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【連載小説】 本屋で暮らす Vol.4

私たちは生きることを許されているのか?
罪を犯した書店員と元書店員。
二つの魂は答えのない問いを求めて彷徨い続ける。
果たして行き着く先はあるのだろか?
『贖罪』とは何かを問う、現代版『ああ無情』――。


参考資料(順不同)

  • こども世界名作童話『三銃士』作・デュマ/文・砂田弘(ポプラ社)

  • こども世界名作童話『ああ無情』作・ユーゴー/文・砂田弘(ポプラ社)

  • こども世界名作童話『がんくつ王』作・デュマ/文・小沢正(ポプラ社)

  • こども世界名作童話『トム・ソーヤーの冒険』作・トウェイン/文・越智道雄(ポプラ社)

  • こども世界名作童話『フランダースの犬』作・ウィーダ/文・大石真(ポプラ社)

  • 『ぐりとぐら』文・中川李枝子/絵・大村百合子(福音館書店)

  • 『ぼくを探しに』作・シルヴァスタイン/訳・倉橋由美子(講談社)

  • 『新装版 ムーミン谷の仲間たち』作・ヤンソン/訳・山室静(講談社文庫)

  • 『私は本屋が好きでした』永江朗(太郎次郎社エディタス)

  • 『「本が売れない」というけれど』永江朗(ポプラ新書)

  • 『本屋、はじめました 増補版 ――新刊書店Titleの冒険』辻山良雄(ちくま文庫)

  • 『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』石井光太(ポプラ新書)

  • 『こぐまのケーキ屋さん』カメントツ(ゲッサン少年サンデーコミックス/小学館)

  • 『黄色いマンション 黒い猫』小泉今日子(新潮文庫)

  • 『檸檬』梶井基次郎/入力:j.utiyama・校正:野口英司(青空文庫)

  • 『サンドのお風呂いただきます「浜名湖編」』出演/サンドウィッチマン他(NHK)

  • 『古本買取・販売バリューブックス』(https://www.valuebooks.jp/)

