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言葉の可能性を信じて~僕が文章を書き続ける理由~

【第1話】億劫だったはずの文章作成に魅了され、夢中になって書くようになった理由
【第2話】「人と違う視点」で文章を書く理由 ~原点は「小さな親切、大きなお世話」~
【第3話】頭と心をフル回転!伝えたいことを自分の言葉で語る喜び
▶【最終話】言葉の可能性を信じて~僕が文章を書き続ける理由~ ← いまここ

「なぜ、私は書くのか」シリーズ

藤原華さんさんの企画テーマ
「なぜ、私は書くのか」の最終話ということで、
書いていきたいと思います。

第1話で、以下のようなことを書きました。

ですが、ここで思うことは、

「伝える手段はいくらでもあるのに、
なんで文章で書くんですかね?」

ということ。


今の時代、
音声や動画でいくらでも伝えられます。

それでも、僕はなぜ
「文章」というスタイルを選んでいるのか?

そのことについて
深堀りしていかないといけなそうだなぁ、
と思っているわけです。

ただ、それに関しての深堀りは
次回以降に回すとします。

億劫だったはずの文章作成に魅了され、夢中になって書くようになった理由

というわけで、
「なんで文章で伝えているんですかね?」
ということを考える機会がやってきました。


前回の記事で、
文章を書く理由として

「伝えたいことをわかりやすく、興味深く伝えるため」

頭と心をフル回転!伝えたいことを自分の言葉で語る喜び

なんてことを書きました。

動画や音声とは違って、文章は
「あれ?ここなんだか伝わりづらそうだな」
と思ったら、その場ですぐに修正できるのが魅力の一つです。

「納得できる形で伝えやすい」
それが動画や音声とは違う、
文章の魅力だと思うんですよね。


また、音声であれば、
言葉以外にも音という
別の手段で伝えられますし、

動画であれば、さらに
映像という別の手段で伝えられます。

だから、
伝えられる情報を多くすることができるんですよね。


ですが、文章というのは、
文字で伝えるしかありません。

もちろん、「図解」という手もあるので、
文字だけで伝える必要はないのですが、
図解は面倒なので
文字だけで伝える魅力というものがあると思うんですよ。


小説を読んでいて
「文字だけで情景を浮かべさせるなんてすごいなぁ。魔法みたい」
なんて思いませんか?

文字からイメージする。

それって、
書き手と読み手に「共通した言葉」があるからこそ、
イメージできることですよね。

「ん?この言葉は何だろう?」となれば、
イメージなんてできませんから。

読み手にイメージしてもらうためには、
相手が理解できる言葉で伝えること。

そして、
書き手が意図した形で読み手に理解してもらうためには、
本当に伝えたいことの前に、
前提となる情報を共有しておく必要があります。


「別にアンタのことなんか好きじゃないんだからね!」
という言葉はツンデレキャラの古典的な言葉遣いになったので、
この言葉を使うだけで、ツンデレキャラだと一瞬で思わされます。

