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D・オグルビィに学ぶ 時を惜しまない 反・「時短ナルシスト」のススメ

「あの時こう言えばよかったなぁ」と思うことは誰にでもあります。

近年多くの人が常日頃より、簡潔に、明瞭なメッセージを相手に届けることが大切だ、と無意識のうちに考えているような気がします。

僕の好きな起業家に、「広告の父」と呼ばれる、デイヴィッド・オグルヴィというイギリス人がいます。ひょっとしたら彼が広告の中に「白抜きの文字を使わない」というルールを設けた人だということは聞いたことがあるかもしれません。「最近白抜き文字の広告をよく見かける。バカ共は俺の本を読んでいないんだろうな」と、よく晩年のオグルヴィはテレビに登場しては語っていました (本当はもっともっと口の悪い喋り方の人物です)。

僕は広告代理店出身ではないので、タイポグラフィの効果に関しては限られた知識しかありません。白抜き文字に関しても、彼がそう言っているのでそう言われれば、そうなのかな、というくらいです(現に今のオグルヴィ日本法人は白抜きの文字を時々用いています)。しかし実はもう一つの彼が解説する広告戦略には、非常に興味深いものがあります。それは「長くて詳しい文章を広告に載せる」という手法です。彼曰く、広告に長々と文章が載っていれば「何が書いてあるんだろう」と消費者が関心を持つと考えて、そのような広告のスタイルが生まれたといいます。

一方現代は物事を”シンプル”にすることを誰もが勧め、誰もが実践しています。広告の概念としてはオグルヴィの長い文章というスタイルから、まさに真逆に価値観が移動するパラダイムシフトが起こったと言えます。もしあなたが経営者であれば、今日(こんにち)のしかかるプレッシャーは、会社のコンセプトを1ぺージにまとめるプレッシャーではなく、一文にまとめなくてはならないというプレッシャーかもしれません。経営者でなくても、「自社の商品を一呼吸で伝えられなければお客さんに魅力を感じてもらえない」と考える人たちも大勢いるように思います。「一言にまとめられないと買ってもらえませんからね」と言うインフルエンサーたちも沢山います。

週末にこんなことがありました。ある非常に著名なベテランのベストセラー作家さんとお話をする機会があったのです。僕はその作家さんが京都八条にある東寺というお寺に関心があることを過去に読んで知っていました。僕の母校はその東寺の境内に校舎を構える学校だったので、東寺に関してならちょっとした接点があります。お会いした際にそのことに触れました。するとその作家さんは、「そうでしたか。それで今、お仕事ではどんなことを?」と僕に尋ねられたので、今取り組んでいることを伝えようとしたのですが、まさにこの時、自分が先に書いたような強迫観念、つまり「待てよ?こういう時は一言にまとめないとダメなんだったっけ?」という気持ちに途端に駆られ、ツイッターに収まる程の短い説明を作ろうとしてしまったことに気がつきました。質問に答えようとしている自分と、答えを作る上でフォーマットを世間の”トレンド”に合わせようとしている自分を見つめる自分が混在したとでも言いましょうか、「だってそうしないと今時の世間の人って、耳を貸さないって言うじゃないか」ー。普段は堂々としているはずの自分が、そんな焦りから急にこわばってしまう感覚を覚え、一方でそんな自分の姿を冷ややかに見つめるもう一人の自分がいました。

結論的に思うのですが、きっと一言にまとめようともまとめられなくとも、一度の返事で相手に伝わる分量にあまり大きな違いはありません。コンパクトでキャッチーなフレーズも、まとまりのない説明も、基本的には同一のものを指しています。例えばりんごをりんごの知識のない人に40文字程度(平均的な会話の中の返事の長さです)で紹介しなくてはいけないとしましょう。「りんごは赤い果物です。一般的に寒い地域で育てられていて、果実は木に成ります」という紹介と、「りんごは子供達を笑顔にする果物です」という説明は、りんごを知っている人からしたら、どちらも異なった方法でりんごが説明できているということがわかります。けれども「こっちの表現があっちより優秀だ」、という判断はここでは果たして適切でしょうか。どちらにも補足する箇所は残ります。つまりどちらもりんごを説明しきってはいないのです。だから「しまったな、あの時、実が木に成るといった説明の代わりに、りんごっていうのは子供達が大好きな甘くて美味しい、、、と言った方が良かったかな」という心配は、手短に答えようとする条件のもとでは、基本的に不要だと言うことができます

そうなるとビジネスにおいても同じことが本来は言えそうな気がします。例えばあるお菓子の会社を営む社長さんが、自分の会社の紹介を「私たちは家族や友人に贈りたくなるような最高の商品を、日々作っている会社です」と言ったとしても、「うちは主にプリンを作って全国に出荷している会社です」と言ったとしても、その会社が製菓会社であることに変わりはありません。むしろ「商品」が何なのか (プリン) がわかる方が理解する上でありがたいと思うのですが、なかなかどうして、社会の票は「うまく言い当てる」詩的表現の方に流れていってしまうのが実情ではないでしょうか。

見渡す限りややもすれば今はそんな世の中かもしれませんが、日々人と関わる上で、少しの工夫を取り入れることはできる気がします。もし私たちの周りに簡潔な説明、返答、紹介をしない人がいたとしても、そのことでその人を時代遅れに思ったり、批判めいた思いを抱く自分の気持ちに「待った」をかければいいのです。もうあと30秒今までより長く、相手に耳を傾ける時間を取ることにすればいいのです。

昨今の世の中は、誰もがさも「時」が惜しいかのように騒ぐ風潮がある一方で、私たちは過去に前例がないほど無料コンテンツに触れる機会がある時代を生きています。あらゆるものに対価が生じていたほんの一昔前の時代、時間には文字通り1秒1秒お金がかかっていました。電話はその最たる例です。今はどうでしょうか。大勢の人たちがスマホでの会話やメッセージのやりとりを思う存分できるのは、かけ放題、パケ放題といった制限の解除、仕組みの変化によるものです。ですから考えようによっては、実は時が惜しいと大勢の人が時短思考に走るのは少しおかしな話ではないでしょうか。今までお金がかかっていたものにお金がかからなくなったのなら、どうしてお金をかけずに見たり聞いたり話したりすることができる時間を、これほどまでもったいないと感じなくてはいけないのでしょう?

時は誰もに平等に貴重だと言えます。自分の時間も他人の時間も同じく尊いものだと言えます。その普遍的な事実を踏まえた上で、私たちはあまり自分の時間を過大評価せず、時には時を惜しまず、様々な人の言葉や情報に耳を傾けられる余裕をいつも持っていたいものです。

オグルヴィも初めは無名です。ではその天才を発見したのは一体誰だったのか、という話を最後にして終わることにします。これは初期の広告主一人の功績ではありません。彼の作った広告の、今の広告の常識で考えると長すぎて敬遠されそうな文章に目を通す「余裕のあった」大勢の消費者たちが、この天才の本当の発見者です。ですから広告業界の先駆者となったオグルヴィが広告というものを生み出したと一般的には考えられていますが、それは話の半分です。消費者がオグルヴィに広告を生み出す機会を与えたことで、オグルヴィの広告人としてのキャリアが生まれた、というのが本来は正しい順番です。

「時短」という考えを一旦脇に置く勇気を持つことは可能でしょうか。私たちの心に今よりもう少し余裕が生まれると、もしかすると様々な分野に本当はもっと、世界を前進させ得る新たな天才たちを発見できるかもしれません。


  (文・西澤伊織 / 写真・ Ogilvy & Mather Advertising)

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