とぅるーすりーぱー

夜中にひとりでふと、誰かに全てを吐き出してしまいたい衝動に駆られる事はないだろうか。

小生は、ある。

無い人は無いのかもしれない。

その時の状況や環境もあるだろうし、人によっての性質の違いによっての有無は大いにあると思う。

小生自身の話に戻る。

そういった時は、親しい人の顔が順番に頭の中を駆け抜けていくのだけれど、きっとその人たちを目の前にした時、「いつも通りの自分」に戻ってしまって、結局何を言うこともなく穏やかな時間を過ごすのであろうというところまで一セットで考える。

実際に、きっとそうだ。

一過性のもので、年を取るごとにそういったものはなくなると思っていたのに。

10年くらい前にも、そういうことをぽつりとつぶやいたことがある。

話を聞こうかと持ちかけてくれた知人に「ただもやもやするだけ」「寝たらなおるようなものなので」と、やはり調子を合わせてしまった。

その時に一歩踏み込んでいれば、何かが変わったのだろうか。

自分の心の中をさらけ出すということは、実は「弱みを握らせる」ことではなくて「信頼関係を築くこと」への近道であったりすることも、なんとなく理解しているつもりだけれど。

分かっていないのかもしれない。

そして、年を重ねれば上手になることばかりというわけではない。

ただ、「寝たらなおるようなものなので」というのは、あながち嘘でもない。

実際、「寝る」ということの行為が持つ力はすごい。

寝ることで、情報の取捨選択や整理をしているという人間の仕組みも面白いと思う。

ただ、朝とは未だに仲良くなれない。

シンプルに「眠たい」という状態からくること。自分が必要とする睡眠時間がおそらく、推奨される睡眠時間よりも多いこと。目が覚めて、気持ちの良い朝だと感じて動くということが今までにあまりないこと。

朝の時間の気持ちよさ、体の楽さは知っているけれど。

なんとなく、朝を白々しいと思ってしまうこと。

こんなにも、清々しい朝の時間帯のことを目の敵のように思うことに、いささか申し訳無さを感じないでもない。

けれど、なぜか朝は、むしろ朝というより目が覚めた瞬間は、鬱屈としてしまう。

起きなければいけない時間が「朝」であることが多いから好きになれないだけで、「目が覚めた瞬間」のあの、頭と体が一致しないような瞬間が好きではないのかもしれない。

深夜起こる衝動の話から、朝への八つ当たり。

もうすでに転がり始めている思考。

「書き出すことで区切りをつける。」

「思考を追いかけているうちに、自分の中でほとぼりがさめるのを利用して感情をいなす。」

これが小生の常套手段だ。

これを読んでくれたあなたは、この小生の常套手段のサイクルに巻き込まれています。 

もはや事故である。 

巻き込み事故である。申し訳ない。

これを書いている瞬間は「小生にとっての今」だけれど、あなたの目に届く頃には「小生にとっては過去」になっている。

よく、物語の中で「この手紙を読む頃には私はもうこの世にはいないでしょう」というような話がでてくるけれど。

今実際にやってみたら、読み手は「過去」と認識して読みすすめるし、書き手は「今」としてしか書きすすめられないし、この時間の「ずれ」は面白いなと思った。

状況としては「空は青」「林檎は赤」のように「何を今更」というような事実なのだけれど、実際にやってみないと、「認識した上で」やってみないと体感できなかったことである。

いや、ここでふと思い至った。

自分が読み手だった時、「過去」と明確に認識しているか?

読んでいる瞬間を「今」だと錯覚していないだろうか。

確かに「読み手の今」に間違いはない。

読んでいる瞬間を「書き手の今」と錯覚していないだろうか。

この認識のズレは、たびたび起こっているのではないだろうか?

だから、もう亡くなっている文豪の小説を読んだ時、なんだかタイムスリップしてしまったような気持ちになる。

歴史小説の「最後は死ぬ」という結末を、「ネタバレ」だと錯覚してしまうのもそういうものなのだろうか。

そんな事を、書きながら考えている。

「今」小生のそばにまだ転がっている「深夜の吐き出したくなる衝動」を横目にしながら、これを書いている。

早く寝ろということかもしれない。

寝ることにしよう。

寝たらなおるようなものなので。

おあとがよろしいようで。では、また。

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