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体験小説『RingNe』 第1章-生/巡-


前書

『RingNe』は小説で書いた空想の世界を現実の世界にフェスティバルとして現す体験小説です。アメミヤの個人的想像で書いた小説を、特定多数の制作チームが自由に解釈し、フェスティバルとして自律分散に創造し、不特定多数の来場者と共に世界を仮装し、共犯し、顕現させます。

そこでフェスの中で実際に起きた偶発的な新たな物語との邂逅を小説に改稿し、想像世界に現実からのフィードバックを入力します。小説は全て三部作として描かれ、第一章は初年度のフェス、第二章は2年目というように、想像と創造、虚構と現実、未来と現代を相互干渉させながら3年間反復させ、最終的に1つの小説となります。体験小説は3年間に及ぶ共犯関係の中で起きた変化や結果、全ての歴史を物語とし、完成します。

以下より続くのは『RingNe』第一章の物語と、それが現実に現れた記録が交差する体験小説です。第一章では主に作中序盤のフェスティバルの様子が顕現されています。ただのフィクションではない、小説より奇なる事実が織り混ざる物語をお愉しみください。


あらすじ

人は死後、植物に輪廻することが量子化学により解き明かされた。この時代、人と植物の関係は一変した。 植物の量子シーケンスデバイス「RingNe」の開発者、春は青年期に母親を亡くし、不思議な夢に導かれてRingNeを開発した。植物主義とも言える世界の是非に葛藤しながら、新たな技術開発を進める。幼少期に病床で春と出会った青年、渦位は所属するDAOでフェスティバルを作りながら、突如ツユクサになって発見された妻の死の謎を追う。森林葬管理センターの職員、葵は管理する森林で発生した大火災に追われ、ある決断をする。 巡り合うはずのなかった三人の数奇な運命が絡み合い 世界は生命革命とも言える大転換を迎える。植物を通した新たな生命観を立脚する、植物と人間とAIの”生命”を巡る物語。

第一章は下記より聴くこともできます。

本文


#三田春 

まず、光があった。光合成で吸収しきれなかった緑色の光。その陰が降り注いでいる。大蛇のように地を這う根、バベルの塔のように聳える幹、太陽の力が溢れてひび割れた樹皮に、手を伸ばすも触れ難い。重心を前に倒し、不可抗力を装って触れた。分かった。

 「人は死んだら植物になる」
 どこからか氷のように冷たく美しい女性の声がした。目の前の景色が展開し始める。

 海、風、雲、雨、土、火、雷……鳥、鹿、蜂、菌糸、ササラダニ……目眩く量子配列、創発して現象する世界。人は植物に輪廻する。樹冠の揺らめきや樹皮の密度に自らの身体を参照し、未来と感覚を同期した。

体内の水脈、迸る電気信号、意味は香気で発信し、時間は色で受信した。無数のセンサーが情報の流動性を担保して、雪崩れ込む感覚は万華鏡のように美しいフラクタルだった。

 花弁を散らせ、円環の廻りを祝った。気付いたら目が醒めていた。

 これは少年期の夢。毎夜のように見ていたので、今でもはっきり記憶している。夢から醒めた朝は何百年も前からここにいるようにも、今来たばかりのようにも思えて、時間がぼやけていた。包丁がまな板を叩く音が台所から聞こえてくると、少しずつ現実にいる感覚が取り戻される。

 父は僕が生まれる前に失踪し、母と二人で暮らしていた。三階建てのアパートの一室、たくさんの植物と本に溢れた家だった。ある日、父が失踪した理由を母に尋ねた。

「森に帰りたくなったんだって」と言っていた。当時はそんな御伽噺のような理由を信じてしまっていたけれど、御伽噺は大抵何かの暗喩であることを今なら知っている。父は恐らく土に還って、帰らぬ人になったのだ。

 母は毎日の昼の仕事と、三日に一度の夜の仕事をしていた。夜の仕事がある日は、夕方から出かけ翌朝まで帰ってこなかった。

 小学二年生の僕は、母の夜の仕事の日に併せて、夕方からこっそりと金時山へ行くようになっていた。父は森に住んでいるのだと思っていたから、探しに出かけていた。小川の流れる登山道を登り、植樹された杉が並ぶ人工林の奥まで進む。

時折「お父さん」と声を出して呼びかけてみるが、それは知らない国の言葉のように弱々しく響いた。木にかけられたピンクのリボンを見失わないように慎重に、森をくまなく歩いていた。

 日が落ちるにつれて、植物たちは蠢き始める。息を吹き返した動物のように、ザワザワと命が動く気配がする。そんな匂いがする。夜になる前には必ず帰るようにしていた。一度夜遅くに帰っていたことがバレて、優しい母を鬼のように怒らせてしまった後悔もあるけれど、夜の木々たちは「おかえり」と手招きするから、その誘いが怖かった。

 母は朝、地元の名産である足柄茶の茶畑を手入れして、昼からは事務のリモートワークをしていたようだった。
 忙しいと分かっていたのに、構ってもらうために宿題が分からないとごねたり、わがまま言ったこともあった。必ずしも受け入れてくれるわけではなかったが、母はそんなとき当然のように仕事を切り上げ、子どものように小さく柔らかい手を僕の頭に乗せて、手伝う理由も手伝わない理由もしっかり話してくれた。

 休日は一緒にピアノを弾いたり、近くの滝で遊んだり、部屋の植物たちの手入れをしたりしていた。母は霧吹きでフィカスやパキラに葉水を与えながら、時々植物に語りかけていた。僕が不思議そうにそれを見ていると 
 「植物もピアノの音が好きらしいわよ」と笑った。

 僕は人一倍健康で頑丈に育ち、中学三年生にもなると母より一回り以上大きくなっていた。目線が高くなると、考え方も変わる。年相応に、自分より小さい存在に頼りきっている情けなさを思うようになり、家事を分担するようになっていた。それと、この頃の母は箸を落としたり、何もないところで転んだりすることが増えていたことが気がかりだった。日々の負担が減って休む時間が増えれば、きっと良くなると思っていた。

 クレマチスの花が咲く季節になると、母はピアノに座ることもなくなり、好んで弾いていたゴルトベルク変奏曲はスピーカーから流れるようになっていた。

 「春、ちょっといい?」
 時間をかけてゆっくりと洗濯物を畳んでいた母が僕を呼んだ。目の前に座ってからの神妙な面持ちと沈黙は、言葉以上に雄弁だった。その沈黙におけるメッセージがなくて、言葉だけが先にやってきていたら、僕は多分耐えられなかった。

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたことを聞いた。そしてこの病気がこれからどういう症状を進行させていくのか、家のこと、暮らしのこと、入院のこと、学費のこと、理路整然と一通りを話した。母の目は潤んでいて、淡々とタスク共有をするように話しきることで、何とか涙が落ちるのを食い止めようとしていたことが伝わってきた。

胸の奥深くに、底も見えないほどの穴が開いた。それはただ在るだけで、この世の全てが香りを失うような、深く、黒い、大穴。

 母は僕に話した通りの未来を辿っていった。やがて自力でお風呂やトイレに行くことも難しくなり、入院した。そして約三年かけて徐々に病状が進行し、人工呼吸器を使わないと呼吸もできない状態にまでなった。あまりにも、あっという間だった。
 

 大学生になった僕は農学を専攻し、病床の窓際に置いたフィカス・アルテシマが太陽のほうに枝を伸ばしている理由も、ピアノの音を聴くことができないことも知っていた。

病室にはバイタルが安定していることを示す規則的な音だけが響いていた。母の耳にイヤホンをつけて、好きだった音楽を流してあげようと、母の顔に近づく。耳にイヤホンをつける寸前で、痩せ細った顔の頬骨の影や、垂れた皮膚の解像度に堪えきれず、慌てて母から遠ざかり、後ろを向いて涙を堪えた。バレないように目を擦ってから振り返り、今日大学で学んだことやバイト先のことなんかを、できるだけ楽しそうな調子で話した。

 母は少し前までは目を動かし、アイトラッキングを用いたキーボードでコミュニケーションすることができていたが、すぐに目を動かす筋力もなくなり、今では一方的に話すことしかできなくなった。窓際においた三号鉢の小さなフィカスは順調に生長していて、もう少し大きくなると窓際に置けなくなるので、根切りをするか、小さなものと置き換えなければならなかった。

家の中で不思議そうにフィカスの枝に触れ、共に光合成しているように陽に当たっていた母の後ろ姿をふと思い出してしまう。堪えきれず「トイレ行ってくる」と立ち上がったところだった。

 少年の金切り声が廊下から聞こえた。ドアが勢いよく開いて、叫び声がより一層部屋に響いた。僕はカーテンの隙間から恐る恐る様子を伺うと、パジャマを着た少年が頭を抱えて叫んでいた。少年は時折咳き込みながら声の限り叫び続けていたので、僕はナースコールを押そうとしたところ、看護師さん二人が慌てて入ってきて、少年を宥めながら廊下まで連れ出した。
 「びっくりした。入院中の男の子が叫びながら部屋に入ってきたんだ」と高鳴る心拍を深呼吸で落ち着かせながら母に話した。なんだったのだろう。


 
 翌日、バイトの時間が始まるまでガーベラを挿した花瓶の水を取り換えながら、学校で習った植物の睡眠の話をしていた。そのうち、カーテン越しすぐに子どもの声が聞こえた。
 「すみません」
 「はい」と応えてカーテンを開くと先日発狂していた少年が立っていた。
 「あの……昨日は大きな声で驚かせてしまい、ごめんなさい」と彼は頭を下げた。律儀に謝りに来てくれたことに、少し驚いた。

 「君は……」
 「えっと、渦位瞬《ウズイシュン》と言います」
 「そうか。瞬くん。いや、僕らは大丈夫だよ。それより君こそ身体は大丈夫だったの?」
 「はい。もう大丈夫です」と彼は答えた。昨日看護師さんに彼のことを尋ねたところ、喘息に起因するパニック発作とのことだった。呼吸が苦しくなると死を予感し、恐れが過換気症候群の諸症状を引き起こし、彼の場合最終的に発狂してしまうとのことだった。彼はじっと母を見つめていた。管の数を数えているようにも見えた。

 「お母さんの症状、よくないんですか」
 「動けないんだ」と僕は答えた。
 彼は少し考えた後「植物状態ってやつですか」と言った。 
 「よく知っているね。でも母は植物状態とはまた違って、今も目が見えているし、聞こえているし、僕らと同じように感じて、思考しているんだよ」
 少年はそろりと母に近づいて「昨日はごめんなさい」と言った。
 彼は振り返ってカーテンを開ける。

 「来てくれてありがとう」と僕が言うと彼は恥ずかしそうにカーテンを閉じて部屋を出た。
 毎日病院に通っていた僕と彼は、その後も廊下でたまたますれ違ったり、発作の現場に出会したりしては僕が話しかけ、学校のこととか家族のこととか、たわいもない話をする仲になった。
 

 ある日の廊下、母の病室に入る前で、私服姿の彼を見かけた。今日で退院するらしかった。
 「おめでとう」と僕が言うと彼は頭を下げてそのまま沈黙した。
 「どうしたの?」
 「お母さんまだ良くならないですか?」
 「うん、ちょっと今のところ、回復の見込みがない」
 彼は沈黙しながら、何かを考えているようだった。僕はそれをただ見守った。 

 「なんであんな、呪いみたいなことがあるんですかね。春さんのお母さんだけじゃなくて、病院にはたくさんの人が苦しんでいて、どうしてこんな苦しい思いをして、これからも生きなくちゃいけないのだろう」
 僕は少年越しに見えるタクシーを見ながら「呪いか」と言った。

 「見えるし聞こえるのに、動けなくて話せないなんて地獄じゃないですか。植物状態じゃないって言っていたけど、植物と変わらないように見える」
 僕は彼の高さまでしゃがんでから話した。
 「それじゃ、植物たちはみんな地獄で生きているってこと?」
 「そうだよ。動けないし、見えないし、話せないし、僕だったら絶対に嫌だ」
 「そうなんだね。僕は、人は死んだら植物になるんじゃないかって思っているのだけど、僕らはみんな地獄行きか」
 「そんなわけないよ。植物になんてなるわけない」
 「そうだよね、でもなぜかどうしてもそう思ってしまう。それで、植物になった自分はどんな風に世界を感じるのか、植物たちは今なにを感じて過ごしているのか、そんなことをよく考えている」
 彼は呆れた顔でこちら見つめていた。

 「植物って二〇以上も感覚があるって知ってた? 人に例えると視覚や嗅覚のような器官もあるし、それに加えて、重力を感じたり土中の栄養素を感じたりすることもできる」
 彼は顔を上げて「そんなに」と言った。僕は微笑んで「そんなに」と繰り返した。 
「それに植物だってずっと観察しているとゆっくり動いているんだよ。タネを飛ばして引っ越ししたりもしている。あとちょっと難しいかもしれないけど、光の速度で生きる生物から見たら、人間も植物も等しく動いてない生物だ」

 「わかるよ」と彼は言った。
 「頭がいいね。それに植物は人より何倍も生きる。つまり時間の感じ方が違う。何もしていないように見えて実はたくさんのことをしているし、もしかしたら僕ら以上に世界のことを知っているかもしれない」
 「そうなんだ、悪くないかもね」と彼の表情は少しだけ明るくなったように見えた。

 「でしょ。まぁ人もそう悪くないよ」と言ったあと少し考えて、続けた。
 「そういえば来週やっと母の意識に触れることができるんだ。互いのBMI(ブレインマシーンインターフェース)を繋げることで、母の意識世界を覗くことができるらしい。母が生きることは呪いだと思っているかどうか、よかったら一緒に見てみるかい?」
 彼はすぐに「見る」と言って頷いた。
 「じゃぁ来週の四時にここで」
 彼の両親と思しき男女がタクシーから降りて歩み寄ってきたので「元気でね」と言って、別れた。
 

