文章と流星群
「何かを書きたい」という気持ちが、「何かを書かなくては」に変わる時。
それでも何も浮かばないとき。
新しい日記を買ったときのわくわくとした高揚感と、三日坊主になってしまった時の、誰に対するわけでも、見せるわけでもないのに、申し訳なさを持ってしまうあの感覚。
別に誰に求められる訳でもないのに、宿題を先延ばしにしているような、よくわからない気持ちになる。
宿題といえば、「読書感想文」は苦手だった。
自分の書きたいことを書いてもいいよ、というより、「正解とされるもの」がなんとなく用意されているような、それに沿って書かなくてはいけないような気持ちになるからだ。
今ならもっと、好きな物を見つけたときに好きだと思えるように、自分の好きな文章のここが好きだとか、このシーンが好きだとか、書ける気がするのに。
「文章を書く」ということ。
例えば、あの時仲良くなれなかった同級生と、今になってからなら友達になれるような、そんな気持ちを「読書感想文」に対しては少し、持っている気がする。
断っておくけれど、具体的に、『仲良くなれなかった同級生がいた「あの時」』を指しているわけではない。「あの時」も、「例えば」の中の話だ。その有無は置いておいて。
「椎名林檎」の「すべりだい」という曲の中に「今のあたしだったらあなたと、退(すべ)らずに済む様な気がする」という一節があるのだけれど。
なんとなく、近い感覚なのかなと思う。ただ、彼女と小生の感覚が同じかどうかなんて知りようも確かめようもないので、あくまでも「思う」。ただの片想いだ。
このnoteは確かに自分の独白でしかなくて、ただ、日記には近いところがある。
思ったことを書き出しているだけ、というところが。
noteと日記が確かにちがうところは、「目を通してくれるあなた」がいることだと思う。
どちらがどうと言いたいのではなくて、この、ただカードを切るだけの小生の話に付き合ってくれるあなたとの、奇妙でささやかな繋がりをなんとなく嬉しいと思う。
だから、思ったことをなんとなく書いて、そしてそれを続けているのだと思う。
今回だってそう。
日々、気付かないうちに変わる生活と同じように、思考も変わっていく。
だからきっと、「思ったこと」も「なんとなく」も、変わっていく。
変わらないものも、あるけれど。
そういえば、いつかの流星群の日に「日々変わっていくこの世界で、変わらないものが見つかりますように」と願った事があるのだけれど。
これはいつ、答え合わせになるのだろう。
おあとがよろしいようで。では、また。
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