憧れの場所はいくつもある。 ひとつ選ぶなら、今回は。 「九龍城砦」 憧れの場所。 そして、もうこの世界に存在しない場所。 写真集が出ていたり、作品のモチーフにされる事はあるけれど、行ってみたいかそうでないかに関わらず、もう訪れることができない。 訪れることのできないその場所は、ゲームや絵画の中の世界のように、魅力的に映る。 あるゲームの中で何気なく描かれていた、床に散らばる潰れた炭酸飲料の空き缶、吸い殻で山盛りの灰皿。 解像度が高いとは言えない画面の中の、何気
2月の脱輪さん「お茶代」のテーマ 『服やファッションとあなたとの付き合い方』 ぬぬぬ…… 小生、「服が好き」「ファッションが好き」と言い切ってしまっていいのかわからない。 例えば、そのブランドの理念をしっかり理解して、確固たる「このブランドが好き」という主張を持っているわけではない。 たまたまそのブランドの新しい服を見た時に「かっこいい……!」と気持ちが晴れやかになる、何でもないようなことだけれど、その時目にした「自分が心からいいなと思うもの」になんだかちょっと救わ
彼女は「パンパンッ」と柏手を打つように手を叩き、こう言った。 「はい、この話はもうおしまいっ」 そう言いながら、目の前に座った彼女はにこにこと微笑んだ。 その直前まで、彼女の話を聞き、最近自分の身の周りに起こった出来事と彼女の話を照らし合わせながら、頭の中で色々な考えを組み立てていた。 小学生の頃、理科の実験で使った小さいモーターのように頭は回る。 キュイーーーンと音を立てながらすごい速さで回っている。 正しい答えに向かっているのかも、何か突破口のようなものを掴も
20時過ぎに、ふと目を覚ました。 寝ぼけた頭では、今が何時で、どうして眠っていたのかも分からなくなっていた。 そういえば牛乳が切れていたなぁ。 近所のスーパーは21時に閉まる。 そんな事をぼんやりと思いながら、重たい体を起こした。 仕事から帰宅し、すぐにタンクトップと短パンのみの完全に寝るだけの格好になっていたので、そのままTシャツだけかぶり、財布とスマホと鍵だけ持ち、寝ぼけた頭のままスーパーへ向かった。 クーラーを入れているためひんやりとしている自室とは対照的に
ベランダから見える景色が、結構好きだ。 よく猫がのんびりと、そして軽やかに屋根の上を散歩しているのが見える。 深夜にたまに行くだけなのに、いつも買う銘柄を覚えてくれている店員さんがいるコンビニ。 ピクニックに行くような気分で、昼食のサンドイッチを買うパン屋。 とんでもなく安い価格で、いつもお気に入りの髪型に仕上げてくれる美容室。 ……の人は、いつか「髪型って芸術品を作るみたいで、楽しいですよ」と、はつらつと教えてくれた。 「我が生命線!」と言っても過言ではない、通
感情が死んでいくとか 感性が死んでいくとか 正座していていつから足が痺れ始めたのかはっきり分からない あの感じに似ているなと思った。 歌詞を書き始めたとき、 歌詞にもならないような短い文章が浮かんだとき、 それを必死に書きためていたとき、 大きいバスターソードか何かを持ったような 自分だけの花園を持ったような そんな気持ちになったけれど、 いつまでこの剣で素振りを続けるのだろうと思ったことが あるような、ないような。 言葉にもならないようなことは そこら中に転がって
夜中にひとりでふと、誰かに全てを吐き出してしまいたい衝動に駆られる事はないだろうか。 小生は、ある。 無い人は無いのかもしれない。 その時の状況や環境もあるだろうし、人によっての性質の違いによっての有無は大いにあると思う。 小生自身の話に戻る。 そういった時は、親しい人の顔が順番に頭の中を駆け抜けていくのだけれど、きっとその人たちを目の前にした時、「いつも通りの自分」に戻ってしまって、結局何を言うこともなく穏やかな時間を過ごすのであろうというところまで一セットで考え
「おあとがよろしいようで。では、また。」 の言葉を締めの言葉とするようになったのは、最初から意図していたわけではない。 けれど、「この話の着地点が少しでもかろやかな気持ちで終われますように。」「少なくとも、自分にとって重たいテーマの時に重いままで終わりませんように。」というような願いも込めている。 本当に後付けかもしれないけれど、書きながら意識するようにしている。 いつかそれが、重たいまま終わらせたい話だとか、ちょっとおどけるのが嫌になったとき、枷になるのだろうか?と
