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体験小説、14年のグランドプラン。

世界は、未知に満ちている。

量子はなぜもつれるのか、観測によって姿を変えるのか。
AIは意識を持つことができるのか、そもそも意識とは何か。
人は死後、どこに行くのか、未来は死を超克するのか。
時間は逆再生できるのか、相対性理論と量子力学は統合できるのか。
私たちはなぜ、生まれて、生きているのか。

僕は比較的、すべて知りたい。
そして14年間の計画を立てた。

量子力学、人工知能、生命科学、時間物理、それから社会、神、植物、海と宇宙のことが分かれば、概ね世界の造形を掴める気がした。

そしてそれをすべて、0からつくってみることにした。
そして現れた一時的な仮想世界を、身体的に共有し、分かち合って、得るクオリアを確かめた。

その感覚は次の物語に文学的に変換し、その物語をまた、世界に現した。

そうして繰り返してきた営みも、早9年目。
今ここで、計画の全貌を明かしつつ
あらためて、共犯を募りたい。


はじめましてな方へ。

こんにちは。
体験作家のアメミヤユウです。

体験作家とは、仮想の世界の物語を小説として描き、それを不特定多数が体験できる形に現し、開く、一連のプロセスを「体験小説」という一作品として扱う作家の種類です。

↓がわかりやすいコンセプトムービーです。

開く体験の種類は、フェスティバルやイマーシブシアター、リレーショナルアートやワークショップなど様々ですが、最大多数の最大そうぞうを狙いがちなので、フェスティバルというメディアを使用するケースが多いです。

上図のようにして不特定多数の人々と共に、空想の世界の物語をフェスティバルとしてでっちあげ、そこで得たクオリアを再び小説世界にフィードバックする営みを繰り返し、3年で完結させます。

1つのマルチバースを同時代同空間上に成立させ、その歴史を記述することが作風の骨子となります。

「もっと詳しく!わかりやすく!」という方は下記の記事へ。

経営している会社「Ozone」は2016年、このプロジェクトの始まりと同時に創立しました。

Ozoneでは「ソーシャルフェス®︎」というプロジェクトを主に営んでいます。これは”SDGsそれぞれのゴールが終わった後の世界をフェスとして表すフェス作りプロジェクト”です。

要義としては体験小説同様、複数人で身体的なクオリアを共にするという社会に類似した環境設定により、明瞭度の高い立体的な未来のそうぞう機会をつくるというものです。

「もっと詳しく!わかりやすく!」という方は下記の記事へ。

と、まぁ、自己紹介記事ではないので、ここら辺で鞘に収めつつ
本記事では冒頭の図の解説をベースにして、これまでと、これからのことをお話ししたいと思っています。

上図右部の西暦と「作品名」はそれぞれ、前述したソーシャルフェスや体験小説の作風をもって現してきたフェスティバルの開催年と、名称です。

「/」より右はその年のフェスティバルのテーマ、あるいは好奇心の矛先となります。

量子力学/社会

1stキャリアは量子力学と社会に狙いを定めた「Quantum」というフェスティバルでした。各年において(この3つで社会が象られているわけではないものの)エネルギーと、経済と、政治という重要な3つのファクターの、それぞれの未来を想像して、1日限りのフェスティバルとして現してきました。

それぞれの詳細は省きますが、例えば初年度であれば秘密裏に開発された独立型電磁力発電装置を使った、クリーンでフリーな未来のエネルギーを活用しました。2年目は地域通貨とユニバーサルベーシックインカムを組み合わせた、やさしい経済の仕組みを考案し、来場者全員にフェス内通貨をベーシックインカムしました。3年目はダイレクトデモクラシーのプロセスでフェスを作ってみる実験をしました。