 二三年後 神奈川県南足柄市──
 改札を抜けると金木犀と煙の匂いがした。雲一つない晴天、三方に広がる山々から金風が吹き込んだ。いつも通り十時間は寝たにも拘らず、未だ眠かった脳のぼやけがすっと晴れる。駅前の観光案内図の横にあるビジョンに、新たな映像が映されていることに気づいた。

そこには堆肥葬合法化二十周年に、昨年市をあげて催した祭りの模様が映されていた。協賛したうちの会社の名前も載っていた。記念として、それぞれの山の入り口には鳥居が立ち、堆肥葬管理センターへの予算も拡充されることになったらしい。

 映像内には、堆肥葬の素晴らしさを語る美辞麗句が並んだ。堆肥葬は遺体を管理センターで堆肥化し、希望の植物の根に漉き込むことで、人間を生態系の循環の中に戻すプロジェクトであること。SDGsや欧米諸国から始まったデスポジティブムーブメントの流れで法案が可決された、新しい死生観を提示するものであること。遺体の分解に必要なエネルギーは火葬の八分の一で、約三十日で一体の遺体から荷車二台分の堆肥が作れること、など。 

 堆肥葬の合法化と僕がSheep社へ入社したのは同じ年だった。DNAが焼失しなくなったことでRingNe《リンネ》が開発できたことを振り返ると、なくてはならない出来事だった。

 狩川を渡る橋の空中には、立体広告を表示するためのプロペラがついたドローンがホバリングしている。そこにはRingNeの広告アニメーションが表示され、横を通り過ぎるとき指向性スピーカーにより音声が聞こえた。

 「RingNeは大切な人とあなたの架け橋です。RingNeを装着し、植物に触れると、量子サイクルした故人の情報を即時解析。新時代の量子解析リング、RingNe」

 橋を渡ると多様な草花が生茂る上空に合成樹脂製の網目がアーチ状の遊歩道となり、有機的な曲線を描いて広がっている。草花が網目まで届かないように高さは自動的に調整され、植物たちの領土や光合成を如何に邪魔しないかを目的に道が設計されている。

街中に植物が生茂る一方で、都市緑化の目的で整備された街路樹は減った。アスファルトの一区画に土を盛り定植する行いは、植物を孤独にしていると市民運動が起きたことがきっかけだった。植物たちは根で繋がり、葉から放出される化学物質で会話することから、街路樹は孤独な檻と喩えられ、一部の市民は植物になった自らの死後に想いを重ね、先制して環境整備をしていた。

 建物の二階まで蔦に包まれた商店の軒先には「無神花《ムシンカ》商品販売店」とサイネージが掲出され、人の量子情報が植物に量子サイクルしないよう厳重に管理された農作物や紙、衣服が販売されている。

 神花とは人の量子情報がサイクルした植物の通称で、人は死後植物の姿をした神になるという、神道と量子化学が中途半端に混ざった思想による名称が、とあるDAOを中心に急速に広がり、一般化していた。

 夕飯の買い物と思しきエコバックを持った女性は、商店の露店販売で並べられた通常の玉ねぎを一つずつ指元に装着されたRingNeで解析し、神花していない玉ねぎを発見するとカゴに入れていた。神花した植物を食べても違法ということではなく、一部スーパーでは認証されていない一般の野菜も並んでいる。

市場規模は圧倒的に小さくなったものの、材木屋や製紙会社も存在する。しかし一般的な倫理規範として、神花した植物を食べたり、材にすることは躊躇われていた。全ての神花は考え方によっては、誰かの墓になり得るからだった。

 RingNe以降、より顕著になった植物主義社会は、個体と命を一対のものと捉える旧来の生命観を変容したと言える。RingNeは一個体に内在する複数の命の残滓、つまり遺伝子情報を可視化し、流動的なコロニーとしての生命体の姿を立ち上がらせた。それが良いことだったのか、悪いことだったのかは未だに分からず、網の道を歩きながら既に変わった世界をただ見つめていた。

  RingNeは人の死後、散逸した量子情報のうち多くが光合成時に植物へ転移することを示した。人類から植物へ移行する量子情報変換(Quantum Information Transfer from Humans to Plants or QIT-HP)は通称、量子サイクルと呼ばれ、俗称としてRingNeするという動詞に発展した。それがアニミズム的価値観と共鳴し、量子サイクルを済度と解釈して神花と名称するDAOの発足にまで至った。

 人は死後植物になるという生命観の変容は、火葬せず遺伝子情報を直接希望の植物へ転移することができる、堆肥葬の需要を急激に高まらせた。多くの森林所有者はビジネスモデルを林業から堆肥葬管理へ転向し、皆伐の消えた森は自然に生態系が回復した。獣害被害も減り農作物の収量も増え、農薬の規制も厳しくなり、有機野菜が安く流通するようなった。

全世界的に緑化が進み、環境保全の意識が飛躍的に高まった結果、カーボンニュートラルが達成され、現状地球温暖化の危機がなくなったことは植物主義社会の良い面としてよく語られている。他にも……と探していると、店舗の壁面ビジョンからニュースが流れ、注意が移った。

 「昨晩、植物の違法輸入代行会社に家宅捜索が入り、代表の山内氏が逮捕されました。昨今の堆肥葬需要の増加に伴い、国外の植物を転生先として求める声も多く、こうした違法輸入も増えています。日本の森林における生態系の保全と個人の弔い方の自由について、染谷さんはどうお考えですか?」
 黒いニット帽を被ったマーケティング会社の代表の男性がキャスターの質問ににこやかに答える。

 「こうしたジレンマはRingNe以降に急増しましたよね。これまで堆肥葬は宗教的な曖昧な希望でしたが、RingNeは人が死後植物になることを科学的に証明してしまった。そうなると我々は死後の計画という新しい概念のもと、その自由と責任を負うことになります。転生したからといって意識や記憶が引き継がれるわけではないにしても、死後自らの身体を構成していた量子の行き先を選びたいという欲求は、分かるんですよね。現在日本にもいくつか世界各地の環境を再現しつつ森の生態系も脅かさないマルチエコスフィア型の管理センターがありますが、個人の弔いの自由を保障できる施設が今後も増えていくことを願います」

 僕もそう思いますと、ビジョンに念を送った。網の道を降りてアスファルトに着地する。AI水素自動車が横切る湿った道路を横断するとすぐに会社の白い外壁が聳える。壁沿いも肥沃なガーデンスペースが広がっていて、ツユクサ、イヌタデ、ゲンノショウコなどの野草が群雄割拠に勢力争いを繰り広げている。

 壁沿いにエントランスを目指すと、黄色いレインコートを着た少年が、青いじょうろで草花に水やりをしていた。雨は降っていない。じょうろの水が切れると、すぐ近くのウォータースポットで給水をしていた。なぜ雑草に水やりをしているのだろう。歩きながら見ていると、ランドセルを背負った小学生の男女二人が少年に駆け寄ってきた。

 「円くん、何してるのー?」とツインテールの少女が無邪気に尋ねる。
 「お母さんに水やり」とレインコートの少年はツユクサを見つめたまま答えた。
 「こんなところにお母さんいるんだねー、これ雑草でしょ? 可愛そうー」ともう一人の赤い帽子を被った少年が嘲ると、少女は連られ笑いを堪えながら「ちょっとそういうのダメだって先生が言ってたでしょ」と言った。
 少年は変わらず植物だけを見つめ、無言でツユクサや、その周辺の植物に水をやり続けていた。

 「なんで他の植物にもお水あげてるの?」と再び少女が尋ねる。少年は水が切れるまで口を閉じ、水が切れると二人の方を見た。 
 「植物はみんなで生きているんだ。学校で習っただろ」
 赤い帽子を被った少年は「行こうぜ」と言って走り去っていき、少女は置いていかれないように、慌ててあとをついて行った。レインコートの少年もじょうろを片手に網の道の方まで歩いて帰っていった。

 つい立ち止まって見てしまっていた。少年の後ろ姿を見つめながら、かける言葉を探していた。しかし何も出てこず、自分の口からは何も言えず、情けなく振り返って、再びエントランスに向かって歩みを進める。

 堆肥葬自体は手軽な価格でできるようになってきたとはいえ、死後転生する植物の種類には格差が発生していた。管理センターで植物の管理を代行するサービスのランクや、場所、その植物の管理コストや植物自体の珍しさから、経済状況による格差も生まれていた。比較的富を持つ家庭は堆肥葬管理センターで堆肥化し、センター内で希望の植物に堆肥を漉き込み、適切な管理がなされていた。

中には山全体を管理センターとして毛細血管のようにカーボンチューブを張り巡らせ、全自動で水やりや追肥がなされるような場所もあった。やがて朽ちて土に帰った後も再び新たな植物を植え変えるまで世話をするので、遺族側の負担はほとんどない。その分、祈る機会も減る。

 真っ白な社内に入ると、エントランスの中央に生えた白い樹皮の人工の楠が聳え立つ。合成樹脂や木材の繋ぎ合わせではなく、紛れもない木質を分子合成で0から作っている。成木として生まれ、プログラムが機能する限り寿命もない。Sheep社を象徴するような無機質な有機体。

 見ているとなぜかお腹が空いてくるので、社内のコンビニに行って有機酵素玄米と様々な具材のおにぎりを六つ手に取った。会計を済ませ、研究室の方まで歩く。途中でコーヒーを買い忘れたことに気づき、コンビニの方へ振り返ると男性の顔がすぐ目の前に現れた。「わ」と声を出してのけ反り「びっくりした」と条件反射のように言った。男性は誠也くんだった。三十センチほどの距離で尾行されていたらしい。この距離はもはや尾行どころか忍術の類だ。

 「もう、驚かさないでよー」と苦笑いする。
 「先輩、相変わらず尾けやすいですね」と彼は無表情で言った。
 「何か買い忘れですか?」 
 「うん、コーヒー買い忘れた」
 「じゃ自分もお供します」
 「敵に狙われているわけじゃないから大丈夫だよ」と僕は笑った。
 
 「そういえば昨日はレポート記事、早速ありがとうね。流石、仕事が早い」
 「いえ、あれくらいならすぐできます。PEプラントエミュレーションプロジェクト、ここ最近で一気に進みましたね」
 「植物適応する知能の内的モデルがネックだったのだけど、AIの出力された設計図通りに作るのが一番というコンセンサスが取れてから早くなったね。人間がその仕組みを理解できる必要はなかったらしい」

 僕らは無事コンビニでコーヒーを入手して、研究室に向かった。道中に昆布のおにぎりを開けて、食べた。一度尾行されると背筋に不要な気配が付き纏う。存在感とはその存在がいなくてもしばらくは在るものだ。時々確信めいた気配を感じて念のため振り返ると、誠也くんが後ろで手をひらひらさせていたりする。彼は無表情で前を見つめていた。白い通路を進み、研究室の前に立つとドアが開く。

 研究室には緑の陰が全面に投影され、フロアを囲むように八カ所に設置されたスピーカーから森の音がサラウンドで聴こえている。巨大なモニターの前に十のデスクが設置され、RingNeの研究開発は十名のメンバーで行われていた。

日々更新される故人の遺伝子データをRingNe上で変換するアプリの更新作業や、RingNeで触れた植物から量子情報を解析しアーカイブと照合するデバイスの基幹機能の管理など、保守はそれぞれ専任のAIが担当し、人間はAIのエラーが起きていないか確認しつつ、アプリの新たな機能をAIが出力したアイディアから選定し、経営部へ提案をまとめる中間管理的な業務が多かった。

現在は二年前に逝去した大物演歌歌手が転生したタンポポが綿毛となり矢倉岳に群生しているので、慰霊トレイルが組まれようとしていた。
 誠也くんと僕はそれぞれ自分たちのデスクへ移動した。PCを起動させ、社内用のチャットを一通り確認してコーヒーの蓋を開けたところだった。ニュースチャンネルに新着の通知。ウェブメディアの記事が貼られている。

 ”堆肥葬管理センター南足柄第一スフィアで大規模森林火災発生中。堆肥葬管理センターでの火災は国内初”

 第一スフィアというと丸太の森辺りか……すぐ、近くじゃないか……。心拍数が上がり嫌な汗が出てきた。起きてはならないことが起きてしまった。ニュースに気づいた研究員が、モニターの画面をテレビのニュースに切り替えた。僕は何か救いを求めるように画面を凝視した。現在消火活動中だが火災の原因はまだ特定できておらず、既に敷地の三分の一の面積が焼失しているとのことだった。誠也くんを除いて、他の研究員も皆絶望的な表情で画面を見つめ、しばらくの沈黙が流れていた。
 
 装着しているBMIブレインマシーンインターフェースから着信音が鳴る。
 「三田《ミタ》さん、火災のニュース見ましたか? 報道から何件か問い合わせが来ています」
 広報部の女性が慌てた様子で話す。
 「問い合わせは僕に?」
 「そうです。一つずつお伝えします。まずは、神花となった魂はどこにいくのか、もう一つは焼失したDNA情報を復元する方法はあるか、というのが主な内容です。確認して折り返すとご連絡しています。あぁ、また問い合わせが……」

 僕は片手を側頭部に添えて、考えていた。胸が詰まるような思いだった。RingNeを使う人々の中にはまだ量子情報と魂をごっちゃにしている人が多い。植物に移っているのは故人を構成していた量子情報であって、意識や記憶が内在する魂のようなものではない。魂の行方は科学の専門外だ。僕が徳を積んだ僧侶であれば、魂は極楽浄土へ行きますよと、慰めることができたかもしれないが、僕はただの技術者だ。科学が人の心に寄り添うことは難しい。僕らは僕らの立場からちゃんとものを言うしかない。

 「RingNeは故人の遺伝子情報を元に量子サイクルの探索をしているので、燃焼により遺伝子情報ごと焼失した植物のその後を探す術はないです。と言うことを出来るだけ柔らかく伝えてあげて欲しい」
 「わかりました」と電話越しに女性は言った。BMIのノイズキャンセリングが切れると、室内のざわめきが耳になだれ込んできた。それぞれ担当しているプロジェクトの処理に慌てていた。

