている姿を「意外」だと決めたとする。 そうすると、「真面目なイメージ」が「意」であり、「だらだら」が「外」である。 しかし僕を含めて皆、当芸能人が「真面目」だなんてその瞬間まで思っていなかったかもしれない。 もしくは、仮
先輩は赤信号で車を停めた。 となりの僕は目の前の景色に唖然とする。 不思議な交差点に出会ってしまったのだ。 いつ進めばいいのか、仮に進んだとして、どこに進めばいいのかも分からない。 いつもハキハキとした態度で、かき氷機のように次々課題を粉砕している先輩。 しかし今回ばかりは動きをピタリと止め、「これ行っていいと思う?」と純然たる後輩である僕に聞いてくる始末だ。 かねて、新しい意味で使われるようになった「蛙化現象」という言葉をなんというか下に見ているため、先輩にこの言葉は使わ
ろ過された本音 特定の相手、ひいては世界の捉え方が次第にこされていく。 歩行祭は、そのろ過機の役割を果たしていたように思える。 歩行祭が知らしめたのは、時間帯によって移りゆく周囲の景色であり、友人の聡さであり、身体に加わる負荷がつくる頭の余白である。 各々が単独で、時折協力しながら、融や甲田のなかに渦巻く本音を絞り出していった。 本音を認めるというのは、とても難しい。 特に、実は自分が幸せとか、実はあの人のことが好きだとか、プラスの感情を背負った本音は、一切無視した方が
置いていきたいもの 百合はあの場所、そして土地に置いていった。 姉への憎しみをもつ「私」を。 変化する私を嫌う「私」を。 逃れられない現実への絶望感を。 みすぼらしさへの嫌悪感を。 社会のなかで自らを無理くり変形させると、ダメージはとても大きい。僕も例にもれず、勝手に自身に役割を付与して苦しんでいるし、透明な周囲の期待に応えようと自分を消費してしまう。しかし、時間的・場所的に点を生きているので、その一瞬で自らが没落しないために尽力するしかない。身を粉にして虚像をつくりあげ
ふり返りをします! noteを12日前から初めて、9記事書きました。 他の方に比べると全然ですが、自分にしては続いた方だなと思っています。 大学生活の終わりが見え始め、いま考えていることを残しておこうという軽い気持ちでnoteを書き始めました。 書いた記事を読み返して気づきがあったので、記しておこうと思います。 いつのまにかポジティブになっていた もともと僕はネガティブで、それでもネガティブなまま前進的になるしかないと考えていました。 幼少期から高校生にかけて、強烈なコ
褒められたときの反応の仕方でいつも悩む。 嬉しさをどう加工して相手に伝えればいいのか分からず、ボフッと小さく爆発して頭からネジが飛び出しそうになる。 基本「嬉しい」「ありがとう」の二言しか持っていない。 普段はこれで事足りるのだが、場合によっては全く力不足だと感じるときもある。 それは、自分の想像を超える褒められ方をしたときである。 実は見てほしかったけどひた隠しにしてた事や自覚していない事を褒められると完全にお手上げだ。 何もかもが許されるのなら、頼りない二言を諦めて
「頑張っている人が好き」は嘘だったことを告白したい。 昔から頑張っている人を見ると、心が躍る(と思っていた)。 図書館で模試の振り返りをしている学生やサークルで「うまくできない」と悩んで悪戦苦闘するメンバーを見て、好きだなと感じるときが多かった。 けれど、そう感じるのは本当に彼らが頑張っていたからだろうか? ではオリンピックで金メダルを目指して努力するアスリートや、もともとA判定を取っていて合格を確固たるものにしようと勉強している学生に対して、僕は同じように好きだと思えて
「なんか変なひと」が好きだ。 明確にどこがどう変なのかは分からないけれど、地に足ついた人たちのなかで、その人だけ浮遊しているみたいなおかしさに意識を持っていかれる。 この前もそういう人を見かけた。 ひとりで学食を食べていると、食器返却口に向かう人が視界の隅に映った。 ふと見てみると、その人は普通に歩いているのにどことなく違和感があって、不思議な雰囲気をまとっていた。 気づけば、ほかの人と何が違うんだろうと考えこんでいた。 食器を持つ位置が普通より少し高い、という点は見つけ
自己嫌悪は、本人の意図とは関係なくあらぬところで出現する。 一人暮らしをしていると、羽のように軽い自己嫌悪が幾度となく訪れる。 昨日、冷凍チャーハンをうきうきしながら皿に盛っていた。 平らな皿にチャーハンの山ができたが、そのまま加熱するとムラが出るので、軽く皿を揺らしてチャーハン平野をつくろうとした。 結果、チャーハン平野の20%は皿の外へ勇敢に飛び出した。 黒い台にまばらに散った米粒は星のようにきらきらと輝き、美しい夜空を彷彿とさせる風景がそこにはあった。 その美しさ
世界がもっと「小さな失敗」で溢れれば良いのにと思う。 仕事でのミスや人間関係でのつまづきは「小さな失敗」に含まれない。 そうではなく、油断していると見逃してしまうような、日常生活に転がるささいな失敗だ。 店員さんの「いらっしゃいませ」の声が裏返る 友人がノールックで充電器をコンセントに刺そうとするが全く刺さらない ついていた肘がテーブルから落下する 気づいた瞬間、時間がコンマ数秒止まったかのような驚きを感じ、なんともいえない罪悪感が体内にゆっくりと拡散していく。 決し
突然ですが、「赤面恐怖症」という言葉を聞いたことはありますか? よく赤面症と呼ばれていますが、正式には赤面恐怖症と呼ばれるそうです。 かくいう僕も、「赤面恐怖症」の人間のひとりです。 今では2年に1度ぐらいのペースになりましたが、高校生のときはこの症状が原因で学校を休もうか頻繁に迷っていた時期があります。 このnoteでは僕の経験を記します。 様々な方がいると思うので、「赤面恐怖症」のひとを気持ちを代弁するつもりも、皆さんに具体的な行動をお願いするつもりもありません。 個
僕は幸せになるのが怖い。 というより、自分がいま幸せであることを認めたくない。 過去の僕には居場所がなく、コンプレックスにもがいていた。しかし今は相談できる友人が居て、趣味や打ち込むものもでき、居場所が複数ある。そして数年にわたる壮絶な戦いの結果、ついにコンプレックスを札の貼られた炊飯器に閉じ込めることに成功してしまった。 そのとき、戦う相手がいないのがこれほど不安なのかと驚愕した。戦いたい敵と戦う以外に生き方を知らないのだ。もしバイキンマンが居なくなったら、アンパンマン