思い出す風景
思い出すのはだいたい、夏の日ばかりだ。
背伸びをして窓から見える高速道路の壁、等間隔に並ぶ街頭、遠くに聞こえる車の音。
窓の下は砂壁になっていて、触ると少しぱらぱらと落ちてくる。
灰色の中に赤や銀色の粒が混ざっている。
子供の頃の目線、その高さでしか記憶の中にはない。
小生の生まれた家。
学校が長い休みに入る、夏休みの間にだけ戻ってくる、おじいちゃんの家。
たまに懐かしくなって、部屋の中を思い出す。
住んでいたのは母方の祖父母と、たまに伯父や叔父。
「その夏」によって住んでいる人、家具の配置は変わる。
伯父や叔父は仕事がどこなのかによって、その夏にいたり、いなかったりする。
小生らが帰ると、いつもよりまめに顔を出してくれていたけれど。
いつも変わらずにそこにいるのは祖父母だけである。
その時の記憶を辿ろうとしてみても、小学生の間までの記憶ということもあり、ところどころ曖昧だ。
反対に、階段から1階が覗ける除き穴、トイレに貼ってあったチューリップのシール、おじいちゃんが踏んでいたミシンの糸巻きの三角錐の形、古い形のエアコン、ミシンの近くにあったファミコン。
最近の事のように思い出せる記憶もある。
夏休みの度に自分の背の高さにつけた柱の傷、蚊取り線香の燃えたあとの灰をこっそり指で潰したあの日、ご飯の後に流れているバラエティ番組、四角い電気の傘、玄関のレンガの色。
思い出そうとしても思い出せないものがある。
その時それぞれの、皆の顔だ。
小生の弟、親、おじ、祖母、一緒に年を重ねて来た皆は、いくら思い出そうとしても、もう今の皆の顔が思い浮かぶ。
ただ一人を除いて。
おじいちゃん。
夏の記憶と一緒に、時の止まった記憶と一緒に、おじいちゃんの様子だけが、その家と一緒に思い出せる。
ポロシャツにグレーのスーツのズボン、風呂上がりの綿の肌着、眼鏡をかけてミシンを踏む姿とその音、ご飯の後に必ずしていたファミコン、思い出すおじいちゃんの顔は少し微笑んでいる。
中学一年生の夏からおじいちゃんとの記憶はない。
叔父の寝室だった2階の一角には、おじいちゃんのお仏壇が置かれた。
初盆に飾られた提灯の、お祭りみたいな水色ははっきりと覚えている。
初孫だった小生は、本当に可愛がってもらった。
ときどき、あの家を思い出す。
記憶の中の夏休みは、いつだってあの場所にある。
たまには、そんな事を思い出してもいいかなと思う。
夏が来ると、思い出す記憶。
あの夏の思い出は、いつでも輝いている。
おあとがよろしいようで。では、また。
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