 向かいの椅子に座る誠也くんが僕を虚な目で見ていた。
 「大変なことになりましたね」と言った。
 「そうだね、大変なことだ」と言って、僕はおかかとクリームチーズのおにぎりを開けて食べ始めていた。 
 「先輩、本当よく食べますね」
 「そうかな。今日はまぁ食べていい日だからね」
 「食べていい日?」
 「明日は食べちゃいけない日。三日おきに断食しているんだ」
 「三日食べて一日休んでってことですか、なんか変な食習慣ですね」
 「昔からの習慣なんだ。でもほら、植物だって毎日水はいらないでしょ」
 「まぁそうですけど」
 これから忙しくなりそうだと予感した僕は、早めに残りのおにぎりを全て平らげて、カロリーを蓄えた。

 「そういえば誠也くん、元々堆肥葬管理センターで働いていたんだよね? 今日の件、例えば放火とかセキュリティ的に可能なの?」
 誠也くんは椅子を回転させながら話した。
 「そうですねー、神花参りのために入山することは誰でもできるので、ずさんっちゃずさんですね。とはいえあちこちにAI監視カメラはついているし、怪しい動きがあったら見つけられると思うんですけどねー」
 僕は顎を親指と人差し指で摘みながら言った。

 「ガソリン撒いて火をつけるみたいなことはできないわけだね」
 誠也くんは椅子を止めて話した。
 「それは絶対見つかります。できるとしたらAI監視カメラの特徴を理解し、セキュリティの穴をつける技術者、あるいは施設の関係者くらいです」
 「なるほど」
 犯人の動機は何だろうか。神花となった植物を燃やすことは、そこに内在する無数の微生物、量子情報の全て、言ってしまえば一つの世界を焼却することに通ずる。そういう繊細な生命観念が一般化してしまっている故に、この事件が起こす余波の大きさが想像できた。

 「三田さん」
 再び広報部から電話が鳴る。
 「テレビ局二社から森林火災について今日夜の報道番組にコメンテーターとして出演依頼が来ています。オンラインで中継となりますが二十時からと二十二時からそれぞれお時間いかがですか?」
 僕はスケジュールを確認して「ありがとう。受けて大丈夫だよ」と返した。
 しかしまた科学の立場から渇いた物言いをするしかない未来に少し辟易とした。お坊さんを呼べばいいのに。世の多くの人を救うのは科学ではなくて、考え方なのだから、と思ったがそれは言わなかった。

 「わかりました。詳細は情報共有いただけ次第追ってご連絡します」と彼女は言った。
 「それから、火災の出火原因なのですが、どうやら森の自然発火の可能性が高いようです」
 「自然発火? 冬でもないのに」と僕は訝しんだ。
 「ええ、それが消火した焼け跡からゴジアオイの種子が見つかったようで」
 「ゴジアオイ……あれか。なんで日本に」

 ゴジアオイは地中海に生息する植物で、気温が三五度程度を超えると、茎から揮発性の油を分泌して、周囲を燃やす特徴がある。渡り鳥が種子を運んでくる距離でもないので、誰かが輸入して植えたのかもしれない。

 「そうですね、本来生息し得ないはずなのですが、出火元が地中海に似た温帯乾燥スフィアからのようで、生育することができたのだと思われます」
 「それでも三十五度を超える温度管理なんてあり得ない……ハッキングか、まさか職員の仕業ってことはないよね」
 「断言はできませんがゴジアオイは当然生育が禁止されていますし、考えづらいかと」
 「そうだよね」と言いつつ、種や苗を植える動作はAIのアラートには検知されないだろうし、管理センターの仕組みをよく知った人による内部的な犯行を疑った。
 「また何か情報得られましたら共有しますね」と言って彼女は電話を切った。
 「まぁ僕ら刑事じゃないんだし、犯人探しなんてしてもしょうがないですよ」と目の前で話を聞いていた誠也くんは言った。
 「それはそうだね。さ、仕事戻ろうか」
 カバンからパソコンを取り出し、鼻を摘むと朝の煙たい香りがした。

#渦位瞬 


 特製のハワイアン風納豆カルボナーラを作ると食卓に置いた。すかさず飼い猫のエノキが卓上に駆け上がり食事を狙う。エノキの柔らかい腹を両手で抱え、そっとベビーベッドに戻す。お下がりのベッドだが、エノキはマイホームとしてたいそう気に入っていた。

 なんとなく雑音が欲しくてテレビをつけた。夜の報道番組が流れる。
 「ここでRingNeの開発者である三田春《ミタハル》さんにお話を伺っていきましょう。三田さん、今回の火災で被害のあった、いわゆる神花《シンカ》となった人々の魂はどこに行くのでしょうか?」
 「魂……というか、元々その故人を構成していた遺伝子情報は、残念ながら焼失してしまった可能性が高いです」

 キャスターは目を見開いて高速で頷きを繰り返す。何を理解したのだろう。そして案の定こう言った。
 「死者の魂は消えてしまったと言うことですかね?」
 「そ、そうとも言えますかね」と春さんは苦虫を噛み潰したような表情で言った。
 
キャスターは目線をカメラに向けて、さも喪主のような悲痛な表情を浮かべて言った。 
「今回ゴジアオイを利用した自然発火に見せかけた放火の可能性が高いということで、犯人の特定が急がれています。これは人の魂を侮辱する大変許し難い犯罪です。植物たちや遺族の痛みを感じ、ご自身の行いを悔み、一刻も早く罪を償ってほしいと思います」

 植物には中枢神経がないので、痛みや苦しみは感じえないことは小学生の時に習った。それでも魂というぼんやりした概念を持ち込むと、途端に擬人化して人の感覚を当てはめてしまう。人間たちの変な癖である。 
「ね」とエノキに話しかける。エノキは大きなあくびをした。
 
 スマホの通知音が鳴る。開催まであと三日に控えたフェスの、運営周りの確認連絡が再び飛び交いはじめた。制作ディレクターが各チャンネルに備品手配や、運営計画の確認を求め奮闘している。三日前になると突然当日スタッフの欠席連絡や、出演者から追加で用意が必要な機材の連絡などが相次ぐため、総員で人員募集の声かけをしつつ、運営計画や調達物の確認をして、制作陣の脳が最高潮に加熱する。

 自分もサポートしなくてはと思い、チャンネルに宇宙ネコのスタンプを送って場を和ませた。いいねは一つもつかなかった。
 所属するDAOでのフェスティバルは一年ぶりだったが、RingNe以降にこの国ではフェスティバルの数がとても増えた。いずれ植物になって動けなくなってしまうのだから、今のうちに目一杯動いて、歌って、踊ろうという風潮が広まっていた。僕も概ねそう思う。人間でいられる時間はとても短い。自由に手足が動かせるうちに、躍動の限りを尽くしたい。今日はずっと家に引きこもっていた自分ですら、そう思うのだ。
 もう夜だが、散歩に行くことにした。
 
 ぼんやりとした外灯の光が落ちる酒匂川を、川上のほうに向かって歩いていた。鴨が水面を揺らす音、生温い風が稲を揺らす音、鈴虫や蟋蟀の鳴き声、秋の夜のいい音楽だ。 どこにも焦点を合わせずに、ぼんやり歩く。なんとなく、ススキの茂る角を曲がって小径に入る。顔の高さまで到達するススキやセイタカアワダチソウをかき分けながら進んでいると、開けた場所に辿り着いた。

ポツンと整備され、区画された小さなブナ林があり、入り口に立札が差してあった。それによるとこのブナ林には、たいそう仲の悪かった兄弟がたまたま量子サイクルして、宿っているそうだ。自然のブナ林では生えている土壌や位置など、生育環境がそれぞれ違うにも関わらず、すべてのブナが同じだけの光合成をするらしい。根っこで繋がり合い、よく日光のあたるブナはそうでないブナへ栄養素を送り、共栄している、と看板に書いてあった。それが仲の悪かった兄弟といえど最後は仲良くなったという、日本昔話にでも載りそうな物語とともに紹介されていた。
 まぁ確かに兄弟がたまたま同じブナ林に転生するなんてなかなかドラマある偶然だ。

 「繋がっているんだなぁ」と呟いた。
 見上げると夜空は満月だった。月を反射した雲が虹色に輝く不思議を見上げながら、草むらをかき分けて川岸に戻った。川面に反射した満月はゆらゆらと浮かび、それは自分の目にも反射していることに気付いた。太陽から月へ、月から川へ、川から自分の目へ、光がリレーされている。
 「繋がっているんだなぁ」と呟いた。
 運営表をもう一度見直そうと、少し早足で家に帰った。

 三日後──
 フェスティバル当日は冷たい糸雨が降った。会場となった夕日の滝は標高五百メートルにあり、街より気温が低い。それでも植物にとって、ひいては人間にとっても恵みである雨は、良き巡りとして受け入れられ、当日は三〇〇名ほどの来場者が訪れた。

ゲートは菌糸をイメージした糸で複雑に編み込み、吊るされた風鈴は、あの世とこの世を繋ぐ音を響かせた。受付は子実体をイメージしたパラソルの下に胞子をイメージしたグラスをつけたスタッフが来場者にゲートの糸の一部をリストバンド代わりに手首に巻きつけた。

各エリアはコンセプトを花言葉に当てはめ、花の名前をあしらった。メインステージのハナショウブリバーステージは、アースカラーのガーラントが吊るされたルピナスマルシェを抜けると現れ、立体的な流木のオブジェで植物のダイナミクスを表現し、ジャズやジャムバンドを中心に自由で祝祭的なライブが展開された。

会場内の植物は全て無神花認証されたものを使い、誰もが楽しめるフェスを目指した。リンドウローカルマルシェでは地元の出店が並び、テントサイトはエンレイソウトークエリアとして植物学者や数学者から植物について学び、来場者間が交流できる場が開かれた。

コチョウランフォレストステージは動物の骨や布でコチョウランの白を基調にした空間にデザインされ、有頂天な時間が流れた。

ハクレンウォーターフォールへ続く道は植物の管と、延々と輪廻していく世界を表わす曼荼羅をモチーフにした装飾が施され、聖域的な空間になっていく。

滝に辿り着くと、テントサウナとアンビエントライブが展開され、参加者は雨で水量の増した滝を身体全身で浴び、自然との一体感を強めていく。

その他にも堆肥浴やキッズエリア、植物を祀る植物神輿、死生観を再考する出店や曼荼羅アートのワークショップなど様々なコンテンツが多様に並び、参加者はコンテンツをただ享受するのみならず、各所でパフォーマンスしたり、アート作品を飾ったり、瞑想したり、自由闊達にこの時を過ごした。

冷たい雨の中途中で帰宅する人もいたが、雨の中手弁当で奔走する運営側に心を配りサポートしてくれる来場者もいて、空間全体としてこの祝祭を、人で在るうちを、共に祝った。

 ”名もなき巨人よ、また明日。朽ちゆくヒノキも、また明日。どれでも全部、綺麗に並べて。せめて此処まで還ってきて。おかえり、ただいま。さよなら、ただいま”
 


 歌声が響く。
 会場を巡回中、メインエリアを外れ、ヒナゲシチルノダテを超えて、金時山の入り口まで入る。ふわふわに苔むした巨岩へまっすぐ進み、触れる。植物と動物を足して二で割ったような柔らかな手触り。これほどの苔がむすまでに、一体どれだけの年月が経ったのだろうと想いを馳せると、つい手を合わせたくなった。

手のひらを鼻の前で重ね合わせ、目を瞑ると、苔の余香がやってきて、仏や神ってこういう匂いがするのだろうなぁとなんとなく思った。葉の揺らぎ、鳥の歌、か細い小川のせせらぎに耳を済ませ、しばし安らぐ。

 ゆっくり目を開けると、登山道に戻り、歩きはじめた。太陽は小川に反射して、ヒノキの樹冠に太陽模様の映像が投射されていた。見上げると強い風が吹き、紅葉しかけた葉が渦を巻くように空を旋回した。風の音が止むと、落ち葉を踏む音が少しずつこちらに近づいていることに気付いた。足音に視線を向けると黒い服を着た人がこちらまで早足でやってきていた。五メートルほどの距離まで近づくと、黒いワンピースを着て長髪の、目鼻立ちがくっきりした女性であることが分かった。

 女性は不安そうな表情で息を切らし、言った。
 「あの、スタッフの方ですか」
 「はい、そうですが、何かありましたか?」
 「あの、あっちの方でバットや刃物でブナを傷つけている男性たちがいて」
 「な、なぜ?」と思ったのと同時にそのまま声に出ていた。
 「たぶん、最近の森林火災のニュースの影響だと思います」と彼女は俯いて悲しげな声で言った。

 僕はしばらく地面を見ながら思い当たる節を探していたが、スギの根に生えるナラタケしか見つけられなかった。小さくて可愛いと思っていた。
 「すみません、最近ニュース見れていなくて、何かあったんですか?」と言った。

 彼女はそわそわと虐げられている木の方向を気にしている素振りだったので「とりあえずあっち、向かいながら」と言葉を添えた。
 僕は彼女に早足で付いていきながら話を聞いた。彼女は地面に生えるシシガシラやアズマヤマアザミを踏まないよう、慎重にルートを選定しながら歩いていた。

 「森林火災の出火原因がゴジアオイだということはご存知ですか?」
 「はい、そこまでは」
 「その、ゴジアオイって自ら火を放って燃やし尽くした植物たちを堆肥に、種を育てているんです。それで、消火後にその種の発芽が確認されて、RingNeで調べたところ芽から元々放火犯だった故人の量子情報が確認されたようなんです。

それでメディアでは、量子サイクルした過去の宿主の人格と、植物の振る舞いは同調することがあるのではと扱いだしました。そこから、RingNeで元々犯罪者だった神花を見つけては切断したり、燃やしたり……。私は見ているだけで辛いのであまり見ないようにしているのですが、そんなことになっているみたいで……」