Chapter.9――堕天使との契り

 仕事帰り、いつものように本屋に入ると児童書の棚整理をしている雪が見えたので、近付いて挨拶を交わしてから、児童書のコーナーで『ああ無情』と『ぐりとぐら』が売れているか確認した。いつの間にか習慣になっているのが何だかおかしくて、そんな自分に苦笑した。
 二冊とも売れておらず、棚に収まったままだった。が、今日はその横に新しい本が入っていた。私は手を伸ばしてその本を抜き取り、
「これも仕込み?」
「はい。どうですか?」
 いたずらっぽい笑顔を浮かべて、雪が聞いた。
「『ぼくを探しに』。雪ちゃん、センスいいじゃない」
 ――何かが足りず楽しくないと思っている丸い石のような「ぼく」。自分の欠けた部分にぴったりはまるかけらを探しに行く。転がりながら色々なかけらと出会うがなかなか見つからない。自分探しのようでもあり、理想を追い求める姿のようでもあり、哲学書のようでもあり……恋愛物語に置き換えてみたり、人間の成長する姿を描いたようでもあり……どう解釈するか、読み手に委ねられている。
「でも、これは買わないわよ」
「え? どうしてですか?」
 雪が意外、という表情を浮かべた。
「だって持ってるんだもの。前にね、付き合った人がいるんだけど、その人が誕生日にプレゼントしてくれたのよ」
 ――私も一度、ぴったりはまったと思った事があるが、そのかけらも離れてしまった。今はどうしているのだろう。元気だろうか……いや、もう過去の事だ。振り返ってもどうにもならない。たぶん、私も「ぼく」のように一生転がり続けて生きるのだろう。
 私は本を棚に戻した。
 ふと、平積みになっている絵本を宣伝した二枚のポップが目に入った。”小さいお子さんのいるパパやママへ おとこの子とおんなの子のカラダのヒミツがわかる絵本”と、飾り文字が蛍光ペンで書かれている。隣のポップには、男の子と女の子の可愛らしい裸のイラストと”性教育は3才から”という文字が踊っていた。
 ――そうか、今はもう三歳から性教育が始まってるのね。私なんて、小学四年の時に学校でおしべめしべの話を聞くまで、性について考えた事もなかった。三歳の頃はお母さんから「赤ちゃんはコウノトリが運んでくるのよ」と聞かされ、それを信じてた。
「このポップ、雪ちゃんが描いたの?」
 絵本を手に取って、パラパラと中身を見ながら聞いた。
「はい。結構、自信作です」
 雪が少し胸を張った。
「雪ちゃんって絵が上手いのねぇ、羨ましいわ。私は絵は苦手だし字も下手だから、ポップは自分で描かなかったの」
「え、じゃあ、ポップは付けなかったんですか?」
 絵本を戻して、
「ううん、絵が上手なバイトの女の子に細かく指示して描いてもらってたのよ」
「えー、ダメですよ、ポップは自分で描かなきゃ」
 雪に責められて、私は言い訳をするように、
「だって、本当に下手くそだったのよ。もう、恥ずかしいくらい」
「上手い、下手の問題じゃないです。気持ちの問題ですよ。ポップ作るほどその本が気に入ったなら、やっぱり自分で作るべきだと思います」
 反論できず、
「ごめんなさい」
 私は素直に謝った。
「で、その女の子には、ちゃんとお礼してたんですか?」
 私は心持ち小さな声で、
「高校生だったから、お菓子とかジュースとか買ってあげたりしてたんだけど」
「えー、それだけですかぁ? 今どきの女子高生はお菓子やジュースくらいじゃ動いてくれませんよ」
 昔はよかったですねぇ、と呆れたように呟く雪に、
「ごめんなさい」
 私は重ねて謝った。そして話を変えるように、
「今日は早番? だったらまた飲みに行かない?」
「あーっ、今日は遅番なんですよー」
 悔しそうな返事が返ってきた。
「そう。じゃあ残念だけど、また今度ね」
「明後日なら休みなんですけど、それじゃダメですか?」
 雪が名残を惜しむように聞いた。
「あら、偶然。私も明後日は仕事が休みなのよ」
「あ、そうなんですか? なら、昼間にお茶してそのまま居酒屋さんってコースもありですかね」
「そうねえ、お茶も悪くないけど……それなら思い切って昼飲みしてみない?」
「昼飲み、って何ですか?」
 不思議そうに聞く雪に、
「この間行った立ち飲み屋さんね、開店時間が午後二時なのよ。太陽の出てる時間にお酒飲むのってちょっと背徳的で楽しいわよ」
 雪の頬がみるみるほころんだ。
「いいですねぇ。昼間からお酒飲めるんだぁ」
 ――ふふっ。私ったら、まるで敬虔なクリスチャンを誘惑するサタンになったみたい。
 すっかりその気になって浮かれている雪を見て、
 ――でも、たった一言で堕落してしまうようじゃ、あまり敬虔とは言えないわね。
 心で呟きながら悪魔の契約を交わすように待ち合わせの時間を決め、私は本屋を出た。

