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熱い創作と冷たい創作 -- 創作者の「自殺」を必然とする現代社会の構造

 現代社会における創作活動は、〈熱い創作〉と〈冷たい創作〉という二つの極を持っている。前者が人間的な活動であるのに対して、後者は経済的な活動である。〈熱い創作〉が〈冷たい創作〉に呑み込まれるとき、創作者は再び殺される。



創作活動の二つの極

 宮沢賢治は、彼自身の抱える矛盾に、どこまでも誠実に向き合った。彼は農民に深い共感を寄せたけれども、それがいかに自己破壊的な共感だったのかは、ほとんど理解されていない。裕福な商人の家に生まれた賢治は、彼自身の身体が農民たちの血と涙でつくられていることを知っていた。宮沢家は、貧しい農民への金貸しも営んでおり、痩せこけた農民たちが目に涙を浮かべて「お願い」に来る様子を、賢治は幼いころから見ていたのである。

 富商の家に生まれた賢治は、たとえ彼自身が農民たちに共感していたとしても、農民たちからは「宮沢家の長男」として恨みのこもったまなざしを向けられた。彼の肉体は、屋根に守られて育ったゆえに虚弱で、雨風に当たるとすぐに肺炎になった。「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」から始まり、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で締められる彼の遺作は、農民たちへの自己破壊的な共感を背景にして鮮烈に響き渡る。

 自らの奥底にある根源的な「痛み」のようなもの、自分ではどうすることもできない地獄を抱えながら、どこまでも誠実に生傷と向き合うことを通して営まれる創作活動を、〈熱い創作〉と呼ぶことにしよう。三島由紀夫や太宰治、プルースト、マルクス、ワーグナーなど、偉大と呼ばれる創作者たちは、それぞれの「痛み」と対峙することを通して作品を生み出した。その意義は、創作物にだけではなく、創作過程そのものにも内在している。

 その一方で、それとは異なる創作活動が、現代社会の大きな部分を占めている。たとえば食品のパッケージデザインは、創作活動のひとつには違いないが、〈熱い創作〉とは言えない。それは、人々の欲望を喚起するための創作であり、貨幣の獲得を目的とした創作である。このような創作活動を、〈冷たい創作〉と呼ぶことにしよう。

 〈冷たい創作〉は、現代社会のあらゆる局面に根付いている。電車に氾濫する商品広告のキャッチコピーの群れ、衣服やアクセサリーのデザイン、大衆受けを狙ったテレビ番組、SNSで配信される動画広告、就職活動におけるエントリーシートの作成、さらにはマッチングアプリのプロフィール写真の作成に至るまで、我々は〈冷たい創作〉を生産しつづけ、消費しつづける。


〈冷たい創作〉の無限連鎖

 現代社会における「労働」は、もはや生活必需品を供給するための活動ではない。食料や衣類や、その他のあらゆる商品・サービスは、すでに人間的な必要量を超えて生産されている。だから問題は、いかに消費させるか、ということにある。

 なんとしてでも、商品を消費させなければいけない。なぜならば、我々の生活には貨幣が必要であり、貨幣は商品販売によって初めて手に入るからである。ここで、〈冷たい創作〉が二重に遂行される。一つは、人々が欲望するように商品を成形することであり、もう一つは、人々の欲望を喚起するために広告を作り出すことである。

 広告が一般化すると、新聞やテレビなどの情報産業は、広告情報の「媒体 = media」として地位を確立する。テレビではさまざまな番組が創作されているが、それは番組を広告情報の「依代 = media」とすることによって、広告収入を獲得することを目的としている。〈熱い創作〉においては、創作活動そのものにも創作物にも意義があったけれども、〈冷たい創作〉においては、それらは意義を剥奪されて、貨幣がすべてを支配している。