 彼女は説明しながら声が少しずつ小さくなっていき、口に出したくもないことを言わせてしまっているのだと思った。
 僕は不快な思いに共感した。
 「そんなことになっているんですか。でもそれって本当なのでしょうか? 人格と植物の振る舞いが結びつくなんて……」
 「まったくの推論……というかもはや暴論ですよ……。一つ一つの植物は人間の量子情報だけでできているわけではないのに、無理やり擬人化させようとしているよう見えます」と悲しげに言った。

 「僕も、そう思います」と彼女の顔を横目で確認しながら、そう言って共感した。量子が人間という季節を経たからと言って、そんなに力強く、他の生物に影響を与えるまでになるなんて傲慢な発想だ。
 「あ、あれですね」と目の前を指さした。
 
 大きなブナを若い男性たちが取り囲み、金属バットで殴り、手斧で斬りつけていた。嫌な打撲音が響いた。僕はそのまま男性たちに駆け寄った。
 「運営の者です。規約にもある通り、会場内での植物への危害は……」と台詞の途中で彼らは慌てて逃げ去った。僕は彼らの後ろ姿を見ながら、そのまま眼差しを彼女の方へ向けた。彼女は勢いよく頭を下げてお辞儀をして、傷つけられたブナに駆け寄った。傷口に触れる様に慎重に樹皮を触り、十五メートル近くある幹の頂上を仰いでいた。

 「あの、ありがとうございます。追い払ってくれて」と彼女は言った。僕は「いえ、こちらこそ知らせてくれてありがとうございます」という表情をした。
 僕も木の側へ近づいた。樹皮は大きく剥がされ、茶色い樹液が流れ出ていた。ノミのようなもので「サギシ」と彫られていた。
 「ずいぶん傷がついてしまっていますね。大丈夫なのでしょうか」と僕は言った。
 彼女は眉をしかめ少し考えた後に言った。

 「ひどい……樹皮は少しずつ治っていきますが、これだけ傷口が大きいと、再生速度より菌が侵入する方が早いので、いずれ内側から腐っていき、もうあまり長くないかと……ブナは、一生のうちに大体百八十万個の実をつけますが、成木になるのはそのうちたった一本だけなんです。尊い命なんです……」と彼女は言った。

 僕は彼女から滲みでる悔しさを感じて自戒した。
 「すみません、運営の警備管理が甘いせいでこんなことに」
 「あ、いえ、そんなつもりで言ったのでは……」
 少しの沈黙が流れた。
 「それにしても植物にお詳しいですね」と僕は言った。
 「仕事柄、学ぶ機会が多くて」
 「何をされているのですか?」
 「堆肥葬の管理センターで職員を、しかも」
 「もしかして火災のあった」
 「はい。先ほど話していた南足柄第一スフィアです。今は休職中で、ここに」
 遺族たちとの対応に追われむしろ忙しいのかと思ったが、休職なのだなと不思議に思った。

 「そうでしたか……それは心中お察しします。私たちの不備で気を悪くさせてしまったお詫びに、良ければこちらどうぞ」と言って僕は会場で使えるドリンクチケットを渡した。
 「いえ、そんな悪いです。そんなつもりじゃなかったのに」と彼女は拒んだ。
 「いいんです。まぁそしたらお近づきの印ってことで。僕は渦位《ウズイ》と言います、どうぞよろしく」とチケットを差し伸べた。
 「あ、ありがとうございます……私は葵田《アオイダ》と言います。よろしくお願いします」と言ってチケットを受け取った。
 「では、最後までフェスを楽しんでいってください。またどこかで」と言って僕は山を降りていった。足元の草木に注意を払いながら。
 
 山を降りるとリバーステージがある川辺まで向かう。ステージは転換中だったので、その裏にある山を登った。この場所には特に何のコンテンツも企画していないし、人もいないので巡回する必要もないのだが、何らかのキノコに出会えるかもしれないという個人的な欲望が唆した。

 早速フミヅキタケを発見した。しかも群生している。どこまで広がっているんだろうと興味を持ち、フミヅキタケの群れを追うと、ケヤキの森の奥の方まで進んでいた。途中で雨に打たれたツユクサを見つけ、じっと見つめる。

目線を本来の高さに戻すと、ブルーシートで囲われたテントが目に入った。その影には丸太に腰掛けた老人がいた。汚れた服に胸まで長く伸びた白い髭、乳母車のようなものに積まれた沢山の荷物、野生の人間だ、と少し興奮した。ここで暮らしているのだろうか、せっかくなら下まで降りてフェスに来て欲しいな、声をかけて誘ってみようか、と歩速を遅くして辺りを歩き、逡巡していた。

 彼に目線を合わせ、目が合うことを期待しながら通り過ぎるも目が合わず、話しかけられる間合いを過ぎてしまった。しかしどうしても気になるので、振り返って彼の元へ行った。
 「あの、ここに住んでいらっしゃるのですか?」と僕が言うと老人はわかりやすく身体をビクッとさせて驚いた。
 「そ、そうだが」
 顎髭がヤマブシタケのようだなぁと思ったのでじっと髭を見つめていると「や、山狩か……」と老人は慌て始めた。

 長く見つめすぎたと思って、弁解した。
 「いえ違うんです、僕は何者でもありません」
 口を滑らせてでてきた台詞だったが、なかなか幽玄なことを言ってしまった。
 老人は疑問を浮かべた表情をしている。
 「じゃぁなんなんだ」と言った。

 「いま夕日の滝で催しているフェスの運営のものでして、もしよかったらお越しにならないかなぁと。あ、もちろんお金は必要ないので」
 彼はため息をついて頬を緩め、音の鳴っている方を見つめた。  
 「せっかくだが、もう祭に参加するような歳じゃなくなっちまった」と笑った。
 僕はくだけた笑顔にほっとして続けた。 
 「年齢なんてフェスには関係ないですよ、誰だって好きな時に来ていいし、好きな時にいなくなっていい、自由なもんです」

 「そうか。でもまぁこんな汚ねぇ身なりのものがいくのもよくねぇだろうよ。昔はクローゼットいっぱいに服が詰まっていたもんだが、今はこの一張羅だけだ」
 着ているTシャツを指さした。中央にはFlowers don’t tell, they show.《花は話さない。花は示す。》と書かれていた。

 「そんなことないですよ。ここは長いのですか?」と僕は聞いた。
 「まぁせっかく来たんだ。座れや」と言って、地面に敷かれたブルーシートを叩き、老人は意気揚々と語り出した。こんなところにいては、人と話すのも随分久しぶりなのだろうと思い、腰掛けた。

 「ここには昔、家があったが、十年ほど前の土砂崩れで流されちまった。まぁそれはそれでいい機会だと思ってよ、この身一つで暮らしているよ。森で暮らし始めてどれだけ経ったかはもう忘れちまった。それくらいには長い」
 老人は笑い、僕は頷きながら遠くからうっすら管楽器や人の声が聞こえてきたのが気になっていた。

 「しかしまぁその時に身分証も何も全部なくしちまってよ。信じられないと思うが、昔は宮に仕えていてな。なんで知ってはいたが、身分を証明できないと国からの支援ってのは、なにも受けられなくなるんだな。知らない人は国民じゃないってよ。森の社会の方がよほど成熟している」と地面の土を握り、指の間からさらさら落とした。

 「この中に二~三キロの長さの菌糸が含まれている。これが森中の根に繋がり、木々の情報伝達や栄養管理なんかをしていやがる。新たに植林された木々にも分け隔てなくだ。森という社会では樹木の寿命を決めるのは個々の頑張りや運じゃねぇ、森全体の環境こそが決定的だ。全ての植物が環境であり役割がある森において、最も弱い立場のやつをどれだけ守れるかが成熟した社会の証なんじゃねぇかと──」

 「すべての命に権利を! 森林伐採は悪魔の所業! 神花を守れー! 神花を守れー!」
 管楽器の音とデモ隊と思しき人々の大声が老人の声を途中でかき消した。木立の隙間から見下ろすと、デモ隊は列を成して、管楽器の音色とともに行進していた。まだ明瞭な意思もなさそうな子どもがカスタネットのような打楽器を変拍子に鳴らし、溌剌とした中高年が怒号をあげながら”Dianthus《ダイアンサス》”と書かれた旗を掲げていた。

 老人は呆れた声で話した。
 「あいつらな、たまにこうして行進しているんだよ。いつもうるさくて起こされちまう。まぁこういうことはいつの時代もあるんだよ。昔だってヴィーガン連中やLGBTQのパレードがデモ行進していたことがあった。社会に新しい価値観を認めさせるには、こういうことが必要な時もある。だが、RingNe以降のこの植物主義とも言える社会はやや行き過ぎだ。何千年も続いてきた農作や製紙すらままならねぇ倫理規範は、明らかに文化を息苦しくさせている。お前も持っているんだろ、RingNe」

 僕は手の甲を老人に向けて薬指につけたRingNeを見せた。
 「今じゃガキだってみんな身につけているって話だ。しかしどうやって使うんだ、それ」
 「使ってみましょうか」と僕は立ち上がりテントの周りの木々を見渡した。麻縄と丸い垂が結ばれたケヤキを見つけ、近づく。垂には朱色のQRコードが印字されている。

 「これが量子サイクルした植物の印です。昔でいうと墓石みたいなものですね。このQRを読むと、故人の情報が表示されます。で、RingNeはそもそもその印をつける前に、故人の輪廻先を調べることができます」

 そう言いながらケヤキの幹に触れた。ケヤキの生体電位を感知したRingNeの外周を青い光が三周走る。シーケンス完了の音が鳴る。検出された植物の量子情報と、ビックデータ上の故人のDNAアーカイブをRingNeのAIが照合し、同アプリをインストールしているスマホにシーケンスした植物の量子情報が表示される。

 ”田中佳子/量子配合率0.12%/享年四五歳/B型/日本大学文学部卒/オラクル株式会社勤務/二〇四〇年九月十二日膵臓癌にて死去/前科なし/生前の趣味は……”

 と僕が読み上げていると「もういいもういい」と老人は手を振って制止した。
 「こんなに詳細に分かるのか、気持ち悪ぃな。そもそもこれだけの故人の記録がどこに溜まっていたんだよ」と聞いた。
 「これですよ」と耳の裏を指差した。
「BMIをインプラントすると自然に情報が引き抜かれるようになっていたんです。ニューロンとインターネットに繋がっているので、まぁ当たり前っちゃ当たり前ですよね」
 「あー、それも聞いたことがある。皆入れているんだろ? 奇妙な世界だ。しかし一つの生物の量子情報だけで一つの植物が成り立っているわけじゃねぇ」と彼は言った。

 「はい、もちろん。人間の量子情報はあくまでほんの一部。あとはほら、アジとかスズメも入っているみたい」と画面を見せた。人間ほど詳細には出ないものの、生物種くらいは検知できるようになっている。
 老人は薄い目でディスプレイを眺めながら呟いていた。

 「俺はな、知っていたんだよ。こんなのが出てくる前から、人が死んだら植物になっていくことくらい。直感的に分かっていた。なんたって植物学者でもあったからな。だが個人が感覚的に知っているのと、科学的に知らされているのでは意味が違う。科学は社会の価値観を変えちまうからだ。知らぬが仏ってこともあるがな」
 幼少の頃入院していた病院での景色を思い出していた。知らなければよかったことは確かにある。

 「そうですね」
 「今じゃ人の量子情報が混入した植物を神花とか言って神扱いだ。まぁアニミズム的な価値観とうまく結びついたんだろうな。リンゴ一つ齧るのにわざわざRingNeでシーケンスするなんて、いつかの時代のディストピアじゃねぇか」
 老人はそう言って腐りかけのリンゴをテントから取り出し、服で拭ってから齧った。
 「神も食わなきゃ腐っちまう」
 
 老人は結局フェスには来なかった。ここから動きたいと思えねぇとのことだった。山を降りていると、ステージからの音楽が聞こえた。

 ”渦巻巡る、輪廻の引き波よ、因果の彼岸よ、全ての命は光の速度で、荒野に双葉が芽吹いていく。残光は愛に変わり、君を待つ”


山を降りるとすっかり日が暮れていて、滝には森の草木たちを祀る光と水の社「杜社-モリヤシロ-」というプロジェクションマッピング作品が投影され、祈りの場と化してた。

リバーステージでは南足柄の山神様である足柄明神を模した白い鹿の仮面をつけたMCが最後の演目のアナウンスをしていた。

「私たちはこの足でどこまでも歩いていける、踊っていられる。植物になる前に、この特別な刹那的な状態を、最後まで祝い、味わい尽くしていきましょう。最後に、先日の火災における魂の鎮魂を祈るセレモニーを執り行い、このフェスティバルを締めくくっていこうと思います。ぜひみなさんも共に身体を動かして、自由に、最後まで、この命を謳歌していってください」

最後の演目では量子から人へ、人からAIへ、そして死に、植物へ転生する模様がライブとコンテンポラリーなダンスと映像により表現され、最後には焼き払われてしまった神花たちの鎮魂を祈るように、お経とヒューマンビートボックスのライブにより締めくくられた。

 本編の終了を無事見届け、肌寒くなってきたので焚火のエリアに移動する。
 灰色のニット帽をかぶった若い男性、丸い大きなメガネをかけた中年の女性、麻の服を着たヒッピー風の男性が囲んでいる焚火の中に「お邪魔します」と言って入った。燃えて大気となる薪を見つめながら、白い煙の行先にある星を眺める。未だパラパラと小雨が大地を湿らせ、火と雨と自然の香りが立ち昇る。

 ニット帽の男性と目が合う。
 「あの、もしかして主催の方ですか?」
 「あ、そのうちの一人ではあります。リーダーはいないので」と口角を上げて答えた。
 青年は笑顔になって話した。
 「やっぱり。どこかで見たことあるなぁと思って。今日楽しいです、すごく」僕は火の方を見つめながら「ありがとうございます。何よりです」と返した。他の二人も僕の方を見て、そして再び火に目線を奪われた。熱された空気にまぶたが自然と落ちてくる。