Chapter.10――古本屋の経営努力

 雪と昼飲みに行く日、街を歩いていると古本屋が目に留まった。
 そういえば、古本屋に入らなくなって久しい。古本屋も見かけなくなった。
 看板を見上げると「昭和」「創業」の文字が見えたが何年のところが欠けていた。
 店頭にはワゴンセール用の安価な本が並んでいる。
『初心者用護身術の全て』というA4サイズくらいの薄いムックが目に入った。
 ――最近、物騒だから若くて一人暮らしの雪ちゃんにはいいかも。
 何気なく手に取ってペラペラとめくり、裏表紙を見る。
「自由価格本」と書いたシールが貼ってある。何のことだろう?
 買うついでに店主に意味を聞いてみようか。
 整然と本が並べられた古本屋の棚には哲学、歴史、社会科学、美術、言語、文学などに分類され堅苦しいタイトルの古本が天井まで並んでいる……あまり縁がない本みたいね。
 手前には文庫本や単行本などが雑然と置かれていたが興味をそそられるような本はなかった。
 奥へ進むと老人が両脇に古本の山を積んで狭いカウンターに陣取っていた。カウンターの上には古いレジが置いてある。
 読書に夢中になっていて、私に気付いていない。
「あのー」
 恐るおそる老人に声をかけてみる。
「ん? 買取なら他を当たってくれ」
「いえ、この本を買いたいんですが」
「すまんすまん、買ってくれるのか。最近はまともな本を持ってくる奴が少なくてな。買取はほとんどしないんだ」
「これ、下さい。マイバッグはあります」
 老人の顔がほころんだ。
「600円だ」
 千円札を出して400円のお釣りとレシートをもらう。
「ちょっと伺っていいですか? ここに『自由価格本』ってシールが貼ってますけど、どういう意味か教えて頂けます?」
「あー、それか。書店で売れなかった本が出版社に返品されてくるだろ。普通は注文が来るまで倉庫に眠るか、あるいは売れないと判断されると裁断されてゴミになる。まだ売れそうだと判断したら取次に頼んで定価以下で卸してもいいからとうちみたいな古本屋に売るんだ。販売価格はうちらが決めることができる」
「ということは……」
「普通の書店で売れなかった新刊だよ、それは。出版社にしてみれば定価以下でも売れれば多少でも利益が上がる」
「その本、定価がいくらって書いてある?」
「1,200円です」
「あんた、運がいいな。定価の半額で新刊を買えた。ま、『自由価格本』はたいてい半額にしてるがな」
 ――新刊が定価以下で買える。それじゃ普通の書店は潰れるじゃない。
「仕入れ値は教えられないがな」
 老人が朗らかに笑う。
「『自由価格本』って注文もできるんですか?」
「取次に在庫があればな」
「この護身術の本をもう一冊欲しいと言えば?」
「事務所にあるパソコンで在庫確認して取次に注文を出す」
 老人が後ろを振り向き、吹き抜けのドアの向こうを見た。
 中年女性が事務作業をしていてパソコンが1台ある。
 ――古本屋が取次に在庫確認できる? 普通の書店並みじゃない。
「この前なんか猫の本を置いてみた。で、若い女性が買っていった。脈があるな、と思って同じ本を置いてみた。若い女性が次々に買ってくれて合計10冊売れた。世の中、物騒だから護身術の本を置いてみた。で、あんたが買った。脈があるってことだな。もう一冊仕入れるよ。買うか?」
「はい、買います」
「じゃ、ここに苗字と電話番号書いてくれ。入り次第、連絡するから。うちらみたいな古本屋はこういう商売をやっていかないと食えないんだよ。そこに本が並んでるだろ」
 後ろを振り向き、棚いっぱいに並んだ堅苦しいタイトルの本を見る。
「ああいう本は学者なんか向けの高価な本だ。店を維持させるには『自由価格本』とかで利益を上げて店を維持させなきゃいけなんだ」
 老人の顔が若干険しくなった。
 普通の書店ばかりか古本屋も岐路に立たされているのだろう。みんな“売る努力”をしている。心がざわついた。
「ありがとうございました」
 優子は頭を下げ、古本屋を出た。

