風船

こんばんは。

このnoteの下書きを見返していたら、2019/6/21の日付で止まったままの書きかけの文章が出てきた。

せっかくなので、タイムカプセルを開けるような気持ちでそのまま載せてみることにする。

しかし、まったく記憶にない。

以下、そのまま掲載することにする。

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存在していてもいいよと言われたかったのかもしれない。それは他者に求めることではない事も知っている。

それでも。

救われたいという気持ちが湧き上がるのは、いつだって自分の中からだ。

自分自身の在り方は、自分でどうにかしないと、他者に何かで埋めてもらうことを求めたって埋まらない。

穴のあいた風船みたいなもんだよなと思う。

穴があいたままでは、受け取ったその瞬間は、あたたかいとかやさしいとか感じる心はあるのだけれど、もらっても、汲んでも、取りこぼしてしまう。

ふと、「人から空気をもらう」という形容が浮かんでいたのだけれど、あいた穴を塞いでくれたのが、誰かからもらったものであるということは、あったよな。

多分、あったはずだ。

空気。

自分のこころや、人からもらったやさしさ。

穴があいていたら、もらったやさしさも、取りこぼしたように、消えてしまうように感じてしまう。

でも、取りこぼしたように思うものでさえ、いつかふと思い出して、自分の中に何かあたたかいものが残っているのだとしたら、それは別に取りこぼしていないのだと思う。

うまく言えないけれど。

今がどうであるという事が全てではなくて、思い出とか、今までもらったものに作られているというか、救われていうというか、そういった瞬間や感覚はある。

いなくなった人がくれたものが、その人がいなくなったら消えるというものでもないという事を知っている。

ゴム製のあの風船の空気は誰にだって入れられるけれど、風船を「自分自身の心」とするなら、空気は自分で入れるしかない。

ああ、だから呼吸しているのか。

新しい空気で満たすために、吸って吐くんだ。

生きるのに必要な、普段意識もしないようなことだけれど、そんなところで体と心は繋がっているのだなと、思い至った。

人からもらったやさしさとかそういうものは、空気になり得るし、それが穴を塞いでくれることもあるけれど、そうできるのも自分の心や在り方ありきだ。

心はゴム製じゃないから、脆くもあるのだけれど、穴があいても埋めようがある。

揺れることも、惑うことも、投げ出したくなることもあるけれど、めぐりめぐって辿り着くところ。

しなやかでいたい。

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と、風船というキーワードひとつで、かくも転がる思考である。

辿り着いたところが柔らかい場所でよかったと思ったのは、きっと、文章を書きながら、思考を取りまとめながら、自分の穴を塞ぐ作業をしているからだ。

おあとがよろしいようで。では、また。

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以上まで、ーーーで区切った部分が、下書きに残ったままのnoteであった。

やはり、記憶にない。

どの文章でもそうだけれど、書き出すたびに読み返さない限りほとんど忘れている。

いい加減なもので。

自分の書いた文章であるはずなのに、もはやそれは誰かの文章でもあるような気持ちになりながら読んでいる。

とりとめない思考のように思えても、形を与えることでこんな風に着地するとは。

やっぱり面白いなぁ。

過去の自分と現時点の自分を邂逅させてみたのであった。

まだ下書きはいくつかはあるので、気が向いたらまたやってみようかと思う。

おあとがよろしいようで。今度こそ、では、また。





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