『ハズビン・ホテル』が世界中に響かせる希望と連帯の歌:天国と地獄という二項対立図式の脱臼の意義と限界について
はじめに
2019年10月29日にYouTubeでパイロット版が公開されてから約4年の時を経て、総再生回数1億回超えのインディー・アニメーションが満を持してPrime Videoという商業媒体に降臨した。
2024年1月18日から2月1日にかけて、Amazonオリジナルシリーズ『ハズビン・ホテル』(Hazbin Hotel)のシーズン1(全8話)がPrime Videoで順次公開された。本作はヴィヴィアン・メドラーノ(Vivienne Medrano)というアメリカ人アニメーターが原案・監督を務めた成人向けミュージカル・アニメーションである(Prime Videoでのレーティングは“16+”、第4話のみ“18+”に指定されている)。本作はセックス、ドラッグ、バイオレンス、そして汚い言葉(bad words)に満ちた刺激的な作風をとりながら、それでいて至極真っ当な、道徳的とすら言いうるメッセージを直截に伝えており、その意味できわめて上質なエンターテインメント作品だと言える。筆者も最初はカートゥーン調で繰り広げられる蛮行に惹きつけられ、『ハッピー・ツリー・フレンズ』(Happy Tree Friends)や『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』のような悪趣味ないし不謹慎な展開を期待していたが、『ハズビン・ホテル』は一見すると放埒に見えて、存外現代的な配慮の行き届いた内容になっていたため、エンターテインメントの最先端を見せつけられた心地がして舌を巻いた(視聴後の満足感は映画『デッドプール』シリーズのそれに近いと言えば伝わるだろうか)。
『ハズビン・ホテル』は地獄の王女、チャーリー・モーニングスター(Charlie Morningstar)が恋人や仲間たちとともに、地獄の人口過密を「駆除」(extermination)と称した虐殺によって解決しようとする天国の軍勢に立ち向かう物語である。チャーリーはかつて天国を追われた夢想家の天使、ルシファーの娘であり(ちなみに、Luciferはラテン語で「明けの明星」、すなわちMorningstarを意味する)、天国の推し進める無慈悲な「駆除」ではなく、罪人たちの更生(rehabilitation)および昇天によって地獄の人口過密を抑制するという途方もない夢を抱いていた。チャーリーは地獄にホテルをオープンして罪人たちを招き入れ、そこからチェックアウトすれば地獄から天国へ行けるというプログラムを考案し、最初のテストケースとしてポルノ・スターのエンジェル・ダスト(Angel Dust)をホテルに招待するが、このプログラムは地獄中から嘲笑に遭うことになる(charlieという単語が「まぬけ」を意味するのは偶然とは思えない)。チャーリーは落ち込みながらも、恋人のヴァギー(Vaggie)に支えられ、「ラジオ・デーモン」として恐れられる上級悪魔(overlord)のアラスター(Alastor)の力を借りて、「ハズビン・ホテル」の運営を開始する。
望むと望まざるとにかかわらず、悪行の限りを尽くして地獄に堕ちた者にも救済される可能性があるという発想は、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉を知る者にとっては、それほど違和感のあるものではないかもしれない。しかし、キリスト教の歴史を振り返ると、天国と地獄(あるいは極楽と冥府)のあいだに煉獄(purgatorium)という一時的な待機場所を想定し、そこを天国の前庭と位置づけるのはまったくもって自明のことではなかった。そこで本稿では、まず煉獄という観点からチャーリーの立ち上げたハズビン・ホテルに考察を加え、天国と地獄という二項対立図式、およびその前提となる基準を疑う意義を論じる。続けて、ハズビン・ホテルもといチャーリーのもとに集まるはぐれ者たちの属性にも注目しながら、二項対立図式が脱臼させられた後で立場をこえた人道的連帯が可能なのかについて検討を行う。
煉獄の現代的表現としてのハズビン・ホテル
煉獄(purgatorium)とは、およそ1150年から1250年にかけて西欧キリスト教世界で概念化され、カトリックの教義のなかにも取り込まれた浄罪(purgatio)のための第三の場所である。煉獄(あるいは浄罪界)は天国と地獄のあいだに成立した中間領域であり、大罪ではなく小罪を犯した中程度に善良かつ邪悪な者の霊魂が天国に上る前に経由する一時的な待機場所である(*)。