Chapter.11――自由価格本の脅威

 待ち合わせ場所の立ち飲み屋の前に行くと雪が向こうから手を振った。
『自由価格本』の話をしたくて仕方なかった。つい、小走りになる。
「優子さ~ん、走らなくていいですよ~」
 雪の大声が聞こえる。
 ハアハア息を切らして雪の所へ行くと、
「凄い事を聞いちゃった」
「何ですか、慌てて」
「走ったからお水飲みたい」
 雪が近くにある自販機に向かう。硬貨を入れ、水を一本取り出す。
 優子の元へ戻り、水を渡す。
「ありがと」
 優子が蓋を開けてゴクゴクと水を飲み干す。雪が呆れた顔をして見詰める。
「何か大変な事があったんですか?」
「ビッグニュースよ! はい、これ、プレゼント」
 優子が『初心者用護身術の全て』を雪に渡す。
「はあ、私に護身術を習えっていうんですか?」
「違うの。裏表紙を見て」
 雪が裏表紙をしげしげと見る。
「そのシールよ」
「『自由価格本』って書いてますね。何ですか、これ?」
「あー、落ち着いた。お店に入って飲みながら話しましょう」
 優子が先に立ち、「こんにちは」と立ち飲み屋に入る。雪も慣れたのか「こんにちは」と続く。
 まだ昼だというのにカウンターにはお年寄りが陣取っている。
 奥のテーブルに向かい合わせになり、
「何にする?」
「レモンサワーがいいです」
「じゃ、私も」
 優子がカウンターの向こうの従業員に大声で「レモンサワー2つ」と注文する。
「つまみは?」
「お任せします」
「じゃ、すぐに出てくるモツ煮込み、冷ややっこ、煮卵二つ、ポテトサラダ、あとは……」
「優子さん、まだ早い時間だしゆっくり飲みましょうよ」
 雪が笑う。
「あら、やだ、そうだったわね」
 レモンサワーを持ってきた従業員につまみを注文する。
「ところでビッグニュースって何ですか?」
「ほら、この道の先を曲がったところに古本屋さんがあるじゃない」
「あー、昔からありますよね。古本屋ってほとんど入ったことがないんですよ」
「ちょっと寄ってみたの。で、見つけたのよ」
「何を?」
「それ」
「護身術の本ですよね?」
「大事なのは裏表紙の『自由価格本』のシール」
「これ、どういう意味です?」
「それがね、その本は新刊なのに定価の半額で売ってたのよ」
「ちょっと、優子さん、落ち着いて話して下さいよ」
 可笑しそうに優子を見る。
 優子がレモンサワーをグイッと飲む。雪も釣られてグイッと飲む。
「昼に飲むお酒って何だか味が違いますね。みんな仕事してるんですよね。うわー、何だかいけない事してるみたい」
 雪の顔がほころぶ。
 つまみが運ばれてきて、雪がモツ煮込みをつまむ。
 優子がレモンサワーを半分ほど飲み干す。
「ピッチ、早くないですか、優子さん」
「600円得したからいいの」
「何ですか、それ。優子さん、さっきからおかしいですよ」
「雪ちゃん、『自由価格本』って知ってた?」
「いえ、知りません」
「書店で売れなかった本は最終的に出版社に戻るでしょ。すると在庫を抱えることになる。普通はどうなると思う?」
「倉庫の保管料とかかからないように断裁されるんじゃないんですか」
「そうなる本が多いわよね。でも、古本屋で売れるルートがあったとしたら?」
「古本屋へ流れるでしょうね。でも、古本屋だって大量の売れなかった本を抱えるわけにはいかないですよね」
「大量に抱えるわけじゃないの。普通の書店と同じで取次があって古本屋は1冊から注文できるの。それを店頭に置いて価格は古本屋が決めることができるの」
「優子さん、モツ煮込み、美味しいですよ。喋ってばかりいないで少し食べたらどうです?」
「そうね」
 と言いつつ、
「レモンサワーもう1つ」
 カウンターの向こうに声をかける。
「何か興奮してますね」
 雪が笑みを浮かべながら煮卵を半分に割って食べる。
「話を整理しましょうよ、優子さん」
「あら、支離滅裂になってる」
「近いですね」
 雪が笑いながら残りの煮卵を食べる。
「簡単に言うと、書店で売れなかった本が版元の出版社に戻るけど、まだ売れそうだと判断したら取次に頼んで古本屋へ定価以下で卸して売っている、ということですよね」
「そうそう、そういうこと。雪ちゃん、飲み込みが早いのね」
「だけどそれで普通の書店が潰れるわけじゃないし、断裁されてゴミになるよりはいいんじゃないですか」
「あら、私ったら、定価の半額で新刊が古本屋で買えると思ったもんだから普通の書店が大変な目に遭うって思っちゃった」
「早とちりですよ。これだってうちの本屋で1週間置けるかどうか」
 雪が大笑いする。
「そうよね」
 優子の顔が赤らむ。
「出版社が出版のサイクルをどんどん早めてる。お陰で長く店頭に置ける本が減っている。それくらいはご存じでしょ。それが古本屋に流れてるんでしょうね。本が無駄にならないだけいいことなんじゃないですか」
「あーあ、もう1冊注文してきちゃった」
「2人で護身術の勉強しましょ」
「飲みましょ、飲みましょ。昼飲みっていいわねぇ。雪ちゃんもグイッと飲んで」

