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くるぶし太郎

 昔、岐阜の山村に「くるぶし太郎」と呼ばれた少年が居ました。そう呼ばれていたのには勿論、くるぶしに特徴があるからでして、黒いアメーバのようなあざが全体を覆っているのでした。くるぶし太郎の両親は、痣を見るたびに悲しさに心を奪われ、「もっときれいに産んでやれなかったものか」と気が滅入っていました。しかし、くるぶし太郎は一欠片のもの悲しさも見せずに、毎日明るく、村で一番多く笑う子供でした。
 そんなくるぶし太郎がある日、畑の隅でひっそりと泣いているのを私は見つけました。彼とはお隣同士で、私が洗濯物を干していると、彼が玄関から出てくるのが見えました。いつもと様子が違ったのを訝しがり、跡をつけると、雑草を故意のように踏みつけながら、畑の奥へ奥へと進んでいくのでした。踏まれた雑草は、生気をむさられたように腰を曲げ、二度と元には戻らないと確信を持たせる在りさまでした。彼は畑と暗い竹藪のちょうど境界まで歩くと、急にしゃがみ込みました。すると、手で米を研いだ時のような音がしてきたので、きっと泣いているのだろうと判別できました。ただ、人の泣きようをただ観察してるのでは良心が痛みます。とうとう私は、彼に声をかけることに致しました。
「くるぶし太郎ちゃん、なぜ泣いているんだい?」
 私は何度か彼にそう問いかけましたが、聞こえてすらいないように無反応で、私を困らせました。彼は、私が手を伸ばせば触れられるほどの距離に居るはずですが、不思議とそれは絶対に叶わないだろうと思いました。かなり長い時間が経ちました。私は要領を得ない彼の様子に苛立ち始め、とうとう殴ってやろうとしたその時です。彼はゆっくりと腰を動かし、地面にお尻を下ろしました。同時に、えらく萎れた股引きの裾から、あの黒い痣が現れたのです。私はその痣を見るのに随分慣れていたはずでしたが、今回ばかりはひどく緊張し、鼓動が早くなっていくのが分かりました。
「僕は、猪が怖い。」
「え?」
「僕は、猪が怖い。畑が荒らされると、生活が立ち行かなくなるし、目もすごく怖い。」
 私は徐々に早くなる心臓の音を聞くのが苦しく、近くに生えていた木の根をぎゅっと握りしめました。爪から血が出ましたが、もっと強く握りました。根が軋む音が、少し私の神経を和らげました。ふと山の谷から西陽が差し込みました。黒い痣が強い陽を浴びて、くるみ色に落ち着きました。
「だから、僕はこのくるぶしの痣について、誰に何を言われる筋合いはない!」
「もともと、誰も何も言ってないよ。」
「言っているさ。嘲笑も罵倒も、目や耳だけが受け皿になっているんじゃない。この痣が、体のどの部分よりも、鋭どく物事を感じているんだ!」
 私は、身体ががくがくと震えるのを抑えるのに必死で、彼の言葉に集中できませんでした。当然、彼は西陽を受けて明るくなるはずでしたが、かえってどんどん闇に近づいていくようでした。ただし、くるぶしの痣だけは確かに陽を受容していたので、輪郭が無駄なく強調され、きちんと存在感を示しました。
「だとして、猪と何の関係があるのさ。」
 顎を小刻みに振動させながらそう聞いてみましたが、彼は黙って下を向いているだけでした。私は何度か立ち上がるため腰を浮かせようとしましたが、照らされた痣の圧力が邪魔をしました。私が遂に立ち上がった時には、低い空に月が登りかけていました。
 今夜は満月だと聞いていましたが、あまりに不完全で、欠け方も曖昧でした。月以外の空は炭のような黒さでしたが、私には月も空も、同じくるみ色に見えたのでした。

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