この説明から明らかなように、罪人を更生させ天国へ送り出すための一時的な滞在場所であるハズビン・ホテルは、煉獄に近い想像力の所産である。もちろん、煉獄は大罪を犯した完全に邪悪な者を事後的に救済するための地獄から天国へ抜けるパススルーではないし、ダンテの叙事詩『神曲』において主人公が地獄・煉獄・天国の三界を遍歴できたのも、語弊を恐れず言えば観光客や査察者のような特権性を帯びていたからにすぎない。とはいえ、ハズビン・ホテルが天国と地獄の双方から嘲笑され見放された場所であること、創設者のチャーリーが天国と地獄の対立を調停しようと四苦八苦していることに鑑みて、ハズビン・ホテルが「駆除」を国是とする天国とも、悪徳の栄えを謳歌し弱肉強食の論理を貫徹しようとする地獄とも異なる第三の中間領域であることは疑いえない。そのため、本稿ではあえて、ハズビン・ホテルを煉獄の現代的表現とみなすことにする。
中世史家のジャック・ル・ゴフ(Jacques Le Goff)が『煉獄の誕生』(La naissance du purgatoire, 1981)のなかで述べているように、煉獄という第三領域の形成は西欧に「本質的な精神革命」をもたらし(渡辺/内田訳『煉獄の誕生』、4頁)、「二元論のレトリック」、たとえば「二つの国、二つの権力、二つの剣、聖職者と一般信徒、教皇と皇帝」といった二項対立図式を危機に陥れる(同書312頁)。ル・ゴフは「二項体系が長年月にわたる習慣となっているときに、一つの全体を表現するために二から三へと移行することは、容易なことではない」と強調する。煉獄の誕生は「12世紀のキリスト教世界における死後世界の体系にとって本質的に重要な事件」なのである(同書333頁)。そして、二項対立図式が三項鼎立図式に取って代わられるとき、ちょうど上層(世俗および聖職者の貴顕の士)と下層(農民および都市労働者)のあいだに新たな中間的階層(ブルジョワ)が割って入ったように、第三領域は第一・第二領域の内部から自立してくるわけではない。だからこそ、第三領域の形成は破壊的な効果を持つ。ル・ゴフはこの点について次のように述べている。
フランス革命史と死の歴史を専門とする歴史家のミシェル・ヴォヴェル(Michel Vevelle)も、煉獄に関して同様のことを別の表現で述べている。「はっきり現れはじめた個我は、地獄対天国という悲劇的なディレンマを打ち破り、天との和解に成功した」(ミシェル・ヴォヴェル(池上俊一監修/富樫瓔子訳)『死の歴史』創元社、1996年、53頁)。このようにして天国と地獄という択一が破られると、人間の霊魂を天国か地獄のどちらかに振り分ける基準自体も疑わしくなってくる。その基準は正しいのか? その基準は時宜にかなっているのか? そもそもその基準を作ったのは誰なのか? こうした不信は支配者や為政者にとって恐るべき叛乱の火種となる。罪人に対して昇天の可能性を広げる煉獄は、旧来の既得権者にとっては不都合きわまりない、しかし民衆の懐柔のためにある程度受け入れざるをえないものなのである。
『ハズビン・ホテル』第1話においても、死後に天使となった人類の始祖(dickmaster)、アダムは「どうせ地獄は地獄のままさ」(Hell is forever whether you like it or not)、「基準は明々白々、抗おうとしても無駄」(The rules are black & white, there’s no use in tryin’ to fight it)とチャーリーのプレゼンを一笑に付し、「駆除は気晴らしだ」(Extermination is entertainment)とすら開き直る。第5話に登場するルシファーも、はじめは「天国は聞く耳を持たない」(Heaven never listens)と実の娘であるチャーリーを止めようとする。アダムは二項対立図式が崩れることへの恐怖や困惑の裏返しとして横柄に振る舞い、ルシファーは二項対立図式を崩そうとする挑戦者が容赦ない報復を受けることを憂慮している。両者の反応はどちらも、一度地獄に堕ちた者が悔悛によって昇天する可能性があるとしたら、既存の秩序が根底から揺るがされてしまうことを十分理解しているからこそ示されたものだ。しかし、煉獄の現代的表現としてのハズビン・ホテルはすでにオープンしてしまった。もはや後戻りはできない。
はぐれ者たちの連帯と新世代の人道的連帯
