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わたしが文章を書く理由


ふだんのわたしを知っている人はみんなわかると思うけれど、わたしはほんとうに口下手だ。

口下手といっても、喋らないわけではない。

むしろ、比較的よく喋るほうなのかもしれない。子供っぽいといわれるくらい、感情表現はうるさいほうだ。

それなのに、口下手だ。


ここでいう口下手というのは、ただ会話を「繋ぐ」ことではなく、会話によって「伝える」ことが苦手だということなのだ。




これには、ざっくりとふたつの理由がある。



ひとつは、自分の心をきちんと言葉にするのに時間がかかるせい。

会話というのは常に、時間との戦いで。
テンポやリズムを優先すると、どうしてもわかりやすい感情の表現を優先しがち。

喜んでいること、悲しんでいること、悩んでいること、好きだということ。それを瞬時に、テンポ良く相手に伝えることを優先するとどうしても、語彙の範囲は狭くなる。

そして「相手が居る」ことによって、わたしの言葉で相手の時間を失わせているような錯覚、奪ってしまっているような気持ちになったりするのだ。

と同時に、もしかしたら、自分の心を開示することで他人から簡単に土足で踏み込まれるのを拒絶している自分もいるのだろう。



もうひとつの理由は(ひとつめと繋がっているけれど)常に、相手の顔色と反応を伺ってものを話す癖がある。

相手の機嫌を損ねないように、欲しい言葉を探す。わたしにどんな答えを求めているのか。何を話すべきか。どんな風に話したら相手が気持ちよく接してくれるのか。

そんなことを、必要以上に気にしてしまう。
(もちろん、そんなこと考えずに話せる人も稀に居るし、だんだんその癖も薄まってきてる気はする)


ただ、そうなればもちろん、相手はわたしのことを全く知れなくなる。



それはわかっていた。


わかっていたけれど、伝えられなかった。

だからこそ、当たり前だけど、やっぱり。
伝わらないことで悩んできた。

それは、とても幼い頃からすでに始まっていた。

悩みを持ったまま、それでも身体の成長は止まってくれない。それはわたしだけでなく、周りも同じように成長する。


悩んだ結果、他人を観察して、学んで、対策を考えた。工夫をしようとした。

喋りのうまい人を見て、どうしたら会話が楽しくなるのか。それにはどうやら、会話のテンポや感情表現の方法に秘密があるようだった。

はじめは真似をした。真似が染み付いて慣れてきたら、だんだんそれが自分のキャラクターとなった。

そうすることで、他人とそれなりに楽しく、その場がある程度盛り上がる会話をすることは比較的短時間でできるようになった気はする。


それなのに。

なぜか。

だからこそなのか。


自分のことが伝わった気はちっともしなかった。

イメージは作れても、心の中に潜むものはひとつも表に出せなかった。
それは常に孤独が付き纏うものだった。


過ぎた時間を振り返っても、わたしは一体何がしたかったのかわからない、ということが増えた。

わたしはなんのためにここに居るのだろうか。
相手にとってわたしは一体なんなのか。

わたしは誰なのか。

わからなくなった。


それでも、他人に存在を忘れられるよりはマシだと、なんとかキャラクターの強さを作り出して記憶に残ってもらおうと必死になった。

その習慣が染み付いた。今ではそういう自分もひとりの自分として、慣れ親しいものとして、わたしの一部となっている。


でも。

だとしたら。

もうひとりの自分は。

取り残された方の自分は。


そっちの自分の表現方法は?


それが、文章を書くことだった。


はじめは、母親から渡された一冊のノートと、山田かまちの本たった。

思ったこと、日記でもいい。絵でもいい。なんでもいいから、この秘密のノートに書くように言われた。今でいうツイッターのような役割を果たすものだった。


それは、わたしの長い長い闘病生活の始まりの合図だった。その頃、わたしの身体は死に向かう病に侵されていた。

そんなわたしの身にこれから待ち受ける苦難をまっさきに見越した母が、対策を練ってくれたのだった。



はじめは淡々とした日記だったけれど、だんだん、その秘密のノートにはありのままの心を写せるようになった。

心の言葉が驚くほど湧いて、オモテに出せた。


どうしようもない感情をノートにぶつける日もあるし、書いてみて、自分の心を知ることもあった。
これは、他人に感情をぶつけないで済むのに非常に役に立った。


そのうち、山田かまちの本を読んだことから、なんとなく詩のようなものを意識して書くようになった。

耐え難い苦しみも、抑えられない怒りも、とめどもない悲しみも、詩にしようとすると、美しさを同居させることを意識できた。それがよかった。


負の感情だけに身を任せて書いていたら、のちのちのわたし自身に呪いがかかっていたかもしれない。

言霊というものを、信じたきっかけだった。

この経験もだんだんと習慣となり、今ではやはり、わたしに溶けて切り離せない一部となっている。


書いたあとは、心を洗い流せたような、充実した気持ちになれる。

溜まりに溜まった洗濯物を洗って、温かい太陽の元で干せたような。そんな気持ちになる。



SNSの普及によって、そういったものや自分の考えていることを文章で伝えられる機会が増えた。そうすると身近な人や、思いがけない人が反応をくれた。

共感してくれた。理解をしてくれた。

自分のことが伝わった気がした。

どうしようもない孤独が、解消されていくような気がした。


文章を書くことが、自分の伝え方だったということに気付いた。

うまいかどうかなんてことはわからないけれど。それでも、わたしにとって心地よく、わたしの中での真実に限りなく近い表現方法だった。


今では、ものがたりを描くようになった。


ものがたりはわたしの心の鏡でありながら、同時に他人の心と、世界の心を読むことも意識する。


それが正しく表現されているかはわからない。
あくまで、わたしの心で受け取った世界の姿だからだ。
誰かにとっても同じかもしれないし、まったく違うかもしれない。



それでも、わたしの書くものがたりが好きだと言ってくれる人が居るのはほんとうに嬉しいし、ありがたいことだ。

これに関しては、意識したことが伝わったら素直に嬉しいし、意図したように伝わっていなくても嬉しいのだ。

自分の想像と違う角度から来る視点も、作品が更新、拡張されていく気がする。


このブログにオチはない。最近忙しくて文章を書く時間が持てなかったこともあり、ただただ、思っていることをつらつらと書きたかったのだ。

わたしはやっぱり「書くのが好き」だということを、改めて噛み締めたい日がある。

お喋りが好きな人と同じくらい自然なものとして、文章を書くことで心地よさと癒しと解放を感じている。


オチないけれど、代わりに、ものがたりの試し読みを載せておく。サン=テグジュペリの「星の王子さま」のオマージュ作品。



そして、来月このものがたりを上演します。

役者によって、美術スタッフによって、ものがたりの世界が具現化する。その瞬間に居合わせてくれるひとがいたら、共にその世界を彷徨ってくれるひとがいたら、この上ない幸せです。

〈 バラと飛行船 〉
演劇企画ニガヨモギ 

2022年6月9日(木)〜12日(日)
東日暮里•元映画館にて

〈バラと飛行船〉公式サイト▼




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