 「そういえば」と僕は目を覚ますように呟いた。
 「そういえば皆さんはどうしてこのフェスを知ったんですか?」と聞いてみた。
 メガネの女性が「なんでしょう、運命的に導かれて」と答えると、ニット帽の男性は「友達に誘われて」と言った。ヒッピー風の男性もそれに頷いていた。

 僕は自分のうねった長い髪をくるくる指で巻きながら「なるほど」と言った。その後は再び沈黙が流れたが、沈黙を否定しない良い時間の流れ方をしていた。そしてしばらくの静寂を味わったあと「誰からも誘われなかった人はどうしたら参加できるのでしょう」と呟いた。

 ニット帽の男性は「SNSとかで情報流れてくるんじゃないですか」と言った。
 「なるほど」と僕は答えた。何かに繋がっていることが前提の世界。それが自然か。根やフミヅキタケの菌糸で繋がっている、あの山から動こうとしない老人の姿を思い浮かべていた。

彼は根もないのに自らの意思でそこに定植することを決めていた。動けるのに動かない動物。植物は動けないのではなくて、動かなくていいように至った、というどこかで見た詩を思い出した。動くという煩悩を祓い、美しいシステムと共にただ在る。その遺伝子を次世代へ遺す。僕らはただ在るだけじゃ物足らず、意味を考える。生まれた意味、生きている意味。不遇な運命や虚無を呪ったり、共に在ることや快楽を祝ったりしている。今も火の美しさや暖かさを感じるのと同時に、自分達の命が消えていく時間を感じている。どろっと淀んだ感情の上から、カリンバの音色が聞こえてくる。

 ヒッピー風の男がミドリガメと同じくらいのサイズのカリンバを鳴らしていた。つい目を閉じて聴き入ってしまう。
 いい音楽は腸内の善玉菌を優勢にして日和見菌を善へ煽る。そして祝いの気分が少し優勢になる。少しでも多くの時間を共に祝おうよと、カリンバの優しい音色と薪のパチパチと爆ぜる音が代弁してくれているようだった。

 「増えましたよね、こういうフェス」とメガネの女性が呟いた。ニットの男性は無言で頷いた。僕は火を見ながら答えた。
 「RingNe以降、娯楽ではあるのだけど娯楽以上の意味を持つようになったというか。お供えみたいな意味合いもあるんじゃないかって思います」
 「お供え、ですか」とメガネの女性は言った。

 「お供物って、自然への感謝を表すために今私たちがこれだけ豊かになりましたよって証を供えるんですって。農作がうまくいっていれば米だったり、もっと余裕ができたら酒だったり。今自分たちは動いたり、見たり、声を出したりできる豊さに気づいてきたんじゃないかと。だから祭りを以って祀り、それ自体を供えているんじゃないかって」

 メガネの女性は水筒を口に運びながら言った。
 「確かに。いま、豊かです」
 「ですね」と答えると、しばらくの間は夜鳥の声とデジタルな焚火音だけが空間に響いていた。 


#葵田葵

 キラキラと音が鳴るような木漏れ日が黒い大地に落ちている。踊るような模様のイヌシデの樹皮に、ヤマガラの合唱が大気を揺らす。コナラにクヌギ、ヤマザクラの木立の隙間を小さな虫たちが自由に飛び交い、赤黄色の樹冠が秋風でさざめくと、えも言われぬ安寧が心にやってくる。

陽の光が身体に満ちると、動き出す。蛇のように腕を伸ばし、猿のように腰を曲げ、鳥のように足を浮かして、全身を森のリズムに預けた。身体中の水分が蒸発してしまうように踊り続けていると、終わりは自然とやってくる。

 バタっと、地面に倒れた。意識が薄れ、私が消えていき、森と一つになっているような感覚。この時間がたまらなく好きだった。酸欠状態の身体に、心臓は慌てて酸素を共有しようと心拍数を上げる。勝手に生きている、その事実に、感謝を込める。目を閉じると目蓋の裏に太陽模様が現れて、心に満ちた感謝を静かに大地へ戻していく。
 目を開ける。コナラを見つめ、決心する。
 

 一週間後──
 「私がゴジアオイ火災の原因をつくりました」
 パシャパシャと音を鳴らす無数の光が私に影を落としている。スーツ姿の記者たちが何十名も私の一挙手一投足を、僅かな粗も見逃すまいと凝視している。光に悪意を感じたのは初めてだった。手汗が滲み、喉が乾く。
 右奥の記者から手が挙がる。

 「今回ゴジアオイの量子情報から検出された放火魔による意思が、火災を働かせたのではと推測されていますが、その点についてはいかがでしょう?」
 私は待っていた質問に心を落ち着かせ慎重に回答した。
 「これは全くの誤解です。今回の火災は放火魔による意思ではなく、私の意思です。植物に人間の罪や業が引き継がれることは、あり得ません」

 ダイアンサスが母体のWEBメディアの記者がすぐさま声を上げた。
 「人の魂が引き継がれているんですよ、何も関係ないってことはないでしょう。あまりに無神経じゃないですか」と糾弾する。
 私もついカッとなって「無神経なのはどっちですか」と声を荒げた。

 「罪を犯した人が輪廻したからといって、なぜその植物を傷つけていい理由になるんです……」と震えた声で付け足した。
 今日一番の光と音の波が津波のように押し寄せた。


 
 十日前──
 私は罪の意識に苛まれて引き篭もった身体を、無理やり外に出した。霧がかった脳内を晴らすため、というか以前予約していたその日が来てしまったために、私は夕日の滝に向かった。

会場に行くまでのバスでHPを眺めていると、チケット購入時に目当てにしていたアーティストが突如キャンセルになったことが分かり、更に気分が落ちる。
会場は心情に同調するような冷たい雨が降っていた。雨はキノコの胞子が雨粒の媒介となっていて、キノコが雨を呼んでいるという仮説をどこかで見たことがある。私はきっと管理センターで燃えたキノコにも恨まれているのだ。

オープニングでは出演するはずだったアーティストの曲が流れた。聴きながら思った。太陽系の生命体は皆、空しさでダンスしていることが共通している。皆太陽によって生かされ、最終的には死んでいく。踊っている間だけはさようならが悲しくないから踊るけど、何がエネルギーかって、空しさなのかもしれない。

ヨガに参加し、クラムチャウダーを飲んで、フォレストエリアの後ろの方でライブを聴いていた。前方ではこんな雨なのに肩を組んで笑顔で揺れる人たちがいて、周りを見渡すと皆優しい表情をしていて、自然と心の濁りが少しずつ漂白されていくのを感じていた。

 ”体はいつか朽ちて消えゆく。こころはずっと美しいまま、変わらないまま。あなたの中に、私の姿を映してくれる ”

 塞いだ心にも音楽は届いてしまう。耳を塞がない限り、音は聴かなくても聴こえてしまう。いつどんな時でも変わらぬ音楽が、傷ついた心に染みて、涙が出た。

 この空間にこれ以上いたら、この時間を楽しんでしまう。私を律して、人気のない遊歩道を渡り金時山へ歩いて行った。

 しばらく無心に歩いていると、乾いた打撃音と、ソウシチョウが飛び交う声が聞こえる。目を向けると若い男性たちがバットや手斧でブナを叩き、傷つけ、怒号をあげている。

 恐怖と怒りと悲しみが同時に身体中の血液を巡り、その後放火魔とゴジアオイのニュースを思い出した。これ、私のせいだ。

 他の植物も同じような目に遭っているのだと思うと、強烈な怒りが湧いてきて、歯を強く食いしばりながら俯いた。いや、後悔している場合じゃないと、魂の抜けた表情で顔を上げる。遠くの方に人影が見えた。助けを乞うようにその方へ走って行った。

 輪郭が見えてくる。高身長で、パーマをかけた長髪、芥川のような端正な顔立ち、このフェスのサイトで見たことがある。フェスの関係者だ、と思った。同時にあのブナをなんとかしなきゃと思い出し、慌てて彼のもとへ駆け寄った。

 私は彼に事情を説明し、足早に現場に向かうと彼は冷静に青年たちを追い払った。ブナは既に手遅れだった。まだ何十年は生きるであろうものの、植物たちの時間からすればあと少しの命だ。一人ですぐに止めに行けば救えたかもしれない命。罪悪感と恐怖に負けた自分を嫌悪した。勇気が足りない。

 彼と別れたあと、私はもう帰ろうと山を降りて、最寄り駅に向かう下り坂を歩いた。正面からはなにかのパレードが行進してきていた。拡声器により荒々しく変換された声はこう叫んでいた。

 「すべての命に権利を! 森林伐採は悪魔の所業! 神花を守れー! 神花を守れー!」管楽器らしきものの音色も聞こえる。近くに寄るとダイアンサスの旗が見えた。そしてそのパレードの中に、先ほどまでブナを傷つけていた青年たちの姿が見えた。

 薄い酸で少しずつ心の形が溶かされていくようだった。
 「神花を守れー!」と叫ぶ青年の目に曇りはなく、正義の炎は身体に応えた。脳が揺れ、倒れるように近くの岩場に腰掛けた。私はぼんやりした意識の中で、最初にゴジアオイを見た時を思い出していた。
 

 二十日前──
 午前十一時半。いつものように山の入り口の鳥居の前で一礼し、職場のある森へ進む。
堆肥葬管理センター南足柄第一スフィアは、多様な堆肥葬のニーズに応えられるよう、熱帯雨林を模したエリアや寒冷地など世界中の植物が生育できる様々な環境がドーム状にゾーニングされていた。

センター内は間伐や伐採が禁止され、悠々自適に育つ植物たちの頭上に配置された合成樹脂の空中遊歩道を歩いて目的地に向かっていく。入り口から私が担当する温帯乾燥のエリアまで十五分ほどかけて森を抜ける。

 ドーム内の地面は粘土と砂を高い割合で含み、赤みがかっている。イチゴノキやローズマリーなど人気の常緑低木が並ぶ。どこからかやってきたイヌタデやタンポポを踏まぬように慎重に足を運び、オフィスへ向かっていると、アカマツの下に見知らぬ花が咲いていた。

しわの多い白い花弁に黄色い基部があり、中央に五芒星をあしらったような赤い模様が浮かんでいた。珍しい、何の花だろうと屈み、花に顔を近づけて観察しているとベビーパウダーの様な温かみのある複雑で独特な香りがした。どこかで嗅いだことがある香りだった。瞬間的に頭痛が走り、幼少の頃の微かな記憶を思い出す。

 家族とカプリ島へ旅行に行った時、私は一度死んでいる。運行中のバスが崖から墜落し、海へ放り出された。朧げな視界はあっという間に青一色となった。

これが死後の世界か、と思った。鉄の破片や人、鮮やかな小魚たちや海藻が影となり、浮いたり、落ちたりして、上下や生死が一緒くたになっていた。意識朦朧としながらも、私はそこで何かと繋がった感覚があった。それは今までもずっと側にいて、話したかったのに話せなかったものとの、念願の邂逅であったように思う。

 目覚めると見知らぬ病床だった。運転手の心臓発作による事故で、同乗していた五名が死亡したとのことだった。私の父もそのうちに含まれていた。
 事故の前日、島内の民家の庭で、当時の私の身長くらいまで伸びていたこの白い花を見ていた。かわいいねと花の香りを嗅いでいる私に、父はこれも葵の一種だよと教えてくれていた。

 悲しみの地層の深くに埋まっていた父の記憶が香りに誘われ、発掘された。悲しみはなかなか分解してくれない。石炭のように形を保ったまま、足元深くで物言わぬ存在感を示し続けている。父はもしかしたら、カプリ島でこの花になっているのかもしれないと、思いを馳せた。

 腰を上げてオフィスへ向かう。予定していた顧客との打ち合わせにパソコンを開く。白髪の七十歳女性が画面に映り、細々とした声で訪ねてきた。
 「私が輪廻する植物ですが、あまりお金もないもので、ローズマリーでいいかなと思っています。ほら、せっかくなら料理とかに使える方がいいじゃないですか。虫除けにもなりますしね。そちら様ですと五万円ほどですよね。あと、それから、ローズマリーはどれくらい生きるのでしょうか?」

 生前に自らの死後、輪廻する植物を予約しておきたいという相談だった。堆肥葬を選ぶ場合、死後に遺族が故人の総括として植物を選ぶこともあれば、生前に自ら決めておくこともあった。候補となる植物の寿命はよく聞かれる質問だった。
 「お値段はおっしゃる通りです。ローズマリーの寿命ですが、うまく生育できれば十年~二十年ほどでしょうか」と私は答えた。

 女性は少し切ない表情をして「そうなんですね」と答えた。「朽ちてしまったローズマリーは次にどこにいくのですか?」と尋ねた。
 「朽ちてしまった植物はすベて再び堆肥にして、ドーム内の他の植物に追肥しています。ですので火災などない限りは、半永久的に故人様の遺伝子情報が廻り続けることになります。堆肥を送る植物を指定することもできますが、その場合少しお値段が上がってしまいます」と私は言った。

 「それから堆肥は土の中や地表から風や微生物に運ばれて散逸するため、必ずしもご指定いただいた植物のみに量子サイクルできるわけではないこと、ご承知おきいただければと思います」と付け加えた。
 「そうなのですね。まぁ私は何に成ってもいいです。キリがないですもの」と女性は言った。
 

 夜、勤務が終わり、部屋の照明を落とすと辺りは真っ暗だった。帰路にもう一度あの白い花の様子を見にいく。懐中電灯で照らした白い花はすっかり萎れていた。少し残念な気持ちになった。
 ドームを出ると上弦の月と見渡す限りの星々が浮かんでいた。夜間の植物たちの睡眠を邪魔しないため、街灯の光量は最低限に調整されていた。ダウンライトの薄明かりと、手に持った懐中電灯を頼りに森を抜けていく。