Chapter.12――檸檬の悪戯

 護身術の本のお陰で最近、痴漢や盗撮といった変質者が増えてる話になった。
「なんか夜道も1人で歩いていると怖いですよね」
「あら、それは雪ちゃんが若いからじゃない」
 優子がちょっと意地悪そうに言う。
「年齢を選ばない男性も多いみたいですよ。この前、70代の女性が20代の男性に痴漢されたってニュースがありました。優子さんだって気を付けないと」
「えー、若い子が狙われるんじゃないの? 怖いわね」
 優子がレモンサワーを飲み干す。
「そういう男性ってやっぱりAVとか観て、その影響で痴漢とかしちゃうんですかねぇ」
 雪がレモンサワーを飲みながら言う。
「そんなの知らないわよ。私、AVなんて観たことないから。雪ちゃんは観たことあるの?」
「ないですよ」
 と笑う。
「そんなの観るくらいなら本物の素敵な男性と出会う方法を考えた方がいいです」
「そうよねぇ」
「雪ちゃん、マッチングアプリとかやってるの?」
 少し酔いが回ってきたのか優子がプライベートなことに立ち入る。
「それもないです」
 ケタケタ笑いながら雪が答える。
「どこかにいい男性がいないかしらね」
「本好きの男性がいいですね」
「お店の常連客で素敵な男性はいないの?」
「いないですよー。いたらすぐに捕まえて彼氏にします」
 雪も酔いが回ってきたのか、ざっくばらんな口調になる。
 何杯目かのレモンサワーを飲み干し、機嫌が良くなってきたのか、
「ところで優子さん、レモンサワーのグラスの縁に付いたレモン、何か思い出しません?」
 優子がレモンサワーのグラスの縁についたレモンを見詰める。
「え? 何かおかしなところがあるの?」
 フフフと雪が笑う。
「あれですよ、あれ」
 雪ちゃんったらもう酔ってきたのかしら?
「あれって?」
 えーと、と言いながら雪がスマホを操作する。
「この部分です。読み上げますね」
 ――丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕かけて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
「え? まさか、行くの? 京都でしょ、場所は」
「丸の内の本店でもいいんじゃないですか」
「それじゃ物語と違うじゃない」
 優子がレモンを手に持って異議を唱えた。カウンターに行き、従業員と何事か話している。
 両手に1つずつレモンを持ち、戻ってきた。
「はい、これは雪ちゃんの分。これは私の」
「この2つのレモンをどうするんですか?」
「そのスマホ、ちょっと貸して」
 雪が優子にスマホを渡す。
 優子が読み上げる。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。
 優子が雪に目で合図を送った。雪も察したらしい。2人はレモンをそれぞれテーブルの上に置いてすぐさま走って店を出た。
 角を曲がり、店が見えなくなった辺りで、
「雪ちゃん、待って。息が上がっちゃったわ」
「優子さん、これって食い逃げですよね?」
 雪が心配そうな顔をした。
「え? ちゃんとお勘定してきたわよ」
「いつ?」
「レモンをもらう時にお勘定もしたの」
「あー、良かった。警察に捕まるかと思いましたよ」
「今頃、お店が木っ端みじんになってるかもね」
「昼飲みって楽しい事があるんですね」
「こんなの私も初めてよ」
 二人は笑いすぎて涙目になり、笑い転げた。