量子力学の観念をフェスティバルビヘイビアとしてブレイクダウンして共有しつつ、マクロの世界を量子の世界と夢想的に重ね合わせ、我々は観測し合いました。

人工知能/神

次は渋谷を舞台に『KaMiNG SINGULARITY』という"aiが神になった世界"を現す体験小説を発表しました。

『KaMiNG SINGULARITY』から体験小説という作風が成り立ち、仮想未来の小説を書き、3部作の1部ずつ毎年制作していく形式となります。

また、舞台となる土地の近くに移住し、生活をしながらその土地の物語を描くという哲学も追加されることになります。

本作は渋谷100BANCHを拠点に企画制作を進め、東急電鉄、マイクロソフト、ティファナドットコム等と協働させていただき、人工知能と人間と神の3点の関係性の中から、人とAIにまつわる様々な未来の可能性を思索しました。

初年度は渋谷ストリームホールにてメディアアート的なフェスティバルを、2年目はYoutube Liveにてaiが神になった世界のセレモニーや、ダイアログの配信を、3年目は渋谷キャストでイマーシブシアターとして作品を発表しました。

その結果わかったこの世界のことは、下記の曼荼羅にまとめました。

生命科学/植物


そして現在も制作中の作品「RingNe」へと繋がります。
舞台は神奈川県西部、南足柄市。開催前年から近隣に引っ越し、南足柄の湧き水を毎日飲みながら、林業や農業を経験し植物に毎日触れ合いながら、この土地を舞台にした小説『RingNe』を書き上げました。

『RingNe』は『KaMiNG SINGULARITY』の前年譚として世界線が連なる物語になっており(未来を書く以上人工知能を避けられないということもあり)、『KaMiNG SINGULARITY』で描いてきた「主体意識の在処」という人とAIと神の問題を、植物という身近で不可思議な生命圏まで広げ、植物の生命システムや種としての立ち居振る舞いから「新たな生命感覚の立脚」というテーマまで、作品のレンジを広げています。

RingNeは森をアナロジーにしたDAOという制作運用方法を立ち上げ、制作はより自律分散型となり、自分のポジションもプロデューサーから原作者、プラットフォーマーへシフトしていくことができるようになり、体験小説という文化が芽吹き始めます。

現在は第1章の制作が終わり、今年第2章が9月22日に場所を同じく夕日の滝で催されようとしているとことです。

上記は第1章のクオリアを経て追記した『RingNe』第1部の物語です。

RingNeではフェスティバルのタイトルロゴが「芽」→「花」→「種」と毎年変化していくのですが、今年は「花」の年。花とはミツバチなどの昆虫や、鳥、人、風など多様な役者が集い、植物たちの受粉をはじめとした略奪やハプニングなど様々な物語が生まれうる舞台装置なので、今年は200名ほどの関係者と共にイマーシブシアターを主軸とした、謎解きやライブが絡み合う野外イマーシブフェスティバルを作り上げます。

作中に出てくる「ダイアンサス」という植物主義時代の過激派DAOが執り行う「植物に人の意識を転送する人体実験」を舞台にした作品となり、来場者はその謎を解き明かす探偵一派の一員として、フェスティバル内でとある人物の救出ミッションを行います。

昨年の様子

そして来年2025年は、作中の3部同様「人類最後の祝祭」を催します。

作中で、絶滅という未来を前にした人々はそれぞれどのように命を終えるかを考え始めるのですが、そのような設定の上、運営も来客もないギャザリングとして、命と向き合う最期の時間を共に過ごします。
日程は9月20~23日を予定しています。

来年の続報はアメミヤのSNSRingNeオフィシャルをチェックです。

時間物理/海と宇宙


そして、その次。
時間と海と宇宙をテーマにした物語を想像中です。

現在制作しているRingNeの舞台「夕日の滝」は金太郎伝説発祥の地なのですが、次は浦島太郎伝説発祥の地である京都北部「京丹後」と、同じく浦島太郎伝説の記録がある「横浜」の2箇所を舞台にしようと検討中です。

「時間」は相対性理論や熱力学第二法則など基本的な物理法則により支えられていますが、一般相対性理論を量子化した「ループ量子重力理論」では時間そのものの存在を否定します。

