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私のための朝を過ごす【イワシとわたし 物語vol.15】

一人旅の朝。彼女は求めていた朝食に心を躍らせていた。
そうそう。これが食べたかったんだ。
彼女がこの場所に泊まり、この朝食を食べるのにはちゃんとしたわけがある。ゆっくりとごはんと時間を噛みしめるこの時間は彼女にとって必要な時間だった。

閑静な街の中、外では働き者が既に道路を走っている。
彼女は何に起こされたわけでもなく、ゆっくりと目を開き体を起こした。
窓から入る柔らかな日差しが、心地よい微睡まどろみの時間へと彼女の手を引くも、彼女はその誘惑から逃れるように眠気まなこをこすった。

久方ぶりに泊まるイワシビルのホステル。
いつもの旅なら思い出作りに友人や家族と一緒に行くのだが、今回は一人で泊まりに来た。他と都合がつかなかったからではなく、最初から彼女は一人で過ごすことを決めていた。

アーチ状の小さな扉をくぐって部屋を出る。3つの鏡が綺麗に整列した洗面台で軽く身なりを整える。船の舵輪を思い出させる蛇口に手をかける。出てきた水がひんやりして心地よい。
少し乱れた髪を直し、お気に入りのリップをつけて気分を上げた。

もう一度部屋に戻って着替えを済ませたところで、ちょうどお腹が鳴った。時計を見ると、針は朝食をお願いしていた時間をもうすぐ示そうとしていた。

時間だ、時間だ。

とくり、と彼女の胸が気持ちよく弾んだ。まだ静かな階段に彼女の軽やかな足音だけが響く。

一階へ下りると、口許に朗らかな笑みを浮かべたスタッフが朝食を机に並べていた。焼けた魚と優しい味噌汁の香りを肺いっぱいに吸い込んでから、朝食が待つぽかぽかと日当たりのいい席に腰を下ろした。
目の前の景色に堪らず彼女は、にんまりと口許くちもとを緩ませた。

そうそう。これが食べたかったんだ。

存在感のある大きなマイワシの丸干し、エノキの入った具だくさんのお味噌汁、こんもり盛られた雑穀米、焼海老の焦がし醤油がのったゆでたまご、ふわっと甘いさつまあげ、お漬物とその時期の柑橘。小さくちょこなんといる魚はウルメイワシの焼丸干しだと前に食べたときに教えてもらった。

「いただきます」

しっかりと手を合わせて、まずはメインのマイワシに箸をのばす。皮のパリッとした一瞬の感触を楽しむと、ふわっとした身がほろりと取れる。緩んだままの口に運ぶと旨味と脂が口の中に広がった。追ってご飯、そして味噌汁に口をつける。
次は、ちらりと視界に入る小さなウルメイワシの焼丸干しに手を伸ばした。口に入れると想像以上の噛み応えに毎度驚く。やわらかいマイワシの身とは打って変わりこちらのウルメイワシは固さが特徴。もぐもぐと噛み進め、じわじわと口に広がる旨味を楽しむ。
少しの休憩に鉄瓶に入ったほうじ茶を飲み、ふぅ、と彼女は一息ついた。

身体が喜ぶ、というより落ち着くが正しいかもしれない。

一日一日の生活を大切にしたい。そう、規則正しく。
朝起きて、ゆっくりと、ちゃんと朝食を食べて一日を始める準備をする。
必然と仕事を終えた夜の時間は、気持ちの良い朝を迎えるために自分を労わる時間にしたい。
そう思っているものの、現実は余裕なく忙しない毎日を過ごしている。

気づいたら夜遅くまで仕事をして、疲れて帰ったら何をするわけでもなく無気力にベッドに突っ伏して、また忙しない朝がやってくる。
自分のためのはずの生活が、まるで自分をどこかに追いやっているように過ぎていく。

