おあとがよろしいようで。

「おあとがよろしいようで。では、また。」

の言葉を締めの言葉とするようになったのは、最初から意図していたわけではない。

けれど、「この話の着地点が少しでもかろやかな気持ちで終われますように。」「少なくとも、自分にとって重たいテーマの時に重いままで終わりませんように。」というような願いも込めている。

本当に後付けかもしれないけれど、書きながら意識するようにしている。

いつかそれが、重たいまま終わらせたい話だとか、ちょっとおどけるのが嫌になったとき、枷になるのだろうか?と、ふと思った。

ただ、書き出している時点で、ある程度自分の中で区切りをつけられている話ではある、もしくは書きながら区切りをつけてるので、おおよそ邪魔になるようなことはないと思う。

どれだけ自分の中では大問題で、悲劇的な問題だったとしても、「遠くから見ると喜劇」という言葉はあながち間違っていないと思う。

ケースバイケースではあるけれど。

noteは、自分を俯瞰で見るのに一役買ってくれていると思う。

「もしかしたら日常を喜劇にするためにnoteをしているのかもしれない」などと一瞬合点しそうになったけれど、小生は途中でなんとなく拾ったものを「最初から持っていましたよ!!!」といわんばかりに握りしめてしまう節があるよな、と思った。

今書きながら思っているのは、何かのテーマがあるわけではない、このつらつらと書いているだけの文章は、どこに需要があるのだろう。

それでも、あげるたびに目を通してくれている人がいて、なおかつ反応してくれたり、なんなら「note見たよ」と声を掛けてくれる人もいる。

なんとありがたい話だろうかと思っている。

ただ、声を掛けてくれる人というのは、大分親交のある友人なので嬉しい反面、滅茶苦茶に恥ずかしい。

これもまた、小生の一部ということにして多目に見てください。なにとぞ。

noteとは「書き物」と考えて最近付き合っていたので、今回は「独白」に近い形で接してみた。

書き方が変わっても、考え方が変わっても、思考がとんでいっても、この相棒がいるから文章がちゃんと「終わって」くれる。

いつも、ありがとう。

ありがとうを、締めを支えてくれている、君にも捧ぐ。

「おあとがよろしいようで。それでは、また。」


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