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随筆(2022/11/21):自由と呪縛_1.「自由である」という感覚

0.『呪術廻戦』は今のところ読んでないんですよ(じゃあヘッダに使うなよな)

今回のテーマは『自由と呪い』なので、それにちなんでヘッダにジャンプ大ヒット漫画『呪術廻戦』を置いたものです。
しかし、実は私は『呪術廻戦』を読んでないんですよ。(何なんお前)
『胎界主』とかなり近い思想で、しかし決定的に違う話をしているようで、興味深いのですが、とにかくまだ『胎界主ピュア』後半も読み切れてないので、それが終わるまで手出しできないんですね。

『胎界主』は、
「どこにでも行ける、何でも創れる「自由」がある。
創った後で誰かにあげることで、人の絆もできるし、場へも参入できる。
が、創ったものや創った場が、そのうち自分や他人を縛り、どこにも行けなく、何も創れなくすることがよくある。
だったらそれは最早「呪い」、「呪縛」になる。面倒な話だなあ」

という話をよくします。

で、『呪術廻戦』
「どこにも行けなく、何も創れなくする機能、「呪い」がある。
それは「自由」にとっては忌まわしいが、使える力でもある。
そこら辺の葛藤があるから、それと付き合っていくの、忌々しいんだよなあ」

という話であるように漏れ聞こえます。
自由が主題で呪いが副次的な話題か、逆に呪いが主題で自由が副次的な話題か、ということなのかな。
(そうかどうかの答え合わせは、いずれせねばならないのでしょうが、つまりはちゃんと読まねばならないのでしょう)

1.「自由である」という感覚

さて、ある種の人たちには言うまでもないことを、再確認のため書きます。

人間にとって、あるいはひょっとしたらある種の動物にとって、「意識」や「自己」や「自由」というものは非常に重要なものです。

***

何らかの行動に寄与する、外界に関する神経反応があります。それは客観的には感覚と区別できません。

感覚は外界だけでなく、自分の身体の状況や、自分の行動の状況にも、特有の反応を示します。
哲学者・認知科学者のギャラガーによると、身体の状況の感覚は「身体保持感」、行動の状況の感覚は「運動主体感」と呼ばれます。
運動主体感は、身体保持感に加えて、「一連の流れで予測通りに運動制御できている」ことで培われるものです。

「この体で、感覚の伴う行動をしている」
と感じられると、まあそれは身体的にも行動的にも「自己感覚」の萌芽だし、その感覚の一群はある意味で「意識」の萌芽と言えるでしょう。

「外界の他の個体の体は、自分の予測通りに行動しないどころか、予測と異なる行動をするんだなあ」
と思うと、これは他者性ということになるでしょう。

「外界の何かや他の個体の体によって、予測に反して、この体に対してなんかされているぞ。これはやばいのでは?」
となると、これは何らかの侵害にさらされている、ということに通じます。

もちろん、
「この体で、感覚の伴う行動をしている。そこに不一致はないように感じる」
ようであると、これは「自由」ということになるでしょう。
少なくとも感覚レベルでは自由自在にできているのだから。

***

ある種の動物にとっては、
「この体で、感覚の伴う行動をしている。そこに不一致はないように感じる」
というのがなければ、何かをすることすら覚束なくなります。

そんなものは、

  • 身体保持感も運動主体感も伴わない外界の物理現象や、

  • 身体保持感はあっても運動主体感のない単なる体の不随意運動他人からの侵害

区別できません。

じゃあ、そんなんで、自分の運動に対する
「これは自分がもたらした結果だ。
自分がやったんだ。
当然自分の目の前にあるに決まってるわな。
その結果が歓迎せざるものであろうとも、対処するなり逃げるなり、何とかせなならん」

という初歩的な責任感など、芽生えようがないんですよね。

***

もちろん責任感が芽生えるのは、
「自由の歓迎せざる結果を食らって、それをどげんかせんといかん、と覚悟を決めた、その後」
での話なので、自由であれば直ちに責任感が芽生えるという話ではありません。