置いてけぼりにされた体と心。それでも進んでいく生活。
静かに悲鳴をあげ続けている生活。

そんな生活から脱したくて、彼女が小さな旅に出たのはいつだったか。
その旅先で見つけたイワシの看板が目印のそのビルでの一晩は、何にも脅かされることのない、彼女が望む自分のための生活に寄り添ってくれた。
いつもより早くに目を瞑り、自然といつもより早く目が覚める。そして今日のように朝食を目の前にゆっくりと、ちゃんと朝の時間を過ごしたあの日。

思い描いていた生活がこの場所にはあった。

再び箸が動く。
器の上に盛られた一つ一つがその場所のことを彼女に教えてくれる。

さつまあげやお醤油が甘いのは、暑さが厳しい鹿児島が甘辛い味を好む食文化を築いたから。
朝食のメインのマイワシと小鉢のウルメイワシが大きさも干し具合も違うのは、マイワシで脂を楽しみ、ウルメイワシで噛めば噛むほど旨味を楽しめるように、それぞれ干し方を変えているから。
調味料に焼海老出汁を使うのは、焼海老が北薩地域をルーツに持つ鹿児島独自の出汁文化だから。

どれも朝食を食べる中で彼女が知ったこと。
口に運ぶたび、自分がこの地を確かに踏みしめていることを感じる。

豊かな暮らしって、こういうことから始まるのだろうか。

今踏みしめている土地のことを知りながら日々を過ごす。
目の前にあるものの意味とこれまでが、自分の暮らしにつながっていく。そのつながりが無機質に見えていた風景を変えていく。いつも目にしていたものが愛おしくなっていく。

そんな日々を過ごせたら――。

だから、自分の生活を、自分の身体をリセットできる時間が今の彼女にはまだ必要だった。

最後に爽やかな柑橘の果汁を楽しんで、手を合わせる。

「ごちそうさまでした」

胃は満たされているけど身体は軽い。

余韻に少し浸って席を立って、少し重めの扉をゆっくりと押す。「ごちそうさまでした」がもう一度一階に響いた。

今日も一日がスタートする。
昨日までとはちょっぴり違う心地よい一日の予感。

これから何をしようか。

湧き上がる高揚感に自然と口許くちもとが緩んだ。
朝の少しひんやりとした風が頬を撫でる。
一歩踏み出した、彼女のための生活が始まる。



model:しんみはるな

撮影:こじょうかえで Instagram(@maple_014_official)

撮影地:イワシビル

文章:橋口毬花 (下園薩男商店)


イワシとわたしの物語

鹿児島の海沿いにある漁師町、阿久根。
そんな場所でイワシビルというお店を開いている
下園薩男商店。
「イワシとわたし」では、このお店に関わる人と、
そこでうまれてくる商品を
かわいく、おかしく紹介します。

vol.14 あの子を想う平日昼間のひとり時間
平日の昼間の静かな休みの日。
彼女は散歩道で一つの店を通り過ぎたところで、最近マスキングテープを買ったことを思い出す。家に帰ってノートに貼っていく中、このマスキングテープをどう使おうかと考える。
考える先で思い浮かんだのは友達の"あの子"だった。


vol.13 落ち着かない気持ちを抱えて海に行く
落ち着かない気持ちを前に、彼女は海に行くことを思いつく。
履く時期にはまだ少し早いショートパンツを身に纏い、誰もいない海を眺める。
焦燥と不安を抱える彼女に海は何を見せてくれるのか。

and more…

これまでのイワシとわたしはマガジン「イワシとわたしの物語」に収録されています。

モデルインタビュー/オフショット

朝食の秘密

coming soon…


イワシとわたしのInstagramでは、noteでは見れない写真を公開しています。


登場商品

イワシビルの朝食は、3Fホステルの宿泊者限定サービスです。
詳しくは、イワシビル公式ホームページをご覧ください。

イワシとわたしvol.16
2022年9月15日公開予定

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