ですが、
「アンタのこと好きじゃないし。関わらないでくれない?」
というセリフだけでは、キャラクターの真意がわかりにくいです。

陰ではベタ惚れだけど、
ついクールにあしらってしまうキャラなのか、
それとも本当に関わりたくないだけなのか、
読み手には判断が難しいところです。

そういう場合は、
「好きな人の前だと真顔になり、言葉遣いがきつくなるキャラ」
という前提を読み手に理解してもらうことで、
ラブコメのように展開になります。

だから、文章の場合は、
前提の共有、つまり読者との共通認識を持つことは本当に大事で、

どのような言葉で伝えれば、物語が面白くなるか?
どのような言葉で伝えれば、同じイメージを共有できるのか?
というのは、書き手の力量にかかってきます。


漫画やアニメであれば、
「アンタのこと好きじゃないし。関わらないでくれない?」
と言ったキャラがその場からいなくなり、

トイレや廊下の隅などで
「また、やっちゃったーーーー!!!」
みたいに、縮こまりながら赤面しているだけで、

受け手は、
「あぁ、好きな人の前だと真顔になり、言葉遣いがきつくなるキャラか」
と瞬時に理解できます。

アニメだと、
そのキャラがそもそも声が上ずってて、
「無理しているなぁ」
というのがわかるような仕掛けをさせることもできます。


そうやって考えると、
文章というのは表現しなければいけないことが山積みだな、
と思ってしまうのです。

「いや~、やっちゃったよ」
という言葉は、

声であれば、
「トーンが落ちた」ということから、
「落ち込んでいるかも?」とか、

「トーンが高い」ということから、
「意外と大丈夫そう。というよりも、ネタにしたそう」
と、推測しやすくなります。

声のトーンというのは
そのときの気持ちに反映されることが多いので、
特に意識せずとも、声を出すだけで
ある程度こちらの気持ちを伝えることができるのです。


ですが、文章であれば、
その気持ちを伝えるために一工夫しなければいけません。

例えば、
「いや~、やっちゃったよ……」とか、
「いや~、やっちゃったよ(笑)」とかになりますかね。

もしくは、


「いや~、やっちゃったよ……」
と相手に心配させないように
明るさを見せられるよう、心がけたつもりです。


といった説明を書く必要があるかもしれません。


たった一言でも、
そこに込められた感情や意図を読み取るのは
容易ではありません。

それでも、伝えるために
言葉を選び、句読点を打ち、
時には絵文字や顔文字を添えて、想いを伝えようとします。

試行錯誤しながら、
自分の想いを少しでも正確に伝えようと奮闘するのです。


正直、こういった作業が
面倒な作業だと感じることもあります。

ですが、めんどくさいながらもそうやって
「自分の想いを少しでも正確に伝えるために奮闘する」という行為は
他のメディアにはない魅力だと思うのです。

そのように、
想いを伝えるために言葉と真剣に向き合うからこそ、
言葉の奥深さという魅力が文章にあらわれると思うのです。


同じ言葉でも、
組み合わせ方や文脈によって全く異なる意味を持ちます。

たった一つの単語が、
誰かの心を動かし、世界を変えることだってあります。

だからこそ、
言葉の力を信じて、試行錯誤し、
そのような言葉を絞り出す。

そのために
僕は書き続けるのかなと。


また、文章を書くことは、
自分自身と向き合うことでもあります。

頭の中でモヤモヤしていた考えを言葉にすることで、
自分でも気づかなかった感情や思考が明らかになる。

それは、まるで
心の奥底に光を灯すような、不思議な体験です。

そして、文章は時空を超えて、
誰かの心に届く可能性を秘めています。

今この瞬間、私の言葉が誰かの心を打ち、
何かを変えているかもしれません。

そんな希望を抱きながら、
僕は日々文章を書いています。


「なぜ、私は書くのか」

その答えは、人それぞれだと思います。

それでも、僕はこう信じています。

文章を書くことは、自分自身を知り、
世界と繋がり、そして未来を創造することだと。


だから、僕はこれからも書き続けます。

言葉の力で、誰かの心に小さな灯りを灯せるように。


文章を書くことは、僕にとって、
自分の想いを丁寧に伝え、
相手と真のコミュニケーションを築くための大切な手段なのです。

これはあくまで僕が思うに、という話ですが、
動画や音声のように「話す」という行為は、
「伝わった」という感覚になりやすいんですよね。

正確に言えば
「十分に伝えたぞ!」という感覚になるということですが、
「伝えた」ことと「伝わった」ことは必ずしも一致しないため、
伝えたつもりでも、相手に伝わっていないということが
よく起こります。

ですが、興味深いことに、
聞き手も「わかった」という感覚になりやすい。

そのため、
お互いにすれ違いが起こっていることに気づかない、
ということが起こりえます。


ですが、文章であれば、そもそも
「どんなに尽くしても伝わらない」
という感覚があったりします。

…ありますよね?

いくらでも改善できるのため、
「完璧に伝えよう」と思って改善し続けていたら、
いくら時間があっても足りません。

だからある程度のところで完成させて、
フィードバックをもらって、
どう受け取られたかを確認して、
次回以降に改善する、みたいな。


文章だと
「どんなに尽くしても伝わらない」
と思っているからこそ、
「どう伝わったのか」を探って改善することができます。

ですが、
音声や動画だとなかなかそうはいきません。

伝え手が
「伝わっていないかもしれない」
と感じていても、

動画や音声は
「理解した」と感じやすいため、
聞き手との認識のズレが生じることがあるからです。

どういうことかというと、
「どう伝わったのか」を探っても、
動画や音声の内容をそのまま伝えられるだけ。

ですが、実は
本質的なところの認識がズレてしまっている危険性があるのです。


なので、僕の場合は、
声で伝えるのであれば、動画や音声とかではなく、
できる限り、「対話したい」と思ってしまうんですよね。

以前の記事で
「相談に乗るのが好き」だと書きましたが、
相談は文章でのやり取りよりも
対話の方がやりやすいです。

なぜなら、文章でのやり取りだと
「相手の意図」が読み取りづらいからです。

相手は文章を書き慣れていないかもしれませんし、
文章を書き慣れていたとしても、
背景などを書こうと思ったら膨大な量になってしまいます。

それを考えると、相談は
断然対話の方が楽なのです。

また、対話であれば、
「これってこういうことですよね?」
とすぐに確認できるので、
スムーズにやり取りができるんですよね。

だから、相談は文章よりも
対話で受けることの方が多いです。


このように考えると、

「文章の魅力はこちらから(一方的に)伝える場合」


であり、

「双方向の場合は文章ではなく、対話(通話)」


ということになるんだろうな、と。

動画や音声は
一方的に伝えるとなると、
認識のズレによる誤解が生まれやすいですから。


そう考えると、
「なぜ、私は書くのか」という問いに対する答えは、

「こちらから何かを(一方的)に伝えるときに、
できるだけ認識のズレ(誤解)がないようにするため」


となるでしょうか。


さらに、

「文章を書き続けることで、
表現のバリエーションや語彙力が増す。
それにより、対話能力の向上にも繋がるため」


とも言えるかなと。

僕が文章を書いていることは
「相談に乗るための訓練方法」とも
言えるかもしれません。

文章を書き続けるよりも、
相談に乗り続けたいと思ってしまいますから。


これまで書いてきた記事を含めて
「なぜ、私は書くのか」という問いを考えてみると、

「自己表現と他者貢献を通して、
言葉の可能性を追求し、
世界により良い影響を与えられるような存在になるため」


と言えるのではないかと。

これが今回の記事を合わせて4記事にわたって
つらつらと書いてきた「僕が文章を書く理由」の結論となりました。

とはいえ、
「なぜ、私は書くのか」という問いは
今後も自分自身に問い続けていきたいですね。


それでは、最後までお読みいただき、
ありがとうございました!

あなたが文章を書く理由は何でしょうか?

藤原華さんの企画は8/5までなので、
ぜひこの機会に
「文章を書く理由」と向き合ってみませんか?

藤原華さんの企画のおかげで、
「文章を書く理由」と向き合うことができました。

ありがとうございました!


【第1話】億劫だったはずの文章作成に魅了され、夢中になって書くようになった理由
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