キンモクセイ
金木犀の匂いに強く結び付いていた記憶があったはずなのだけれど、いつの間にか気にならなくなった。
忘れてしまった。忘れてしまっていた。
小生が書くことが見当たらない時、思い出したくないこと、自分でも気付かないうちに「思い出さないように」していること、それは時として、紙一重なのかもしれないと思った。
何でもないようなことからふと、記憶が蘇ることは、ままある。
「匂い」「音楽」は、小生の中で特に記憶に結びつくことが多い。
人間はそもそも、そういうつくりなのかしらん。
そのあたりの話には明るくないので、割愛する。
「今を生きる」ということ、それがポジティブに響くのか、ネガティブに響くのかは本当に人それぞれだと思う。
「過去」
過去の積み重ね、過去は変えられない、過去に縛られない、「今を生きる」。
「過去」「今を生きる」という言葉から思い浮かんだことの羅列。
上記の羅列は、このnoteを書くにあたっての、いま小生の中にめぐった記憶の整理の一部なので、誰かに向けた深い意味やメッセージはない。悪しからず。
人にたれる講釈は持ち合わせていないし、いつだって「小生はこうである」という提示しかできない。重ねて、悪しからず。
その時々「今」の選択をするのは、いつだって自分だ。
結果や、起こる物事や、自分ではどうにもできない事はもちろんあるけれど。
何かを選ぶということは、同時に、選ばなかったことを「選ばない」ということを選んでいる。
最近、そんなことを思っていた。
「懐かしい人に会う夢」を見たので、「金木犀の季節によく思い出していた記憶」の事を思い出していたのだけれど、
金木犀の花が、じつは毎年違うように、変わった出来事があった年の秋でも、特に何も変わらないように感じる例年の秋だとしても、記憶は蓄積されていく。
特別なことも、他愛のないことも、まぜこぜに。
思い出せなくなる、いや、思い出さなくなる記憶もあるのだと思う。
「10年前によく思い出していた記憶」があったとして、「今」はその10年後にあたるわけだから、少なくともその「10年分」の金木犀が自分の中を通り過ぎている。
「金木犀」の記憶が、蓄積されている。
そういえば、10年と少し前に、金木犀の匂いで思い出していた記憶は、学生の時分の、失恋の記憶だった。
はて、小生は今更になって、どうして我が身を切り裂くような思いをしながら、このnoteを書いているのか。
はたまた、思い出したからこのnoteを書いているのか。
この記憶がめぐった意味はあるのか。
重ねた十数年の記憶で、再び封印するとしよう。
ここに書いてしまえるくらい、消化しているできごとである。なんということはない。
そうとさせてください。
おあとがよろしいようで。では、また。
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