見出し画像

決定的なチャンスに弱いフォワードの僕に対する父の指導法


やっぱり得点よりも、FWとしてチームのためにどういうプレーが出来るかがより重要だと思います。

上記は元日本サッカー代表の柳沢敦選手の言葉だ。


僕は小学生・中学生とサッカーをやっていたのだが、最初はサイドバックからスタートし、ミッドフィルダー、フォワードとポジションを変えてきた。


フォワードは足が速いという理由で不本意にやらされていたのだが、フォワードとしてのタイプはチームの為に献身的なプレイに徹する柳沢選手に近かった。


ポストプレーや現代サッカーでいうディフェンシブフォワードと呼ばれる働きが多かったため、柳沢選手のプレーをよく見ていた。


素晴らしい動きをする柳沢選手を目標にしていた僕だが、柳沢選手の似なくても良いところまで似てしまった。


それが「決定力不足」


みなさんもご存知の通り
柳沢選手は決定機に弱いことで知られる選手だ。


僕がフォワードに起用され、何試合も得点出来ない日が続いたことがあった。この時は小学生ながらに苦しかったのを覚えている。


両親が応援に来るなか、決定機を外しまくる僕。
僕もかなり辛かったが応援に来ている両親もかなり辛かったと思う。


そりゃそうだろう。
他の子供たちの両親とピッチサイドで応援しているなか決定機を外す僕。落胆の声のあげる他の両親。その隣にいる僕の両親。


恐らく自分の息子が情けないと言った気持ちや恥ずかしさで溢れていたと思う。
その場に居た堪れなくなったのだろう。
リーグ戦途中から母はあまり応援に来なくなった。


得点が決められなかった試合の日は家に帰って、また得点していないことを告げると「ああ、またフォワードなのに得点できなかったのね。」と言われるのが非常に嫌だった。


さらに冒頭で挙げた柳沢選手がサッカー日本代表で決定機を外すシーンがテレビで流れると「⚫︎⚫︎(僕)の試合を見ているようですごい嫌だ」と言っていた。


何故、決定機で外してしまうのか。
正直自分でも分からなかった。


決定機が来ると自分の脳内時間がスローになってしまい自分の身体が硬直し、キックができなくなってしまう感覚


自分でもどうやったらゴールを決められるのか
解決策が見出せなくて、自分はなんてダメなんだという思考に陥り、次の決定機でも体が硬直するという悪循環に陥っていた。


試合後はいつも自分の部屋で塞ぎ込んでいる僕に対して優しい父はいつもその日の試合の振り返りとアドバイスをくれた。(母は試合の応援に来なくなったが父は来ていた)


父はサッカー経験者というわけではないが
僕がサッカーを始めた時から会社のサッカー部に入って休日一緒に練習していた。


その時のアドバイスは頭ごなしに「何故ゴールを決められないのか」というなんの解決策もない指摘ではなく、その試合の具体的なプレーのシーンを図や身振りなどで再現してくれて、「本当はこう動いた方が良かった」などの具体的なアドバイスで良かった。


父は決定機で決められないことについては

「良い結果を出すには良い準備をすること」

と言っていた。
ボールをもらってから考えるのではなく、プレーの流れを意識して予測したり、パスをもらう前には自分の顔を上げて周囲の状況を確認したり、良い準備をしなさいということは常に言われていた。


父のアドバイスをもらったおかげか
得点できない長い長いトンネルから抜ける日が訪れた。


その試合のゴールは長く辛かった時期を過ごした後のゴールだったからか十数年たった今でも鮮明に覚えている。


僕が前線でオフザボールの動きで相手DFの死角に入って相手の裏へ抜け出す動きをして、中盤からスルーパスを出してもらい、相手DFと競りながらも足を伸ばしてゴール。


かなりに似たゴールがこちら。↓


この時は相手と走りながら競り合っていたのも良かったと思う。競り合っていたので、緊張とかそういうのは忘れてがむしゃらになっていたので
身体が硬直することもなかった。


