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「スゴいことより違うこと」


最近SNSを観ていて、イイねが欲しいあまり、承認してもらいたいあまり、

有益な良いことを投稿しようとしすぎて頑張りすぎてる人が多いなと強く感じる。

別に悪いことじゃないけど、SNSって有益な投稿をしなきゃいけないルールなんてないのになんでそんなに頑張ろうとしているのか疑問に思っている。笑

そういう風潮なのか、誰かに指示されているのか、

真相はわからないけどほんとにそう感じる。(もしかして俺だけ?)


しかも、そういう投稿しているアカウントを見ると、

「何者か?」が全くわからない。

お前は誰なんだ?と言いたいアカウントばかりだ。笑

匿名性が高くいくらでもハッタリを咬ませるSNSを見る上で、

「誰が言うか?」が一番大切だから、

顔を出してない、名前もハッキリしない、実績がよくわからない、そんなアカウントの投稿を見たって何の学びにもならないと俺は本気で思っている。

きっと、とにかく有益な投稿してイイねもらって承認されたい病を患ってる人はスゴい人になりたいんだろうな。

そういう人を見ると、疲れないのか?と心配になる。



俺は常日頃から、せっかく生きているんだったら、

楽しいほうがいいし、疲れないほうがいい

と思って生活している。

これは俺だけじゃなく多くの人がそう思っているはず。


じゃあ、どうすれば楽しく疲れず生きていけるのか?

俺は、

違うことを受け入れる器

を自分の中で持つことが重要だと思っている。

そして、俺みたいな凡人が何か結果を出したかったら

スゴい人より違う人になる

ことを目指すべきだ。

というか、そもそも俺みたいな凡人はスゴい人にはなれないんだ。



でも、世の中はスゴいことに価値があるんだという考えを植え付けてくる。

これは、決して間違ってはいない。

最近の話題で言うと、イチローはスゴいし彼の価値は誰もが認めている。

今、社会的影響力のある人は皆スゴい人で価値がある人だ。

間違ってはいないけど、俺みたいな凡人がスゴい人に影響されてスゴい人を目指しても絶対にスゴい人にはなれない。

なぜなら、凡人だからだ。笑


そして、世の中に

「違う」=「悪い」

と思っている人が多いことにムカつく。

違うことを認めない社会にムカつく。


「違う」ってその人にとって立派な個性で武器になるものだ。

それを都合の良い「常識」というクソみたいな枠にハメ込もうとするなんて腐っている。

「常識」に縛られて「違い」を受け入れられない人間になるんじゃなく、

「違い」を受け入れられる人間になるべき。

そして、「違う」人間になるべき。

「違い」を受け入れられれば何が起きても楽しくなるし、

「違う」人間になれば、スゴいことを目指すより気楽に疲れず生きれる。

しかも、「違い」を極めれば希少性が高くなり、結果的にその他大勢から突き抜けた人間になれるんだ。

スゴい人になろうとしている人が多い今、より簡単に突き抜けやすくなっている。


違いを認めない環境なんてさっさと抜けちゃえばいい。

違うことに恐れるな。

違いはチャンスだ。

それは武器になる。



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