Chapter.13――万引の常態化

 雪とまた飲もうと約束した日、本屋に入ろうとした瞬間、自動ドアが開き、誰かが飛び出してきた。
 一瞬の事で、よけきれずぶつかってしまった。
 何とかバランスを取って倒れはしなかったが、中学生くらいの少年が尻餅を付いていた。周囲に本が散らばっている。全部コミックスだった。
 すぐに若い男性店員と店長が駆けつけてきて少年を捕まえ、立たせた。
「ちょっと事務所まで来なさい」
 きつい口調で店長が言った。少年は逃げようともがきながら叫んだ。
「なんだよ! 金払えばいいんだろ! 離せよ!」
「そういう問題じゃない! 自分のやった事をよく考えなさい!」
 若い店員がなおも逃げようとする少年を引きずるように店内に入って行った。顔なじみになった店長が私に頭を下げ、
「申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?」
 私は半分うわの空で、
「いえ、ちょっとぶつかっただけですから。大丈夫です」
 ――本屋にとって、本は銀の食器だ。
『ああ無情』を思い出していた。
 ――ミリエル神父ならあの少年を許しただろうか?
 書店員だった頃、一度だけ万引きした少女をこの手で捕まえた事がある。
 以前から店員全員が怪しいと目を付けていた常習犯の一人、小学生だった。
 いつものように大きめのポシェットを肩から下げ、レジ横にある監視カメラで店長が見張る中、コミックス担当の店員がわざと持ち場を離れ、隣の棚の陰から見張った。
 少女は、後ろに客がいるのも気にせず平然とコミックスを大量にポシェットに詰め込み、素知らぬ顔で店を出ようとした。その瞬間、一番近くにいた私が腕を取って捕まえた。
 万引きは現行犯でないと捕まえられない。バッグに入れたとしても店内であれば、「買おうとしていた」と言われればそれまでだ。本を隠して外に出る瞬間に取り押さえる。つまり、犯罪が成立した瞬間を捉えるのだ。
 防犯カメラに顔も映り、万引きの現場の映像が残っていたとしても知らずに外に出られたら、警察に被害届を出したところでいったいどこの誰かも分からない万引き犯を探すのは困難だ。
 事務所へ連れて行き、問い詰めると、始めは知らない、やってないなどととぼけていたが、監視カメラに映った現場映像を見せたらあっさり犯行を認めた。
 盗んだコミックスは13冊あった。
 持ち物を全て出させ、ポシェットに付いていた住所と電話番号の書かれた札を見て自宅に連絡した。母親が来る、との事だった。
 その間、小学生の少女は平然としていた。そして、やってきた母親は悪びれもせず、
「代金を払えば済むんでしょ」
 言い放ち、財布を取り出して1万円札をテーブルに放り出して少女を連れて帰ろうとした。
 店長が2人を引き留め、警察に連絡して被害届を出す、と告げると慌てて少女に何度も頭を下げさせて勘弁して欲しいと懇願し始めた。少女は、何が悪いのといった顔つきをしていたが。
 母親の懇願を無視し、警官を呼んだ。証拠はないが常習犯だからだ。警官には被害届を出しに行くと伝えた。連れて行かれる前に、厳しい顔をした店長が母親に言った。
「本屋というのは、1冊の本を売っても利益は2割程度なんです。だから、千円の本を1冊売っても利益はたったの二百円です。1冊盗まれたら、2割の損失だけじゃなく出版社に本の定価の千円も払わなきゃならない。しかも万引き犯はお嬢さんのような小学生から中高年まで、あらゆる世代に渡っているんです。私たちは必死で万引き犯と戦っているんですが、捕まえても捕まえても全然減らないんです。次から次へと新手が現れるのでいたちごっこです。そういう事、考えた事がありますか?」
 母親はしどろもどろになって答えられずにいた。
「万引きは窃盗罪なんです。お嬢さんは小学生とはいえ、立派な窃盗犯なんですよ。しかも以前から怪しいと睨んで目を付けていた万引き常習犯です。今回やっと現場を押さえて捕まえられたんです。これまでは現場を押さえられなかっただけで、初犯じゃないんですよ。だからこちらとしても被害届を出してきちんと捜査してもらいます。防犯カメラの過去の映像でお嬢さんが映っているのがあれば警察に提出します」
 母親が小さな声で呟いた。
「……申し訳ありません。お願いします、それだけは許して下さい」
 店長が無視して続ける。
「いいですか、初犯じゃない事は警察にも伝えます。事情聴取でどれだけ万引きを繰り返していたか分かります。当然、学校にも連絡が行きます。被害届を出しますから、そちらも弁護士を立てて下さい。弁護士さんと私が話し合いを持ちますから。小学生のうちから犯罪者になってしまって将来どうなるか、きちんとお子さんの事を考えてあげて下さい」
 母親は事の重大さが分かったのか分からなかったのか、呆然とした顔で少女とともに警官に連れられて出て行った。
 ふだんなら警官が本屋に来た際、事務所で事情聴取され、万引きした本代を払ってから交番に連れて行かれる。そして軽微な窃盗として指紋を採られ、「2度とこの本屋に行かないように」と警官から注意されてお終いになる。
 だが、この日の店長は違った。その態度から、執念と危機感を感じた。
 万引きを防止するためには従業員を多く雇わなくてはならない。そのためには人件費が必要になってくる。2割の利益しか上げられない本屋が社員のみならずアルバイトに高い給料を払えるはずがなく、本が好きで勤めたのに生活のために本屋を離れる従業員も多い。
 今でも本屋のアルバイトは最低賃金程度の時給だ。社員の給料がいくらなのか、推し量るとぞっとする。
 店長があの時、執念を燃やし、危機感を抱いていた理由が後で分かった。
 小学生の少女の万引きからほどなくして、私が勤めていた本屋は常態化した万引きに負けて倒産した。
 ――あの子はその後、更生する機会は与えられたのだろうか?