このメカニズムを無視して
「自由には責任が伴う」
という偉そうな話をしても、伴うような状況にないなら、それは端的に偽です。
それは、伴うような状況を整えて、水を向けて、初めてそう言ってもいい、という類いの話でしょう。
じゃあ、整えて水を向けてから言いましょう。

そして、もっと悪いことを言うと、上の警句はしばしば、自由を損なう機能、要は「呪い」にすぎません。
他人の責任感があっていてほしいがために、他人の自由をどうにか弱めておきたいから言っているのだから、呪いとしか呼びようがないでしょう。

***

まあ、それは実は当たり前ではあります。
上に書きましたが、他人の自由は、自分に侵害をもたらしうるものです。
これはもう原理的にそういうリスクを内包しているものです。
だから、他人の責任感は、自分に対する侵害を抑制するから有難いのです。

自由、素晴らしいが、だからこそ恐ろしいのです。
だって他人の自由は「自分の意に反してなんかする」自由なんだから。
その中には「自分の意に反して自分をどうにかする」自由も当然含まれている。

他ならぬこの自分の利害や、特に安全のことを第一に考えたら、
「他人の責任感があっていてほしいがために、他人の自由をどうにか弱めておきたい」

ということに、当然なる訳です。

***

上の話をやる場合、根本療法と対症療法があります。
ここでの根本療法は、単語の響きに反して、決して肯定的なものではありません。
「元から断つ」根本療法を試みるなら、それは他人への侵害という形しか取り得なくなるでしょう。
というか、かなり安易に「敵は全部殺すんだ」という『黒の予言書』理論に直結します。
それでは他人とやっていける訳がありません。
やめましょう。


Sound Horizon アルバム "Chronicle 2nd" 1曲目『黒の予言書』

対症療法的に
「私は自由、あなたも自由、それは基本である。
だが、実際にやったら衝突はあるものだ。
なので、交渉して、落としどころを決め、お互い一応納得と妥協と決定の上で妥結し、そのラインは当面守る。
改訂はあったとしても、やはりそれは妥結のプロセスをもう一度やる」

ということをせねばなりません。
自由主義者にとって、自由と外界・他者をすり合わせるやり方として、広く受け入れられている路線がこれになります。
少なくともこの場合については、実は、対症療法こそが有益なのです。

もちろんその時に、各自が各々のかつてやったこと、今からやれることに対する責任感を持っていると、どうすれば落としどころに至れるか大幅に整理されるので、たいへん有意義でしょうね。

***

ちなみに、これを言うと死ぬほど嫌がられるのですが、妥結のためにかかる労力コストは、決して軽微なものではありません。
というか、数回に及び、深夜に差し掛かるものとなった場合、しばしば労力コストは途方もなく高くつきます。
各自が困ったことになった場合、各自はそれを払っていられません。

だから「話し合えばいいではないか。簡単で安全だよ」という呑気な意見にも与しがたいところがあります。
安全さはさておいて、簡単か? ということです。

切羽詰まっている時に、状況や支援の可否の確認と、その応答以外の労力コストがかかるべきではない。
そして、そこの確認と応答が終わったら、まず余力のある方が余力のない方を手伝いましょう。
お互い落ち着いて、話す余裕が出てきたら、改めて話し合う。
もちろんそこまで回復したり整理したりするのもだいぶ時間がかかりますし、これを他人がとやかく急かすこともできません。
状況確認して、回復や整理ができてないなら、待ちましょう。
というか、見た限り相手がおよそ回復してなさそうであるなら、そもそも問いかけずに黙って待つしかないように思います。
確認するのは答えてもらうための行為です。
つまり、こちらからの状況確認自体が、基本的に相手への応答への労力コストを強いる行為そのものなので、相手がバテてるときにやるべきではありません。

そんなわけで、もちろんこれは、各々が共に余力を持てなくなった時には通用しないやり方です。
が、双方またはどちらかに余力があるなら、「話し合う」か、「それ以前の問題として、お互いが話し合える余裕を確保する」か、どちらかはしなければなりません)

***

さて、次回は「呪縛」の話をします。乞うご期待。
(この文字列で「乞うご期待」も何もないもんだが…?)

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