 鳥居をくぐり街へ出て、地下鉄に乗り、暗い窓に反射する自分を見つめていた。父が死んでから二五年も経ってしまった。私はあの白い花のことを調べていた。

 白い花弁、五芒星、地中海、など思い当たる検索ワードを入力した。ロックローズというらしい。夕方には萎んでしまうので、和名は午時葵。花が葵に似ているので葵の一種と思われがちだが、ハンニチバナ科だった。父は勘違いしていたようだった。

 ”熱がある場所を好み、日当たりがある場所に咲く。火事や干ばつ、放牧などに適応した性質を持ち、菌類と共生的な関係を作ることで瘠せた土地でも繁殖しやすく、種は火災後に発芽しやすい。気温が三五度程度を超えると、自分を燃やすため発火しやすい分泌液を出す”

 適切な気温管理がされているスフィア内で気温が三五度を超えることはないにしても、もし発火したら燃えやすいマツに引火して、大変なことになる。万が一に備えて、今すぐ戻って対処しなくてはという思いと、誰かの神花として葬られている可能性と、管理センターのルールを天秤にかけて考えていた。最中、父と過ごした時間が断片的に思考に介入し、邪魔をした。

 考えていたら最寄り駅に到着してしまい、発火気温に達することはないし大丈夫だろうと考えた。取り急ぎ情報を社内のチャットに共有したところ、他の社員も同意した。しかし火災後に調べたところゴジアオイに量子サイクルする発注は入っていなかった。自然に芽生えるような種ではないので、誰かが意図的に植えたのだ。

 家に帰ると二人がけの茶色いソファーに腰掛け、スマホを手にとり途中まで見ていたゴジアオイについてのページを、最後までスクロールする。ゴジアオイの花言葉が出てきた。

 ”私は明日死ぬだろう”
 

 記者会見当日──
 光と音の津波に観念した私は「声を荒げてすみません。悪いのは私一人です。どんな人間の量子情報が移ろうとも、植物たちに罪はありません」と言って記者会見を終えた。

 控え室に戻り、椅子に腰掛け天井を仰ぐ。私の役目は果たした。指先は震え、右目の下が小さく痙攣していた。BMIから森林の音源を脳内に流し、深い呼吸に集中する。息を吐く際に生命の全てを手放し、息を吸う際に生命を身体に宿すイメージで。
 「トントン」
 ドアをノックする音と共に会社の後輩が入ってきた。

 「タクシー、来ましたよ」と泣きそうな顔で言った。
 「葵さん、なんで葵さんが罪を被らなきゃいけないんです。植えたのも、気温管理システムをハッキングしたのも葵さんじゃないのに。それに管理責任って言うなら私たちも同罪です……」
 私はうなだれた彼女の目線の先を見ながら言った。

 「最初に見つけてすぐに判断できなかったのは私だから。それにね、例えばあなたやうちの社長が矢面に立たされて咎められていたら、きっと私は耐えられない。だから自分のためなの」
 「そんなことないですよ」と彼女の目線の先に涙が落ちた。私は立ち上がって彼女の肩に触れる。

 「私がやりたくてしているのだから気にしなくていいんだよ。これで無意味に傷つけられている植物たちを少しでも守れるなら、それでいい。もう後悔したくないから」と言って控え室のドアを開けて裏口まで歩き、待っていたタクシーで警察署まで向かった。署内でも会見が中継されていたようで、話は早かった。三時間ほど取り調べを受け、後日来署する日程を伝えられ帰された。

 電車に乗り、大雄山駅で降りた。家に帰る前に、道路沿いの「橘」という古びた焼鳥屋に入った。精神が参った時に、逃げ込むように一人でこっそりと訪れていた店だった。いつものようにねぎまを三本だけ注文する。肉が焼ける煙が汚れた換気扇に吸い込まれていく様が、いつもよりグロテスクに見えた。

視線を下ろすと、網は黒く焦げ付き、肉片がゴミとなり、処理されていた。スマホに通知が鳴る。「明日、森と水の公園に行かない?」と彼からメッセージが来ていた。「いいよ」とすぐに返した。仕事がしばらく休業になったので、時間ならいくらでもあった。
 焦げ付いた網に目線を戻し、彼との関係と重ねた。新鮮な恋の輝きはとうに失われ、かといって洗浄する気も買い換える気もなかった。年季はものを変え難い特別なものにする。この網じゃなきゃだめなのだ。

 届いたねぎまを食べていると、店の神棚のような場所に置いてある小さなテレビから、私の記者会見の模様が流れ始めた。
 どきっとして、顔を伏せた。店主は気づいたか、気づかぬふりかをしてくれていたか、何が起こるわけでもなかったが「こういうことか」と思って、急いで食べて足早に店を出た。後で頼もうと思っていたアイスは頼めなかった。
 
 森と水の公園は相模沼田駅から徒歩二十分ほどの場所にある。彼、衣川歩《イカワアユム》はいつも私より早く着いている。白いロングシャツに灰色のチノパンを履き、髪はゆるくパーマがかかって茶色い。服も髪も黒い私と対照的な装い。公園の管理棟の前で待つ彼と目が合う。

 「歩」と彼の名前を呼んで、手を胸の辺りまであげ、軽い挨拶を交わす。言葉もなく、沢辺の方まで歩いていった。記者会見のニュースは見たのだろうかと思ったが、見ていたとしても彼はきっと触れてこない。当たり障りのない不干渉状態こそが長く関係を続けるコツであることを、私たちは過去に散々争った歴史から学んでいる。

 私たちは沢辺まで辿り着くと、古い木材で作られた屋根つきのベンチに腰掛け、タンブラーに入れた暖かい月桃茶を二つのコップに注ぎ、飲んだ。
 「どう、最近」と桜の方を見つめて彼は話す。
 「ぼちぼちかなぁ」と私は桜に返した。
 「そっか、ならいいか」と彼は言った。

 何気ない会話を交わせることが今は有り難かった。風も凪、静かに小川が流れる。彼は立ち上がって「奥の方に行こうよ」と森を指差し、歩き出した。
 水路の流れに沿って森の中まで入っていくと、人の顔が浮かんだようなクヌギが生えている。人面樹として地元ではちょっとした話題になっていた。幹の中央にシワだらけの老夫の顔が浮かんでいて、ぬらりひょんのようでもあり、何かを呪っているようにも見える。

 多くの人が樹木をRingNeで読み取るのだが、宮地さんという水道屋のおじさんと茅野さんという専業主婦のお婆さん、カラス、クロアリ、カラスノエンドウなどなどのよくある量子情報が表示されるので、期待外れだとレビューの評価は低い。

 「みんな、何か相当強い思念を遺して死んでいったに違いないって、ドラマを期待するんだろうね、この顔見ると」と彼は言った。
 「そうかもね」と私は足元の石を見ながら言った。
 表示された肩書だけで勝手に淡白な人生を想像してしまうのは違うよなぁと思ったけど、それは言わなかった。非業の死を遂げた水道屋さんだって、強い悔恨を遺して死んでゆく主婦だって当然いるだろうに。

 彼は切り株をRingNeで調べた後に腰掛けると、スマホを触り始めたので、私も大きな石に腰掛けて何も見ることがないスマホを触る。無目的に観察され続けるこの機械に意識があったなら、どんな思いでいるのだろうとふと思った。何も見ることがないので、昔やっていたSNSに久々にログインしてみた。
もう五年前の最新の投稿にコメントがついていた。

 「人殺し」
 「あなたの魂は地獄に行くでしょう」
 「私の父の魂はあなたに焼かれました。一生許しません」

 前世ごと食らいつくそうとするようなハングリーな暴力にゾッとした。地獄の番犬ケルベロスたち。私はもうとっくに地獄に落ちているよ。悲しみと無念を虚無が包んだ。
 彼はそんな私を察してか、近くにやってきて小包装のチョコレートを手渡した。包装には無神花認証済みと書かれていた。

 「大丈夫?」
 最近焼き鳥とチョコレートしか食べていなかった私の周期的な偏食を察して、チョコを用意してくれていたのだと思う。いつもなら喜んで受け取っていたものの、私は「大丈夫」とスマホに目線を向けたまま、淡白に受け取りを断った。

 夕暮れ時には公園を離れ、駅で彼と別れた。鯉が泳ぐ用水路を見ながら家まで帰るまでの間、彼の優しさをぞんざいにしてしまった後悔がじわじわと押し寄せてきた。どうして苦しいときほど閉じこもってしまうのだろう。ただ受け取るだけでよかったのに。私はきっと、もっと素直になった方がいい。そう思いながら家を通り過ぎて、コンビニに入り、最もカカオの配合率が高いチョコレートを買って帰った。
 
 無意識にテレビをつける。報道番組で私の事件が取り立たされていた。RingNeの開発者がコメンテーターとして語っていた。
 「意図的な犯行であれば許されることではないと思います。遺族の方々のお気持ちを考えると胸が痛みます」
 キャスターは切実な表情で大きく頷く。 

 「そうですよね。三田さん、葵田容疑者は会見で、植物に生前の罪や業は引き継がれないという話を再三していました。一方で火災に使われたゴジアオイからは放火魔の量子情報が検出されました。この点私たちはどう考えれば良いのでしょうか?」
 「この点については彼女の言う通りです。人から量子サイクルした植物に意識のような現象が創発されたことは一度も確認されていません」

 「なるほど。今後、このような犯罪を防ぐにはどうすればいいのでしょうか?」
 「昨今の森林葬需要の高まりに応じて、本来日本に生息しない植物の違法輸入が蔓延っています。その中で本来起こることのなかった自然現象による災害、生態系の異常が起きていることを私たちは今一度見つめ直すべきでしょう。また、犯人を擁護するわけではないですがゴジアオイの発火然り、森林火災自体は自然発生し得るものです。自然が自然に自然を燃やした罪と罰を裁く権利が我々にあるのだろうかという観点も、森林とより密接な関係になった現代、考えていく必要があると思います」

 三田さんがそう言った後、スタジオにはしばし沈黙が流れ、キャスターは次のニュースへ進行した。気づくと私の右目の痙攣は消えていた。
 

 それから五日ほどスマホも開かず、昼過ぎまで寝て、気が向いたら森へ行って一人で踊った。砂袋に空いた砂のように日々がこぼれ落ちていった。踊って、酸欠で倒れる時だけ、今ここに生きている感覚を得られた。踊っている最中には様々な思考が浮かぶ。いつまでこの生活を続けるのだろう、友達や彼から連絡は来ているだろうか、わざわざ私がやらなくてもよかったのではないか、過ぎるたびにそれを払うように回転した。

すると三半規管が狂い、それどころではなくなる。それを繰り返した。無心で身体をぼかし、森の中の一つの生命に近づいていく。一つになっていく。そして気づいたら倒れている。空は夕暮れ、時刻を告げるようにカラスが飛び交う。

マツムシソウの花を見ながら息を整えていると、火照った身体も冷めていき、頭が思考を許すように冴えてくる。求めている身体の状況を達成した私は腰を上げ、歩いて森を抜けて自転車を漕いで家に向かう。

 初秋の夜風が心地よく前髪を靡かせ、追い風に誘われるままに、私はアパートの前に群生したヒガンバナを風で揺らした。気の向くまま漕いでいると、職場の鳥居の前まで来ていた。
 七割ほど焼失してしまった森の暗い空には、天秤座が光を結び、新月が浮かんでいた。夜の帳が生々しい焼け跡を隠したが、森の影から立ち込める焦げた香りが、現実からの逃避を許さなかった。鳥居の奥に人影が見えた。

 そろりと近づいていくと、百八十センチは超えるがっしりとした男性のシルエットが浮かび、耳を澄ますと念仏を唱えているようだった。
 「一心頂礼万徳円満釈迦如来真身舎利本地法身法界塔婆……」

 私は男性と適切に距離を取り、後方で目を瞑り、手を合わせ、共に祈ってみた。焼失した無数の植物たち思い出せる限り一つ一つイメージして、せめて安らかであるようにと、祈った。立ち込める香りとお経が、見逃した罪の重さを重力に変換し、じわじわと肩に質量を感じていた。

 お経を唱え終わると、男性はすぐに振り返り、目が合ってしまった。男性は目を見開いて驚いた表情をしていたので、バレたと思った私はすぐに立ち去ろうとした。
 「あの、ちょっと待ってください。人違いでしたら申し訳ないのですが、葵田葵さんではないですか?」と男性が慌てて問いかける。

 私はその場から逃げ去ろうとしていたが、然るべき糾弾は聞き入れなければならないのではないかと責任を感じ、覚悟して足を止めた。
 「はい、そうです」と弱い声で返した。
 男性は少しずつ私に近いてきた。何をされても仕方がないと覚悟した。私は罪を犯したのだ。身体に力を込めて、強く目を瞑った。

 「葵田さん」
 男性の低い声が身体で感じられるほどの距離まで来た。心拍数は高まり、手が震えていた。

 「私は、あなたに謝らなければなりません」と男性は言った。
 「え」と反射的に返した。
 意外な台詞だった。恐る恐る振り返ると、坊主頭の男性の表情は萎れていた。
 「あのゴジアオイは私が植えたのです。まさか誰かが罪を被るようなことをするはずないと思っていたので、記者会見を見た時は衝撃でした。こんなつもりではなかったのです」と男性は大きな体躯に合わないか弱い声で、細やかに話した。

 「本当ですか?」と私が言うと男性は頷いた。なぜ私に自首するのか、本当に真犯人なのだろうか、訝しさと驚きでしばらく言葉が出なかった。
 「どうしてゴジアオイを植えたのは自分じゃないと言わなかったのですか」と男性は言った。
 私は問われたことに答えるよりも先に、目の前の不可思議な存在の正体を知りたかった。