世界は量子の配列の違いにより属性が現れ、世界は関係でできているというこの理論の世界観をベースに、浦島太郎という最古の時間SFをアレンジした物語を考えています。

そして海と宇宙という宇宙生命、地球生命それぞれの始まりの場についても研究し、その相関性や普遍性についても明らかにしていきたいと思っています。

そして2027年~2029年の「TiME(仮)」が終わる翌年2030年
弊社Ozoneも幕を閉じます。

なぜ終わるのか、そしてその後についてはこちらの記事へ。

虚構/現実

全ての作品において、今ここではない未来を想像し、それを現代で創造するというコンテクストがあります。

大体自分は秋〜冬に小説を書き、春〜夏にフェスを作るので、年間の半分は未来の世界にいます。またフェスの制作中においても、共犯者の皆様においては頭は未来へ、足は現代へという、未来と現代、虚構と現実のあわいを共にします。

そもそも虚構と現実を隔てるものとは何でしょう?
少なくとも我々の脳は、虚構と現実を隔てる機能がありません。

映画やドラマで主人公に共感して涙すれば、それが例え虚構の物語であっても、現実同様のクオリアが発生します。

また、政治や経済、宗教など社会を構成する様々は虚構によって成立し、虚構を集団的に信仰できる力こそが、ネアンデルタール人との生存競争に勝利した所以とも言われます。

つまり、社会は仮想的に、一時的であればたった複数人でも構築することができます。子どものごっこ遊びの中で、確かに家庭が存在しているのと同じように。

であるならば、1つの世界線に留まり、変えようにも変え難い世界の生きづらさやもどかしさに苦難するよりも、自分たちで想像のあたう限りの世界をでっちあげ、体感してしまおう! というのは、虚構を共有する能力を持つ人間の、最も人間らしい遊びだと言えます。

現実逃避?いえいえ、現実創造です。人類はそろそろ、争いの勝者によって文明を決めるのではなく、皆が自分が生きるに値する世界を自ら創って、他を変えようとせず、自らのご機嫌な暮らしをお裾分けし、過干渉なく交易しながら交歓する、戦争や権威による圧力のない、平和な世界を目指した方がいいです。

ましてやこの世界は生きるに値しない、という判断を下し自死してしまうくらいならば、そうでない世界ができるまでみんなで遊びながら創り続けられる体験小説という文化創造は、この世界に蔓延る虚しさや無常に対抗し得る1つの希望です。

人が不完全である以上、想像の可能性は無限にあり、未知は尽きることがありません。今どき、どんどん分からなくなることでしか、真っ当な品性など保てそうにもありません。

虚構と現実の壁を破壊する体験小説という営みは、文化レベルでそうぞう機会が拡張してもいい骨子があり、だからこそ、多作多様な世界そうぞう機会を開き、様々な興味関心から、この文化体系へ誘おうとしています。

体験小説をつくる3年間という期間は、義務教育を得た民からすると馴染みのある区切りです。その実、3年も共に虚構と現実のあわいを共にして、想像を創造していれば、共犯チームは実に不思議で特別な間柄となります。

共犯者だけが共有できる、誰もしないけれど確かにあった”特別な歴史”を分かち合えます。それは未知を増産するとか、そうぞう機会を最大化するとか、パーパスを差し置いても重要な「人生の思い出」とやらになります。

人は死ぬ間際に夢を見ますが、その夢の中に出てくるやつです。それくらいの力を持ったエピソード。個々においてはそのような思い出と歴史を、人類にとっては未知の体感、そうぞう機会の最大化、あるいは真に自由な表現の前例を、この作風を持ってして成そうとしているところです。

わたし/あなた

小説による文学的な動力による極私的な発散と記憶の編集を経て、フェスという不特定多数による集団想像、創造が可能な媒体を用いて、不確実性を維持したまま体験を更に不特定多数に開き、自己を含めた人環境で起こる現象を観察し、帰納させ、パズルのピースを増やし演繹的に関連付け、世界の解像度とぞうぞう機会をあげていくのが、この作風による営みと言えます。