天国と地獄という二項対立図式に反旗を翻すハズビン・ホテルには、異性愛規範の二項対立図式からとりこぼされた性的マイノリティや、勝ち組/負け組の二項対立図式のなかで落伍したはぐれ者たちが集まっている。チャーリーとヴァギーはレズビアン・カップルであり、エンジェル・ダストはポルノ業界の元締めであるヴァレンティノ(Valentino)との契約に縛られた、ドラッグに溺れるゲイのポルノ・スターである。バーテンダーのハスク(Husk)はギャンブル依存症が災いして、アラスターに魂を握られるという負債を抱えており、その主人たるアラスターもまた何らかの取引(deal)に縛られていることが第8話で示唆されている。ハズビン・ホテルは彼らを静かに包摂する。第5話において、チャーリーから恋人(girlfriend)の紹介を受けたルシファーは、「お前、女の子が好きなのか? 私もだよ、そっくりだな!」(You like girls? So do I, we have so much in common!)とこともなげに応じる。こうしたさりげない一言の積み重ねによって、心理的安全性は高まるものである。ハズビン・ホテルでの一時的な滞在を経て、はぐれ者たちは少しずつ距離を縮め、自分の傷と相手の傷を見比べ、自分一人だけが取り残されていたわけではなかったことを悟る。第4話において、エンジェル・ダストとハスクがお互いの過去を打ち明け合い、お互いを対等な「負け犬」(loser)と呼び合えるようになってハズビン・ホテルに帰還するシーンは感動的の一言に尽きる。
こうしたはぐれ者たちの連帯を後腐れなく成立させるにあたって、本作の物語の大半がハズビン・ホテルのロビーで展開していることは重要である。ハズビン・ホテルは一人一人が最終的には別々の方向にチェックアウトしていく一時的な滞在場所にすぎず、罪人にとってのスイートホームとはなりえない。しかし、だからこそ、滞在者は「旅の恥はかき捨て」とばかりに素直になることができる。第2話において、チャーリーはハズビン・ホテルを襲撃してきたサー・ペンシャス(Sir Pentious)に対して、「始まりはごめんなさいから」(It starts with sorry)、「ごめんなさいは最初の一歩」(Sorry is where it starts)と優しく歌い、最終的に彼から謝罪の言葉を引き出す。全体として粗野な作品から子供向けの教育番組のような一節が飛び出すとき、失敗ややらかしを後悔し、やり直したいと思う中程度に善良かつ邪悪な多くの視聴者は不意を突かれることだろう。素直になることの効能は一期一会の視聴者にも及んでいる。
前述の連帯はさらに、新世代の者たちが担う天国と地獄の垣根をこえた人道的連帯へと発展していく。第6話において、チャーリーは天使たちとの会談のために天国へ赴く。その会談のなかでは、地獄の罪人が更生・昇天することはありえないと主張する天使たち自身、誰も昇天の条件を知らないことが明らかとなり、天国の実施する「駆除」が恣意的な虐殺にすぎないことが浮き彫りとなる。「駆除」が秘密裏に行われていることを知らされていなかった熾天使(Seraph)のエミリー(Emily)は、自分が属する天国の非人道的な措置に憤る。熾天使長のセラ(Sera)は「あなたが思うほど事は単純じゃない」(It’s not as simple as you think)、「何もかも明文で書かれているわけじゃない」(Not everything is spelled in ink)とエミリーを「大人の言い分」で説得しようとするが、エミリーはかえってこうした子供扱いに反発する。とうとう、エミリーとチャーリーは異口同音に「地獄が地獄のままだっていうなら、天国は嘘っぱちに決まってる」(If Hell is forever, then Heaven must be a lie)とユニゾンを奏でるにいたる。
2024年3月初頭において、かかる構図はイスラエルによる非人道的かつ執拗なガザ攻撃、そしてイスラエルを批判する勇気あるユダヤ人たちを彷彿とさせずにおかない。政治的に形作られ、調停不能となった天国と地獄の対立の渦中にあっても、新世代の者たちが人道的な判断で連帯することは可能だというメッセージを強く打ち出すことによって、本作は普遍的な価値の重要性を世界中に届けることに成功している。そして、なんといっても、エミリーとチャーリーの立場をこえた連帯が、チャーリーとヴァギーの恋人関係を大前提として成立したことも看過してはならない。なぜなら、暴走しがちなチャーリーを献身的に支え、天国での会談にも同席したヴァギーは、「駆除」をためらったかどで片目と片翼を奪われた堕天使だったのだから。本作は初めから一枚岩ではない、二項対立図式を脱臼させる連帯と愛の物語として編まれていたのである。なお、後続の第7話はヴァギーがチャーリーに自分の出自を隠していた、いや打ち明けられなかったことをめぐる恋人同士のよくあるすれ違いと仲直りの過程を丁寧に見せており、肩肘張らない等身大の物語として進行する。連帯の可能性と重要性を大上段にアジテートするのではなく、恋人同士のミスコミュニケーションを入口としてロマンティックに描き出す手付きには、飾らない魅力が滲み出ている。