 「あの、その前に、あなたは一体……」
 「あぁ、そうですよね、すみません。山岡陸寛と申します。普段は僧侶を勤めさせていただいております」
 「なぜ、お坊さんがこんなことを」
 男性は空を見上げ、静かに語り始めた。
 「私は仏の教えの通り、人の魂は出来るだけ早く六道へ渡るため、荼毘に付すべきだと考えます。現世に留まり続ける魂は、自然の炎により送って差し上げるのが、僧侶たるものの勤めだと信じています」

 私は下唇を噛んで聞いていた。決して納得したくないが、そう言う考え方があるのは仕方ないと思ってしまった。そのまま質問を続けた。
 「ゴジアオイはどこで? ハッキングもあなたが?」
 男性は少し考えた後で、決心したようにこちらを見つめて話した。

 「アルビジアというDAOをご存知ですか。現代の植物主義社会やダイアンサスに反対の立場をとる組織です。我々宗教者をはじめ、元々林業や農業を営んでいた方や氷河期の到来を防ごうとする方など、様々な方々で構成されています。先々月にお誘いいただいてから、このやり方をご教示いただきました。ハッキングも組織にお力添えいただきました」と言った。

 そのDAOの名は知っていた。ダイアンサスに比べ少数でありながら、経済界の大物が多数所属していると聞いたことがある。
 所属するDAOのことまで開示し、少なからずの誠意が見えたので、私は彼の問いに答えた。

 「そうでしたか……私はとにかく植物たちを守りたかっただけです。間違った情報が広がり、無闇に植物たちが傷つけられるのが我慢できませんでした。そんなに敵が欲しいなら私がなってやると思い、自首しました。植えたのも私の方が、世間は私一人だけを非難の対象にできるからそれで良かったと思っています。これ以上詮索が広がるとまた植物たちに危害が出る恐れがあったからです。それにゴジアオイが生えていることを知りながら見逃してしまった私に、確かに罪はあったから」

 ちらつく外灯に蜻蛉が集まっていた。海側から吹く風が前髪を靡かせ、顔を隠す。私は俯いた。
 山岡も俯いた。そして声を振り絞るようにして話した。

 「本当に申し訳なく思っています。言い訳がましいですが、私は人様に迷惑をかけるようなつもりはなかったのです……明日、私は警察に自首します。このすべてを話してきます。ここまで私の我欲故ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございませんでした」と深く頭を下げた。

 その潔さにも、彼自身の動機についても、私も戸惑った。人には人の信仰があり正義がある。理解できないことではなかったから。

 「もう少し早く自首してくれれば嬉しかったですが、伝えてくれてありがとうございます。それでは明日、よろしくお願いします」 そう言って振り返り、自転車に乗って帰路についた。

 少し漕いでから振り返ると山岡はまだ俯いて立ち竦んでいた。鳥は焦げた森の頭上を回遊し、嫌な匂いは風に流され、風下の私まで届いた。
 

 翌日、山岡は本当に自首をした。多くの報道番組がそれを扱った。
 「葵田さんは植物たちを庇うために身代わりになろうとした」と彼が供述したことを、ダイアンサスがこぞって美談としてシェアしたことをきっかけに、植物主義寄りの多くの人から礼賛のメッセージが届き、誹謗中傷のコメントは流れ去った。

 堆肥葬管理センターにも取材の問い合わせが多数来るようになり、職場の上長から至急記者会見を開いてほしいとのことで、私はまたあの光と音の波に立ち向かった。かまいたちのような悪意のある光の鋭さはなくなり、柔らかい光と賛美の言葉に包まれた。

 記者会見を終えると、報道番組は手のひらを返して私を「植物の女神」と喩えて持ち上げ始めた。
 堆肥葬管理センターの復旧は多くのボランティアが集ったことで加速度的に進み、黒い大地は八割ほど洗浄され、小さな芽が顔を出すまでになった。
 火災後に芽生えたゴジアオイは標本にされ、管理センターに飾られた。事件に関する一部始終のみが文章として添えられ、この教訓をどう捉えるかは観察者に委ねられた。

 報道番組で見たところによると、山岡は十年前に五歳の息子を火葬した後にRingNeのことを知り、もう少し早く知っていればと後悔していたらしかった。信仰や逆恨み、植物の世界では存在し得ない人間社会の伝統的な争いの種。いつの時代もその種は、ゴジアオイのように自然発火してしまう。温帯エリアで管理している、季節外れのアジサイを見つめながらそう思っていた。

 「葵田さん、お電話です」と管理センターの後輩から声がかかる。三田春さんが出ていた報道番組への出演オファーだった。春さんとの対談特集を組みたいとのことだった。彼に会いたい気持ちもあったので、出ることにした。
 

 後日、Sheep社で収録するとのことで、Sheep社前駅まで電車で向かった。合成樹脂の網を渡り、降りてすぐ聳え立つ巨大な白い建物の入り口を探した。背の低い植物たちが生い茂る歩道を、建物に沿って周回するように歩く。

 目の前に、黄色いレインコートに紺色のランドセルを背負った少年が、水色の上呂を持って群生する植物たちにくまなく水やりをしていた。雨は降っていない。見ていると道沿いに古い軽自動車が停まり、中から見覚えのある人が出てきた。
 私は「あっ」と口に出していた。

 彼はレインコートの少年に歩み寄り何やら話していた。やがて、少年の背後にいる私に目線が移り、彼も「あ」と言った。
 私は会釈をして彼のもとへ行き「渦位さん」と言うと彼は「えーと、葵田さん」と嬉しそうに言った。少年は訝しんだ目で私を見つめている。

 「どうも、先日は。まさかこんなところでまたお会いするなんて」
 「いや本当ですね。というかあの後びっくりしましたよ。テレビ見ました。何があったのか色々伺いたいところですが、今日はどんなご用事で?」
 「あそこでテレビの収録がありまして」と私は建物を指差した。
 「なんと、Sheep社で……すごいですね」と彼は言った。どことなく瞳が陰った気がした。

 「お子さんですか?」と私は少年に目を向けて口角を上げる。
 「そうです、一人息子で」
 「渦位円《ウズイエン》です」
 少年はあどけない声とまだ警戒の解けない眼差しで挨拶した。私は彼の目線までしゃがんでから「葵田葵です。はじめまして」と微笑んだ。
 「そっか、Sheep社に入るのですね、いいなぁ。なかなか入れないんですよ、ここのオフィス」
 渦位さんは白い建物を見上げながら話す。

 「そうなんですね。RingNeの開発者の方と対談を組んでいただいたそうで」
 「え、春さんとですか」
 「はい、ご存知なのですか?」 
 「僕が子どもの頃に、少し。もしできたら、渦位瞬があなたに会いたがっていると言伝えいただけないでしょうか?」
 彼は憂いを帯びた表情で、ガーデンのラベンダーを見つめてそう言った。

 「承りました」と私が微笑むと、渦位さんは少年と共に車に乗って、会釈をしてから去っていった。
 私はオフィスの入り口まで辿り着き、静脈認証でゲートを開け、人工音声と床に表示される羊のキャラクターのナビゲートに従って、社内に入っていった。
 社内は白すぎるほど真っ白で、廊下は足元から白い光が浮かんでいるような照明が施されていた。足元の羊は「もう少しです」と私を励まし、撮影場所への案内を続けた。

#三田春②

 テレビ局から会社への帰り道、近くの自然公園へ母の墓参りに行った。アジサイの横に生える、2メートルほどのガマズミ。追い越したはずの身長は再び抜かされていた。

灰褐色の樹皮に、広卵形の鋸葉を繁らせ、ナンテンの実に似た小さな赤い実を実らせている。子どもの頃から母とよくここに来て、顔がねじれるほど酸っぱいこの実を摘んで、互いのリアクションを笑いながら食べていた。

この樹の下に葬ることは、まだコミュニケーションが取れていたときに聞いた母の願いだった。量子サイクルという概念すらまだない時代なのに、母は何故か植物に輪廻することを知っていた。

 母は人から植物になっても、夏には葉の鮮緑で元気を、秋には果実を実らせることで栄養と思い出の再生を、冬になり枯れることで寂しさを、何十年も変わらず、僕に生きる力を与え続けてくれている。両手を重ね、目を瞑り、あの日の意識世界の情景や陽だまりのような日々を四季のように巡らせ、祈る。

 慣れないテレビ出演が続き、くたびれた脳はちょうどガマズミの酸味を求めていた。ゆっくり赤い実に手を伸ばすと、BMIより「RingNeしましたか?」とアラートが鳴る。

 神花に触れる際に自動的にアラートが鳴るアップデートを最近加えたのを思い出した。加えて、そういえば今日は食べちゃいけない日だったことを思い出す。もう一度ガマズミに手を合わせ「また来るね」と言って振り返り、会社へ向かった。

自身で開発したプロダクトながら、なぜ人の量子情報が入った植物を食べてはならない規範が社会に生まれたのかは、不思議だった。遺族の想いや、カニバリズム的嫌悪感など感情的なブロックは理解しつつも、生物として自然な巡りを滞らせてしまっているのではないかとも思っていた。本当にこれでいいのだろうか。


 
 社内に入ると、次の収録のための控え室に向かう。扉を開けると、既に誠也くんが控えていた。ラジオ体操第一の後半、腕を交差させながら、膝を開いて屈伸させる体操をしていた。

 「先輩、お疲れ様です」
 「体操中ごめん。しかもよりによって一番恥ずかしい動きをしている時に」 
 誠也くんは既に深呼吸のフェーズに入っていた。

 僕は「疲れたー」と言って、キャスター付きの椅子にどさっと腰掛けた。テーブルに置いてあった水を飲み、一息つく。体操を終えた誠也くんも向かいの椅子に腰掛け、パソコンを開いた。パソコンには新しくネムノキの花のステッカーが貼られていた。

 「ねぇ、あれ見た?」と僕は誠也くんに尋ねた。
 「なんです?」
 「森林火災の真犯人の会見」
 「見ましたよ」
 「いや、なんかね。犯行動機が切なくて。RingNeがなければこんなこと起こらなかったんだって思うと、なんとも複雑な気分が続いているんだ。どうしたらいい?」
 魂が抜けたように椅子に座っているとキャスターが少しずつ後退を始めた。止まる気にも戻る気にもなれなかった僕はそのまま身を預け、いよいよ壁に衝突して、軽く脳が揺れた。

 誠也くんは椅子に腰掛けてゆっくりと回転していた。目線は平行を保ったままで、酔わないための工夫が垣間見られた。
 「またそれですか。何度も言いますがRingNeは偉大な発明ですよ。自然観を変えて環境問題を改善したし、死後の希望を作った」

 「でも知らなければ感じることのなかった悲しみも増えた」と僕は呟いた。
 誠也くんは椅子の回転を止めて、白い天井を見つめて何か考えていた。
 「そんなもんじゃないですか、科学って。知れば知るほど、悲しくなってくるような」

 僕は一八〇度回転して壁を両足で軽く押して、机の方まで前進した。
 「そればかりではないけど、まぁ確かにエントロピーの増大則なんて知らなければ、僕らはずっと宇宙は永遠のものだって思えていたわけだしね」
 「ですね」
 「自然観なんて変えて良いものだったのだろうか」
 「いいんじゃないですか。少なくとも植林と間伐を繰り返して、環境保全と言っていた時代よりはぶっ飛んだ自然観じゃないはず。樹齢が長ければ神で、短ければ紙ですよ。ユーモラスすぎ」

 「そうかなぁ。でも、RingNeに関しては昔からちょっとした違和感があるんだよなぁ。思えば開発企画が会社に承認されたときからずっとだ。自分で企画したのに変な話だけど、承認が降りた時もなんかスムーズ過ぎて違和感があったのを覚えている」と机に着陸した僕は片肘を机に立てて顔を支えながら言った。

 「スムーズすぎる?」
 誠也くんはこちらを見て両手を組み、前屈みになった。推理でも始めそうな姿勢である。
 「うん。RingNeの企画は落ちて当然と思って衝動的に提案したんだよ。企画書もめちゃくちゃ粗かったと思う。というのも、子どもの頃から人は死んだら植物になるんだなぁという直感めいたものがあって、それが何度も夢に出てくるものだから、これは一度形にしなくてはいけない気がすると、使命感のようなものが芽生えて、まだ何のエビデンスもなかったのに提案したんだ。そんな企画、普通に考えて通ると思う?」

 「僕が上司だったらとりあえず有給を薦めますかね」
 「だよね。完全に疲れているやつの発想だと思う。でもそれがなぜかあれよあれよと上に通り、いつの間にか親会社から莫大な予算を出資されるまでのプロジェクトになった。なんでだろう」
 「先輩の熱量じゃないすか」
 「僕にそんな熱量があると思う?」
 「いや、ないですね」
 「それに当時毎日のように見えていたRingNeの夢も企画を提案して以降見なくなった。とにかくこのプロジェクトは何か不思議なんだよ」と机に顔を突っ伏した。

 誠也くんは軽いため息を吐きながら背もたれに深く腰掛けて、キャスターはその勢いで少し後退した。
 トントンとノックが響く。
 「そろそろお時間です」と制作会社のADらしき男性が部屋に入る。
 「わかりました」と僕は顔を上げて答え、立ち上がる。少しだけ立ちくらみがして、世界がふらっと揺れた。

 「トントンですよ、夢と現は」
 と誠也くんが呟く。
 入り口のドアノブに手をかけた僕は振り返って聞いた。
 「どういうこと?」
 「なんでもないです。収録、ファイトです」
 「うん、ありがと」
 白く重い、鉄の扉を閉めた。

#葵田葵②

 透明なソファーが配置された白く広々とした空間に、数台のカメラが設置されていた。そそくさと腰をかがめてやってきたディレクターに別席へ案内されると、既に三田さんがそこにいた。

 「葵田さん、はじめまして。三田と申します。今日はお会いできること楽しみにしていました」
 三田さんは実際にお会いしてみると、歳の割にかなりお若く見えた。
 「葵田です。こちらこそ、今日はよろしくお願いします」と会釈した。