                         (2024/03/24 UP)

*誤字脱字等ございましたら、下記コメント欄にて指摘して頂ければ幸いです。
*本稿は週に1度程度UPしていく予定です。

【本屋で暮らす】各章見出し


Prologue――孤独と不安
Chapter.1――書店員との出会い
Chapter.2――銀メッシュとの交流
(以上、Vol.1)
Chapter.3――暗号の交差
Chapter.4――初めての美酒
Chapter.5――自己犠牲の精神
(以上、Vol.2)
Chapter.6――記憶の錯綜
Chapter.7――父母の愛
Chapter.8――本屋の倒産
(以上、Vol.3)
Chapter.9――堕天使との契り
Chapter.10――古本屋の経営努力
Chapter.11――自由価格本の脅威
Chapter.12――檸檬の悪戯
Chapter.13――万引の常態化
(以上、Vol.4)
Chapter.14――人殺し達
Chapter.15――スリルの誘惑
Chapter.16――後悔と号泣
Chapter.17――刃先と血
Chapter.18――手首の傷跡
Chapter.19――黒い染みの恐怖
Chapter.20――漫画の効き目
Chapter.21――まぁちゃんの笑顔
Chapter.22――世界を敵に回しても
Chapter.23――店長からの赦し
Chapter.24――赦しの理由
Chapter.25――償いと決意
Chapter.26――良心の呵責
Chapter.27――奉仕の精神
Epilog――新たな船出


野良猫を育て最盛期は部屋に6匹。最後まで残ったお婆ちゃん猫が23歳3ヶ月で急逝。好きな映画『青い塩』『アジョシ』『ザ・ミッション/非情の掟』『静かなる叫び』『レオン/完全版』『ブレードランナー』etc. ヘッダー画像:ritomaru(イラストAC)