本作は、二項対立図式のなかで食い物にされ、自暴自棄となっている者たちに向けられた更生および救済の希望を縦糸として、そこに政治的・社会的に虐げられた者たち同士の連帯という横糸を織り込んだ。本作の終始一貫した息を呑む強度は、第8話の天使の軍勢との手に汗握る戦いに向かって右肩上がりに高まっていく。シーズン1のクライマックスにおいて、チャーリー一行は天使の軍勢を地獄から追い返し、罪人の昇天を部分的に実現させることに成功する。理不尽の名のもとに押しつけられる二項対立図式に疑問を呈し、既成事実を塗り替えるための行動を後押ししてくれる本作は、紛れもない快作である。シーズン2の配信が待ち遠しい。
おわりに
最後に、煉獄の現代的表現によって二項対立図式を脱臼させることの限界についても附言して、筆を擱くことにする。ル・ゴフは『煉獄の誕生』の導入と結びにおいて、煉獄という第三の場所が完全な中間領域とはならないことに注意を促している。ル・ゴフは導入において、「将来の選良たちの全き浄化のための場として、それ〔注:煉獄〕は天国の方に傾斜しているのだ。偏りのある中間領域、煉獄は中心に位置するのではなく、高みへと偏した中間に位置するだろう」と予告し(渡辺/内田訳『煉獄の誕生』、11頁)、結びにおいて、「煉獄は、その地獄的比喩にもかかわらず、天国に向かって傾いていて、煉獄の魂たちを天に向かわせる天国願望こそ、カトリック教徒の死後世界信仰の原動力となっているものと思われる」と述べている(同書550頁)。このような整理をふまえて、ル・ゴフは次のような不安を表明している。
『ハズビン・ホテル』においても、似たような不安は残る。ハズビン・ホテルというプロジェクトは地獄の人口過密の解消を目的とするものであり、もとより地獄の罪人の全員が昇天に値することを立証するための実験ではない。霊魂を天国と地獄に振り分ける基準を批判するとしても、その基準が機能不全やエラーを起こすのは往々にして限界値付近であるから、救いようがない霊魂はやはり地獄にとどまるはずだ。そうでなければ、地獄の内部で虐げる者/虐げられる者という非対称な権力関係を描く意味はなくなってしまう。第2話における、地獄のテレビネットワークを牛耳るメディア王のヴォックス(Vox)をラジオという時代遅れ(has-been)のメディアを象徴するアラスターがやりこめる爽快さは、虐げられる者の逆襲という性質あってのものだ(なお、第2話のタイトル“Radio Killed the Video Star”はThe Bugglesが1979年に発表した楽曲“Video Killed the Radio Star”のもじりである)。しかし、こうした爽快さは、不本意に虐げられる者が報われてほしいという拭い去れない天国願望(あるいは救済願望)に由来している。天国願望は同時に、天国に門戸を閉ざされるような完全なる邪悪の観念を強化しうる。ル・ゴフは「天国へ入る人はつねに僅かしかいないから……境界が動くのは煉獄と地獄との間で、ということになるだろう」と述べている(渡辺/内田訳『煉獄の誕生』、340頁)。完全な中間領域という理想は観念することすら困難をきわめる。我々はカテゴリカルに分類することによって物事を理解するというプロセスから逃れられない。結局のところ、「どうせ地獄は地獄のままさ」(Hell is forever whether you like it or not)と高笑いするアダムは我々の鏡像であり、まさしく人類の始祖なのである。
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『ハズビン・ホテル』に関する基本的な情報や作品理解に資する文脈は、イラストレーター・作家のぬまがさワタリ氏がブログや寄稿記事で詳しく整理してくれている。まとまっていて読みやすいので、一読をお勧めしたい。
参考文献
ミシェル・ヴォヴェル(池上俊一監修/富樫瓔子訳)『死の歴史』創元社、1996年。
ジャック・ル・ゴッフ(渡辺香根夫/内田洋訳)『煉獄の誕生』法政大学出版局、1988年。
※リンク先は2014年に刊行された新装版。
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