ショートケーキを投げる

自分の頭の中で「これが完成形!」と、完結しているつもりの考えが、実際に文字に書き起こすと(「手書き」でも「機械の媒体」でも方法は問わず)全然違う方向に飛んでいくことがある。

なんなら、よくある。

そんなことばっかりだ。

今回もそう。

こんばんは。

「書き起こす手法の違い」について考える。

「機械の媒体」で書いていて思うのは、「文章の差し込みや入れ替えがとても楽」だということ。

「手書き」で思うのは、いや、手書きというより「紙の媒体」で思うのは、これは人によるのかもしれないけれど「なぜか目を通した時に内容が入ってきやすい、間違いを見つけやすい」ということ。

上記の「紙の媒体」の話に関しては「書く」というより、「読む」が主体の考え方かもしれないけれど、

「書く」ということは、特にこういった「誰かの目に触れる場所に、改めて書き残しておくもの」である場合、小生の場合は「書く」と同時に「読み返す」ものなので、挙げておく。

どちらの良し悪しの話は、今回は興味がないので割愛する。

おおよそのものは、一長一短だと思っている。

書き出しながら気付くことはたくさんある。

「Twitterとはそもそも書くときの考え方が全く違う。」

「ケーキ」を題として考えてみる。

最初は「ショートケーキ」を題にしようかと思ったけれど、冒頭に書いたように「全然違う方向にとんで」いってしまう。

noteでは、一応は「ケーキ」を作ろうとする。その時ある材料で適当に取り掛かってしまうので、「何ケーキ」になるのかは、仕上がってみないと分からない。だから完成してみないことには「ショートケーキ」かどうかが分からない。

Twitterでは、イチゴはイチゴで食べ、生クリームは生クリームでなめ、スポンジはスポンジでかぶりついている。「ケーキ」を作るという気持ちがそもそもない。たまたま「ケーキ」を食べることもあるかもしれない。

そんな感覚だ。

題は「ケーキ」であって、noteには「作り方」がしっくりくるのに、Twitterには「食べる方」がしっくりくる。

不思議である。

そして、なぜケーキの話になっているのか、さっぱり分からない。

小生は自分自身によく置いてけぼりにされる。

そして面倒になって考えることを投げ出す。

「思考」は勝手にあらぬ方向へ「飛んでいく」し、当の本人はその「思考」を「投げ出す」のである。

ひとり相撲ならぬ、ひとり投球である。

そんなことより、今、ショートケーキが食べたいのである。

おあとがよろしいようで。では、また。



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