その営みは個人研究のみに帰結せず、共犯者全体にそうぞう機会を開き、未知の世界の発見から世界観の深まり、ひいては世界を抜本的に変更するスキームを通して、文明の変化率を最大化、つまり恒常性に資する、極めて生物的な欲望と好奇心に準じたものでもあります。

わたしは世界で、あなたはわたし、あなたはあなたで、わたしは誰でもない、等しく個性的な属性間で、紡がれて現象する網目の中で、わたしとあなたの間で何が生まれるのか、何が変わるのか、その未来にも興味があります。

小説を書くためにはそのテーマにおいて基本的な知識の学習や、身体的な文章を書くための体験が必要で、フェス作りにおいても同じく、人の習性や癖の学習及び、制作するコンテンツの原体験となる体験が必要です。

つまり年に1度のハレの場を作っているように見えて、その世界のそうぞう機会としてはそれまでの364日の方が開かれていて、例えば「RingNe」であれば農業や林業など植物に触れ合う機会を通して、研究テーマの学習が進められることになります。

「知る」とは「在る」ことです。
知ってしまったものはそこに在ります。
ましてや、体験により体感してしまった身体知は、自らの言語の血肉となり、そうぞう機動のための資源となります。

1作3年完結で4つの作品を完結させるこの期間は、小説を書くに至るまでの学習や経験、小説による文学的想像、多数の偶発的発想によるフェスの創造、そこで得た立体的な仮想世界の身体知をもって、次作の言語、そうぞうの資源に繋げる営みです。

このフィードバックループを繰り返した自分は、共にした共犯者たちは、いったいどのような世界認識に至るのか、その壮大な人体実験とも言えます。たぶんこの文章を読んでいただいている方も、よく分からんなと思いながら読んでくださってるかと思いますが、もっとよく分からなくなっていくでしょう。

もはや言語を用いるかどうかもわかりません。実際、KaMiNGやRingNeを終えた後のクオリアは、言語にするのがとても難しく、この感覚を伝える術は体験小説でしかない故、また次の体験小説が生まれるということもあります。

神でさえ世界は1度しか創っていないのですから、たった14年で4つの世界を創ることはなかなか大変な業ですが、完全に没入してやり切ることでしか得られないクオリアが確かにあります。

本プロジェクトは途中入退場自由です。
共犯したいタイミングでご参加いただき、娑婆に帰りたいタイミングでご帰宅いただけます。

もし、このクオリアを共にしたい方がいれば、文化を広めていきたい方がいれば、創る側でも、広める側でも歓迎ですので、ひとまずどうぞお声がけください。フェスティバルというのは、すべての人が必ず役割をもてる場です。あらゆる属性の人々が必要とされる場です。

なので、臆せずどうぞ。やり切った分だけ、未知の報酬がやってきます。

この14年間のフィードバックループやグランドプラン、4作を跨いで完結する小説作品やフェスティバルの総体を現す語彙を、まだ芸術界は持っていないように思います。

なので体験小説、と名づけておりますが、いったいそれが現世においてどう扱われるのか、あるいは発見され得るのかは、甚だ不明です。こと、この総体の話においては現世に忖度した丸い言語で伝えることが、作家として、作品に対する矜持として、なかなか加減できないものがあります。

とはいえ、これまで書いてきたような内容が果たしていかほどの人々に届くのか。それはきっと極々、少数でしょう。ですから、もし本総体が社会的な評価を得て現世において文化レベルに発展し得るためには、伝道者の存在が不可欠です。

現世の現時代の感度にあわせて翻訳し、ある程度のファシリテートをしながら、各々の持つ語彙として観念を再生させる技術をふるい、伝搬していく役割です。もしそれができ得る人がいるとすれば、本記事をここまで興味深く読んでいただいた方のどなたかなのだと思います。

本総体の命運はあなたにかかっています。僕はこれからも作り続けます。あなたも多分、作り続けます。それがもっと広い範囲で、皆が作り続けられるように、その抜本的に世界の有様に影響を及ぼす歴史的大犯罪に、手を貸していただければ幸甚です。



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「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。