ゴール直後に感じた「やっと決められた」という安堵の気持ちとゴールしたことの高揚感、嬉しいんだけど泣き出しそうな気持ちは二度と忘れないし、これからの人生ではもう経験できない気持ちだと思う。


綺麗なゴールとは言えず、かなり泥臭いゴールとなったがこれを機に自分の中の壁が壊されたのか、その試合では中盤からボールを持ってドリブルでDFを2〜3人抜き、右足のインフロントでゴール左隅にゴール。2点目も決めることができた。


当時はあまりにも自分のゴールが嬉しくて
父にはアドバイスを貰ったにも関わらず、感謝を伝えていなかった。


また父も喜んでくれていたとは思うが、どんなことを思っていたのか、深く考えることはしていなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


今まで知らなかった当時の父の気持ちを数十年後の結婚式の準備で知ることになった。


昨年、結婚式をしたのだが
司会から新郎新婦の紹介をするにあたって、「新郎の両親の思い出エピソード」を集める必要があった。


父・母それぞれから僕に対する思い出のエピソードをもらったのだが、そこに父はこんなことを書いていた。

(思い出のエピソード)
小学生のサッカーの試合でゴールを決め、チームの勝利に貢献したことが今でも思い出される。リーグ戦ではセンターフォワードに抜擢されていたが、無得点の試合が続き、本人のみならず親にもプレッシャーがかかっていた。そこで、がむしゃらではあったがゴールし、その後2点目も決め、親は泣いて喜んだが本人はあっけらかんとしていた。(略)

少し省略したが、当時の状況なども事細かに書いてあって当事者でないのによく覚えているなと感心した。


思い出のエピソードをもらった後に
少し話す時間があったので当時のことを聞き
長年言っていなかった感謝の気持ちを伝えた。


僕「無得点が続いた時になんで決められないのかではなく、具体的なアドバイスで良かったよ。ありがとう」


父は照れくさそうに
はぐらかしていたが嬉しそうだった。


僕「親は泣いて喜んでいたが、本人はあっけらかんとしていたって書いてるけど、そんな感じだったっけ?」


父「うん、あんなに無得点が続いたあとのゴールなのに全然嬉しそうじゃなかった」


どうやら僕の心の中では感情を爆発させていたつもりだったが、周りから見るとそうではないように見えていたらしい。


父が僕と同じくらいの熱量で当時のことを覚えてくれていたことも嬉しかったが、僕も長年伝えられていたなかった感謝を伝えられて良かった。


また父から教えてもらった以下の教訓は
社会人になった自分の中にも根付いており、その点についても父には非常に感謝している。

・良い結果を出すには良い準備をすること

・失敗した他人に対して感情的に叱責するのではなく、具体的なシーンを反省し、振り返る

冒頭に述べた柳沢選手の名言ですが、もうひとつ名言があります。それは「急にボールが来たので」です。これは2006年ワールドカップ、日本対クロアチアで0−0で折り返し、右サイドからのセンタリングで後は柳沢が押し込むだけという場面で枠外へシュートしてしまったシーンです。ネットでは柳沢の試合後の発言、「急にボールが来たので」をイジり、「Q(急に)B(ボールが)K(来たので)」という言葉が生まれました。それ以外にも言葉ではありませんが、2003年セネガル戦の不朽の名作「ヘナギサイクロン」なども有名です。これはゴール前で中田からパスをもらい、押し込むだけという場面でふんわりのシュートを真上に打ち上げたことを指しています。しかし、僕は柳沢選手を責めることができない。気持ち分かりますよ。ロベルトバッジオのPKの名言「PKを外すことができるのはPKを蹴る勇気を持った者だけだ。」とあるように決定機を外すことができるのは決定機を作ったものだけだ。ボールをもらう前のオフザボールの動きが素晴らしい柳沢選手だからこそ、生まれた決定機だったんだ、そこに外野が指摘するべきではない。そう思おう。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?