自分の頭の中で「これが完成形!」と、完結しているつもりの考えが、実際に文字に書き起こすと(「手書き」でも「機械の媒体」でも方法は問わず)全然違う方向に飛んでいくことがある。 なんなら、よくある。 そんなことばっかりだ。 今回もそう。 こんばんは。 「書き起こす手法の違い」について考える。 「機械の媒体」で書いていて思うのは、「文章の差し込みや入れ替えがとても楽」だということ。 「手書き」で思うのは、いや、手書きというより「紙の媒体」で思うのは、これは人によるのか
金木犀の匂いに強く結び付いていた記憶があったはずなのだけれど、いつの間にか気にならなくなった。 忘れてしまった。忘れてしまっていた。 小生が書くことが見当たらない時、思い出したくないこと、自分でも気付かないうちに「思い出さないように」していること、それは時として、紙一重なのかもしれないと思った。 何でもないようなことからふと、記憶が蘇ることは、ままある。 「匂い」「音楽」は、小生の中で特に記憶に結びつくことが多い。 人間はそもそも、そういうつくりなのかしらん。 そ
「何かを書きたい」という気持ちが、「何かを書かなくては」に変わる時。 それでも何も浮かばないとき。 新しい日記を買ったときのわくわくとした高揚感と、三日坊主になってしまった時の、誰に対するわけでも、見せるわけでもないのに、申し訳なさを持ってしまうあの感覚。 別に誰に求められる訳でもないのに、宿題を先延ばしにしているような、よくわからない気持ちになる。 宿題といえば、「読書感想文」は苦手だった。 自分の書きたいことを書いてもいいよ、というより、「正解とされるもの」がな
こんばんは。 小生の周りには映画の好きな友人がいるので、「映画館」という場所についてを書こうと思う。 深い意味はない。テーマは思いつきだ。 「映画館」は、小生にとって「非日常」である。 こどもの頃は、数えるほどしか行ったことのない場所だったけれど、友達とイオンモールに買い物に行くという特別なイベントの時にだけ足を運ぶ場所だった。 こどもの頃、イオンも県内にひとつしかない場所で(地元を離れて随分経つ今でもそう)、特別な時にしか出掛けない場所だった。 夏休みに行った訳
ゲームの話ではない。 先に述べておくけれど、ゲームのタイトルの話ではない。 マーケティングにおいて、具体性を持たせて仮定された人物像のことを指すこともあるようだけれど、その話でもない。 このゲームタイトルを愛する友人たちに、勉強熱心なあなたに、誤解がないよう先に述べておく。 それと思って辿り着いてしまったのなら、申し訳ない。 ーーーーーーーーーーーーーーー 「あなたはこういう人ですね」 と、人に言われることがある。 誰しもあるのではないだろうか。 その内容に
お祭りの後のさみしさを、そのままで受け取れなくなったのはいつからだろう。 家族とからっぽの家に帰り着いて、電気をつけた瞬間のあの白々しさ。 帰り道にご機嫌で振り回していたヨーヨーが、数日後に小さくなっている、あの物悲しさ。 同じようなさみしさを覚えた時でも、大人になってからは、その翌日の仕事のことだとか、日常や生活のことを考えたりだとか、些細な未来の話でごまかしてしまうようになった。 こどもの頃はあのさみしさとさえ、正面から向き合っていたような気がする。 うまくいな
思い出すのはだいたい、夏の日ばかりだ。 背伸びをして窓から見える高速道路の壁、等間隔に並ぶ街頭、遠くに聞こえる車の音。 窓の下は砂壁になっていて、触ると少しぱらぱらと落ちてくる。 灰色の中に赤や銀色の粒が混ざっている。 子供の頃の目線、その高さでしか記憶の中にはない。 小生の生まれた家。 学校が長い休みに入る、夏休みの間にだけ戻ってくる、おじいちゃんの家。 たまに懐かしくなって、部屋の中を思い出す。 住んでいたのは母方の祖父母と、たまに伯父や叔父。 「その夏
こんばんは。 このnoteの下書きを見返していたら、2019/6/21の日付で止まったままの書きかけの文章が出てきた。 せっかくなので、タイムカプセルを開けるような気持ちでそのまま載せてみることにする。 しかし、まったく記憶にない。 以下、そのまま掲載することにする。 ーーーーーーーーーーーーーーー 存在していてもいいよと言われたかったのかもしれない。それは他者に求めることではない事も知っている。 それでも。 救われたいという気持ちが湧き上がるのは、いつだって