 「以前テレビで、その、私が叩かれていた時に、コメンテーターとして出演されている回をお見かけしました。その時なんというか、ちょっと救われました」 
 「僕、そんないいこと言いましたっけ?」と三田さんは笑い、ディレクターも「そういういい話はぜひ本番で」と笑った。
 間も無くして、本番が始まり、話題は自然とゴジアオイ火災の件になっていった。

 「実際にゴジアオイ火災を仕組んだのは葵田さんではないのに、すごい正義感ですよね。植物への愛がとても強い方だと思うのですが、その点ダイアンサスと通ずるところもありますか?」
 ADのカンペで出されていた話題を三田さんが読み上げた。ダイアンサスは番組のメインスポンサーだった。

あの日、公園で樹木を傷つけていたのがダイアンサスであったことを私はまだ誰にも言えていなかった。ダイアンサスの自然保護活動自体には共感するし、目撃証言程度の小さな火種を放った暁に何かが良くなるわけでもないのだろう。私が見たのは大海に浮かぶ小さなゴミで、それが海全体を現すものではないのだと自制した。

 「そうですね。素晴らしい活動をされているなぁと頭が下がります。ただ私は、植物も人間も等しい命で、デウスであっても、そうでなくても平等に扱いたいなとは思います。私の彼はダイアンサスに入っているのですが、入念に無神花認証のものだけを選んでいるのを見ていて、すごいなぁとは思うのですが……」

 三田さんは沈黙の意味を察して、頷いた。社内的には肯定しきれないことへの無言の抵抗に見えた。予定されていた最後の質問に行くようカンペで指示があった。三田さんがそれを読み上げる。

 「生命が美しいとしたらそれは何故か? ということですが、そうですね……難しい質問です。技術者として美しさを定義するのは難しいのですが、個人的には、バトンを受け取り、そして渡せることに生命の美しさがあるように思います。死による世代交代によって多様性が増し、それが環境変容への強靭さになり種の存続に繋がります。樹木に至っては世代交代の期間が長いので存命中に自らの遺伝子を変えることができますが、親木は朽ち果てる際に全ての栄養を子木に与え、朽ちた後も様々な生物の住処になり、微生物達の食糧になり、石炭にもなっていく。死してバトンを渡していく瞬間に、僕は美しさのようなものを感じます」

 「わかる……」と無意識的に呟いていた。
 「私は、森にいると生かされているって思うんです。木々のさざめき、鳥の鳴き声、土の柔らかさ、緑の陰、匂い、全ての中に私という生命が等しく存在しているように感じます。そして体内でも臓器が自律して動いていて、自分ではとても制御できないようなことが体内では起きていて、生かしてくれています。なんというか、その奇跡を、感謝を、美しさと呼んでもいいのかなと思いました」
 「本当、そうですね」と三田さんは言った。

 収録は終わり、各所に挨拶し、いい時間だったと余韻に浸っていたところ、三田さんは一人の男性を連れてやってきた。
 「今日はありがとうございました。テレビでお見かけした頃から思っていたのですが、共感するところが多く、それになんというか、こんなこと言うのも失礼なのですが、亡くなった母にとても似ていて。ずっとお会いしてみたいと思っていました」
 表情に少しだけ憂いが見えて、私はできる限りの愛情を込めて「私も、今日はお会いできてよかったです」と言った。

 「せっかく弊社までいらしていただいたので、もしお時間あれば社内を見学されませんか? あいにく僕は次の予定が入っているので、代わりに田中が弊社をご案内させていただきます」と三田さんの横に立つセンター分けの若い男性が会釈をした。なかなか社内を見ることができないと言う渦位さんの言葉を思い出していた。

 「ありがとうございます。それではせっかくですので。あ、そういえば、渦位瞬さんが三田さんに会いたがっていると言っていましたよ」
 三田さんはしばらく彼の名前を思い出すように顎に手を当てて考えた。
 「僕が知る渦位さんは遠い昔に出会った少年なのですが、もう少年ではないのでしょうね。まだ覚えてくれていたとは……。もしまた会ったら僕もぜひ会いたいと、伝えておいてください」と言った。
 私は笑顔でそれを承り、田中さんの案内でNDAにサインをしてから、後ろに着いていった。
 
 田中さんはすり足のように歩き方が特徴的で、足音がほとんどなかった。私のパンプスの音だけが廊下に響き、なんだか忍びなかった。忍べてなかった。
 「ここがRingNeのデータセンターです」
 大きな扉が自動で開くと、複数の大きなモニターが並ぶ部屋が現れ、野鳥の声が聴こえる。ミソサザイやヨタカの声。

 「ほとんど無人ですが、RingNeの情報管理は主にここでしています」
 モニターには名前や年齢などデモグラフィックな情報が次々に更新されている。それを不思議そうに目で追っているのを田中さんが気付く。
 「あれは死者のリアルタイム情報です。脳死したBMIから自動的にこちらに転送されてくるようになっています」

 文字列は毎秒更新され、先ほど見ていた名前は既に画面の外に追いやられていた。世界はこんなにも変わりがないのに、人は滞りなく死んでいる。緑色のテキストは川の流れのように流動的で、不謹慎ながら見ていると何故か心が安らいだ。

 部屋を出て廊下を歩いていると、ガラス張りの部屋にシロイヌナズナが何本も生えているのが見えた。シルバーの機械類とのコントラストが不思議な光景だった。シロイヌナズナが植えられた鉢は機械的で見たことない形状で、そこには何本ものケーブルが取り付けられているようだった。

 「田中さん、あれは何をしているのですか?」
 「あぁ、あれは、ちょっとまだ社外秘なのですが、ざっくりいうと植物に人の意識を転送する実験です。プラントエミュレーションという技術を開発中でして」
 聞き慣れない言葉、空想科学のようなアイディア。気になって聞き返した。
 「プラントエミュレーション」

 「はい。ご存知の通り植物には中枢神経がないですが、ナノマシンに入れた人工ニューロンを植物にインプラントし、培養し、人の意識に近い模倣内的モデルを作ります。あの鉢型のデバイスは人でいう大脳新皮質の役割で、植物を通して感じている感覚を、内的モデルの情報をエンタングルメントさせ、注意スキーマを通して情報を意識として知覚することができます。意識状態を音声変換して外部モニタリングすることも可能になる予定です。鉢皿はソーラーパネルになっているので、太陽がある限りは自律して起動し続けます。はじめは内的モデルが適応するまで無意識状態が続きますが、しばらくすると一つ一つの感覚を言語的に知覚しはじめます」

 理論は分からないが、森と一つになるような感覚を思い起こしていた。あれをもっと鮮明に知覚できるのであれば、それはすごい。しかし人間の感覚野を遥かに超える植物たちの情報量に、人は耐えることができるのだろうか。
 「危険はないのですか?」と聞いた。

 「来年、ヒトでの臨床実験があるのですが、そこで判然としてくるかと思われます」 安全確認ができてから人で臨床するはずではと思ったが、それ以上は言わなかった。その後いくつかの部屋を周り、オフィスツアーは終了した。エントランスでLEDの光を浴びて生長する白い大木の醸す不自然で自然な営みが、この企業に持った印象そのものだった。 

#田中

 研究室に戻り、PCを開いた。アルビジアのタスクリストを確認して、テロメアの再生に関する最新研究の論文要約に取り組む。アルビジアのタスクリストには不老不死関連の研究開発タスクが並べられていた。現在はBMI経由で右半球下前頭皮質に時間感覚を遅くさせる信号を発信し、一日を二千四百時間に引き延ばし体感覚的に不老不死を得る「TiME」というプロダクトのリリースが迫り、チャットが盛り上がっていた。

 アルビジアには行き過ぎた植物主義に対する反対の立場を示すため所属する人も多い。年齢層は比較的高く、過去の社会で人間主義的な享楽を味わってきた人々が、再び青春の時代を取り戻そうと投資していたりする。ニュースチャンネルではダイアンサスのデモの様子や活動が揶揄的に投稿されている。

 創設者の上川のインタビュー記事を見るに、彼の強い反RingNe思想もこのDAOの引力になっているようだった。上川は小学生の頃、三つ上だった兄が事故死した。両親の寵愛を受けていた兄の死は両親を酷く絶望させ、やがてトリカブトのデウスになった兄を食べ、心中したらしい。

アルビジアのwebには”人は農耕が始まって以来植物たちの奴隷だ。今こそ解放の時だ”と自らを革命の立場とするスローガンが書かれていた。ダイアンサスもアルビジアも共に革命の立場を取りながら対立する構造になっていた。佐藤さんから暗号通話が届く。

 「もしもし、そちらは順調かい。こちらは無事目標日に祭を設定できたよ」
 「はい、こちらも滞りなく」
 「ご苦労。ではまた」
 佐藤さんとはこの後、アルビジアの拠点がある渋谷で会う予定だった。半年に一度のアルビジアの総会があった。
 

 松濤の一角にあるドーム一つ分ほどの広大な敷地に聳える五階建のビル。ヤシの木に挟まれた木造のゲートを通ると、アルビジアのアプリに自分が来たことが表示される。歩くと少しずつ四つ打ちの低音を感じてくる。

開かれた場所に出ると温水プールの上にDJブースがあり、爆音でオールディーなハウスが鳴り響き、鮮やかなカクテルを持った無数の老若男女が乱痴気騒ぎ。皆酒と音に酔っていて、シェイクやハペのブースも並んでいた。

騒ぎ立てる人々の合間を抜けて、ビルのエントランスまで進む。エントランスの灰色で無骨な壁面には”The world is a fine place and worth the fighting for.この世は素晴らしい。 そして戦う価値があるものだ”とヘミングウェイの詩が描かれていた。室内に入ると音は完全に遮音され、急な静寂が周囲への注意を鋭敏にする空間だった。

 真っ直ぐエレベーターまで向かい、三階に昇る。フロアにはガラス張りの開発室がいくつもセパレートされ、白衣を纏った人々が人型のアンドロイド、棺桶型のスリープマシン、巨大な試験管で培養されているタンパク質の結晶などと向き合っていた。

 ガラス張りの部屋の中で、スキンヘッドの男性が椅子に座り頭部を電極で繋がれていた。ただ目の前の一点をじっと見つめている。微動だにしない身体と対照的にモニタリングされている脳活動は活発で「TiME」の実験をしているのだと分かった。この男性から見ると僕らは高速で老化していて、彼はこの世界を僕らより何百倍も丁寧に感じ取っている。そしてそのスローな世界にはまだ社会がない。同じ空間にいるのに別の時間軸に閉じ込められているとも言える。

 「TiME」が普及すればやがて人はスローな世界で、不老不死を叶えた社会を実現するだろうか。半永久的な主観と高速で散逸していく世界の狭間で、双方それぞれどのように命を意味づけしていくのだろうか。

 総会が始まる時間が近づいていたので、五階に昇った。千人ほどが着席したフロアのステージには遺伝子と目をモチーフにしたアルビジアのロゴが掲げられ、上川が登壇するとフロアが暗転してスポットライトが当てられる。

 「皆さん、今日はようこそいらっしゃいました。パーティーを楽しんでいただけていますでしょうか? さて早速ですが、我々には時間がありません。カーボンニュートラルなどと言った人類最大の過ちを正していかねばなりません!」
 歓声が湧きたった。中には酔ったまま来ている人もいるのだろう。

 「増えすぎた森林は焼却し、二酸化炭素量を調整せねばなりません。それが地球の脳である我々人類の使命です。また、人の魂が輪廻するなどといった妄想は早々に捨て、実際的な不老不死のプランに取り組みましょう。我々は来る氷河期に備えてやるべきことが山ほどあります。今日はこの半年の素晴らしい開発の進捗を皆さんにご報告いたします」

 再び歓声が沸き立ち、ステージには重低音のオープニングムービーが流れ、各セクションからのプレゼンテーションが始まっていった。総会が終了すると同時に、暗号通話で佐藤さんから指定されたサンルームまで向かった。黄色いアルストロメリアの鉢植えが、太陽の方向に綺麗に横並びに陳列されていた。

 「田中くん、よく来たね」
 佐藤さんは車椅子を少し傾けてこちらを見た。あまりに白い髪と肌を、陽の光が限りなく透明に近づけていた。
 「本社での開発の件かい? 順調だよ。量産も済んでいて、日本中どこからでも逝くことができる。後はタイミングだ」
 佐藤さんはこちらが質問をする前に回答した。

 「そうでしたか。後は臨床が上手くいけばいよいよ、ですね」
 「あぁ臨床だが、彼らが望むような成功はしないよ」
 僕が驚くような表情を見せる前に佐藤さんは続ける。

 「技術的には何の問題もないが、そもそも植物の情報量を人間のOSで処理することに無理がある。人は人の情報限界の中でしか人を保てない。帰還者はもう二度と行きたくないと口々に言うだろうね。同時に帰還できない者も意図的につくる。それが着火剤になる。膨らませてきた植物の世界への希望を落とすことで、NEHaN世界に自ら足を踏み出すトリガーになっていくだろう」

 「彼らが技術的な不備に気付いて実験を取り止める可能性は……」
 「いや、そのためのアルビジアさ。人の競争原理とは本能のようなものだからね。対抗馬を機能させ続ければ、彼らは止まれない。それに信仰というやつは、犠牲を問わないのだよ」

 アルストロメリアを見つめながら、過去の宗教戦争やテロリズムの歴史を思い浮かべていた。カール・フォン・リンネが親友の名前に因んで名付けたこの花、花言葉は確か、持続。

 「エミュレーション計画の肝は、春くんと葵くんだ。つまりその二人への伝達を担う君にかかっていると言ってもいい」
 余計なことを考えていたのがバレたのだろう。釘を刺された。
 「気を、引き締めます」と言った。
 では私は本社へ戻るよ、と言って佐藤さんはDream Hack社へ向かった。
 
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第一章
2023年 10月8日(木の日)

第二章
2024年 8月11日(山の日)


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