お祭りのあと。

お祭りの後のさみしさを、そのままで受け取れなくなったのはいつからだろう。

家族とからっぽの家に帰り着いて、電気をつけた瞬間のあの白々しさ。

帰り道にご機嫌で振り回していたヨーヨーが、数日後に小さくなっている、あの物悲しさ。

同じようなさみしさを覚えた時でも、大人になってからは、その翌日の仕事のことだとか、日常や生活のことを考えたりだとか、些細な未来の話でごまかしてしまうようになった。

こどもの頃はあのさみしさとさえ、正面から向き合っていたような気がする。

うまくいなす方法を覚えるということは、その時の感情さえ奪ってしまうのかもしれない。

大人になってしまってからは、あのヨーヨーがしぼんでしまうことも覚えてしまって、買うこともほとんどなくなってしまった。

けれど、こどもの頃でさえ、この瞬間はずっと続かないという物悲しさは知っていたはず。

それでも、それよりも、目の前の出来事に夢中になってしまうあの感覚は、多分まだどこかで寝ている。寝ているだけだろう。

なくなっていないと、信じていたいのだ。

水たまりを見つけて、その表面に手を置いてぴちゃぴちゃとその表面張力で遊んだこと、ハンカチに泥水を含ませて「コーヒー牛乳」を作った後、びしゃびしゃで汚いハンカチを家に持って帰って、しこたま怒られたこと。

水たまりを横目に、避けて歩くようになった今、水たまりに足をつっこんだりするとついてないなと思うけれど。

おもしろがって水たまりを歩いてみたら、なんだかそんなあの日のことを思い出して、やはりおもしろかったし、なぜか少しかなしくなった。

家に帰ってみると、靴の中まで浸水しており、少し後悔した。

それでも、なぜか悪くはなかった。 

いや、靴が臭くなるのは困る。大変困る。

水たまりひとつ、同じ出来事でもきっと、その時の自分の気持ちによって感じ方は変わってしまう。

このnoteに至っては、書き出しと着地点がまるで変わってしまう。

意図していない。

なぜか今ここにいる。

先程まで思い出していたはずの、お祭りの後の風景でさえ、気づけば遠ざかっている。

未来に目を向けるのは、過ぎ去っていく風景に取り残されないようにするための、大人になった自分のおまじないなのかもしれない。

そういう事にしておこう。

楽しいときは、楽しむよ。

そういう事にしよう。

これは、今の自分へのおまじないとする。

その瞬間を、楽しむよ。

おあとがよろしいようで。では、また。





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