 現代社会とは、生存するために〈冷たい創作〉を生産しなければいけない社会である。裏返して、情報による欲望操作によって〈冷たい創作〉を消費させられている社会である。その創作活動には意味がない。創作物にさえ意味はない。我々が崇める貨幣は、倫理や正義の一切を無視して躍動する。市場経済を中心に備える現代社会は、現実として、〈冷たい創作〉の無限連鎖として存立してしまっている。


〈熱い創作〉に宿る生命

 会社の人事課は、求職者のエントリーシートが当てにならないことをよく知っている。マッチングアプリの公開プロフィールは、とある有識者によると、この世でもっとも信用ならない情報らしい。量販店の衣類を見てもデザイナーの人間性を理解することはできないし、テレビ番組においてプロデューサーやディレクターはなるべく背後に退いている。

 このように、創作物と創作者が切り離されていることが〈冷たい創作〉の特徴である。これに対して〈熱い創作〉では、それらがピタリと密着している。我々は、『雨ニモマケズ』や『銀河鉄道の夜』といった作品から、宮沢賢治という人間の、生きられた葛藤を汲みとることができる。

 〈熱い創作〉における作品は、創作者そのものである。創作者はすでに傷を負っており、その傷とどこまでも対話することを通して、流れ出した血液が作品として結晶する。だから、作品は生きている。創作者の生きる葛藤をすべて背負って、創作者の呼吸と拍動を宿して、血の通った作品が産み落とされる。 〔著作者人格権は、ここに根拠を持つ。〕

 〈熱い創作〉が人間を勇気づけるのは、創作者の葛藤と、受け手の葛藤が共鳴するからである。〈冷たい創作〉の無限連鎖としての現代社会は、そこに生きる人間を絶えず傷つけ、その身に葛藤を刻み込む。〈冷たい創作〉の消費による瞬間的なエクスタシーは、葛藤を誤魔化すだけで、むしろ葛藤を蓄積してしまう。ゆえに人間は、〈熱い創作〉を産み出し、〈熱い創作〉を享受するのである。


創作者が殺されるとき

 情報産業は、絶えずコンテンツを求めて彷徨っている。コンテンツは、ニュースかもしれないし、ドラマかもしれない。その内容はどうでもよくて、それを広告情報の媒体として貨幣を獲得することが目的なのである。貨幣に頼らないと生存できない現代社会において、あらゆる活動を貨幣に従属させてしまう人間の、理想的な振舞いである。

 〈冷たい創作〉を作る人々は、すでに殺されてしまっている。彼らは、ひとりの「人間」として創作活動に励んでいるのではなく、何とかして貨幣を獲得するために「頭脳労働力」として働いているに過ぎない。そこに個性は求められない。他人の注意や欲望を無理やりにでも喚起すること、これだけが求められている。現代社会は、それが〈冷たい創作〉の無限連鎖であるがゆえに、はじめから悲劇なのである。

 〈冷たい創作〉の連鎖に巻き込まれた人々に救済を与えるものこそ、〈熱い創作〉のはずだった。しかし、情報産業の亡霊は、ついに〈熱い創作〉を捕まえて殺してしまう。その瞬間に、〈熱い創作〉は〈冷たい創作〉へと転化する。創作者との結びつきを切断され、呼吸と拍動が止められ、血液を抜かれ、広告情報の媒体として世に放たれる。

 生気を奪われた人々は、〈冷たい創作〉の無限連鎖のなかで、〈熱い創作〉の息の根を止め、創作者を殺す。すでに殺されて、生傷と対話することを通して作品を産み出し、ようやく生を回復した創作者は、ここで再び殺される。創作者を殺すのは、すでに殺された創作者である。

 芦原妃名子というひとりの漫画家が、生物学的に死亡した。その背景には、精神的に死亡した人間たちの、隊列をなした行軍がある。彼女は、我々によって殺された。しかし、我々もすでに殺されているのだ。死者たちの無限の殺し合いにおいて、誰を罰することができよう。



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