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武器ではなくパンで話し、語ること。食事からもらった愛を、誰かに伝えること。戦争が起きているこの世界で、私達にできることは少ないけれど、日頃からそうしていきたい。

ひとを殴って言うことを聞かせるのは、簡単かもしれない。

ひとに銃口を突き付けて欲求を通すのは、簡単かもしれない。

ただ、そういったことが戦争につながり、誰かを泣かせることになるのならば、力による支配にもやがて限界が来る。

私達は、食べないと生きていけない。

そして、食べることを至上の喜びとしているひともある程度いる。

食事が栄養補給のためだけだったら、とっくに食事は点滴か経腸栄養かIVHにでも変わっていただろう。寝ている間に1日中の栄養を補給し、起きているあいだは仕事なり勉強なり余暇なりに余計時間を使える。食事を用意して、食べて、後片付けする時間があるなら、ほかのことに使えることになる。ただ、私達はこんなにテクノロジーが発達した時代においても、食事をとっている。IVHなどに頼るようにならなかったのは、人類が食事を愛しているからだ。

そして、世界のどこに行っても、必ずその土地でしか食べられないようなもの、あるいはその土地で深く愛されている食べ物がある。Instagramで綺麗な観光地や世界の反対側の写真を見られるが、Instagramでは食べ物は味わえない。だから、観光したら美味しいものを食べようというひとが増えたような気がする。実際、訪日外国人観光客が日本を選んだ理由で、いつも食事が美味しいというのは上位にあがる。

日本は、食事を武器にして外交ができると思う。北朝鮮などの飢えている国を助けるために食事をあげる代わりに、拉致被害者を返してもらう。ロシアなどの戦争を続けている国に対して食事をあげる代わりに、戦争をやめるように話す。

私は外交官ではないが、外交がこんなに簡単なものでないことくらいわかっている。どんなに外交官や外務省や国連が動いても、戦争が止められないといったことをリアルタイムに見ている。賢いおとなたちがいくら手を尽くしても、あるいは傍観していても、なにも変わってはくれないということを見てきた。そして、一部のおとなたちは、加害者のほうに加担したり、被害者のほうを見なかったりする。

そしてテレビの向こうで祈ることしかできないというのは、その悲しさともどかしさは、私は2016年のイタリア中部地震のときからずっと味わっている。イタリア語ができるようになって、イタリアに留学して、イタリア人のお友達がたくさんできたが、もし明日私の愛するイタリアが大災害に見舞われたとして、できることはほんとうに少ない。またテレビとスマートフォンの前でなにもできない自分の手の小ささを呪うだろう。

ただ、食事は最後の希望だ。

ウクライナの避難民の方が日本でレストランを開いたり(たとえば、大阪にある restaurant Ukraine Japanなど)、パレスチナを思うためにパレスチナの国旗の色と同じすいかを食べたり、そういったことで、平和にすこしずつ近づいていると信じたい。

食事がひととひととをつなぐ手段である限り、私達は食事に希望を託せる。

だれだって飢えたくないし、食事をとらないことは死に直結する。死の危険に直結していたら、食事の意味はなおさら大きくなる。食事を得るためにひとを殺すこと、亡くなった味方の死体を食べること、食事のために喧嘩すること、そういったことを過去の戦争は伝えてきた。

ひとつのサツマイモをめぐって兄弟喧嘩する様子が「はだしのゲン」には描かれている。それを見て、この果てしない悲しさの向こうに、私達の希望はまだちゃんとあると思えた。食事はこんなにたいせつなものなんだから、それをうまく使えば、私達は対話できるんじゃないか。武器に立ち向かえるんじゃないか。

武器を使ってひとを殺すことは簡単かもしれない。ただ、それはあらゆる対話の手段を奪ってしまう。爆弾が、ミサイルが、焼夷弾が落ちる下には、ひもじいかもしれないが、たしかに食卓があって、そこには紛れもない愛があった。

食べないということは、死に直結する。それなのに、こどもにはせめてお腹いっぱい食べさせたいと、両親は食事を減らし、こどもにそれを渡す。そういった光景は、いくつかのひとり親家庭でも見ることができる。

ワーキングプアでいつまでたっても豊かになれない。ほしいものもこどもにたくさん我慢させてきた。そんな親がせめて、こどもには美味しいものをあげられるように、食費を節約して、こどもに渡す食事の量を多くする。これくらいなんともないやといった顔で、当たり前であるかのように親はそれをする。ただ、よく考えると、食事を怠ることは健康に良くないし、もっときつい言葉で言えば、死につながる。

食卓には、愛がある。

そんなことを言っているキューピーのドレッシングやマヨネーズを私は毎回使っている。それは、偶然ではないと思う。「愛は食卓にある。」なんて美しい言葉だろう。そのとおりすぎるのだ。愛が食卓にあり、それを受け取っていくからこそ、私達はひとを愛せるし、ひとから多少のひどいことをされても、許そうという気持ちになる。まるでミサで神様の愛を確認した私達が世界で嫌な思いをしてもひとを愛せるといえるようなものだ。

キリスト教が普及していない日本で、「隣人愛」を伝えるには、食卓にひとを招くだけでいい。それが私の持論だ。宣教するのに聖書は必要かもしれないが、食事をすることによって、「私はあなたをたいせつに思っています」「神様はあなたを愛しています」というキリスト教の中心メッセージを伝えることは十分にできる。食事が今日あなたの食卓にあるということは、偶然ではない。愛のためだ。そして、あなたが今日生きているのは、神様がきょうもあなたに生きなさいとチャンスをくれたからだ。当たり前のことではない。

私達は愛されている。だから、私達はちゃんと食べられる。たとえ食事があなたの食卓になくても、誰かがそれを悲しんでくれる。パレスチナのこどもたちが飢えていく様子を見てなにもしないほど、人間は愚かではない。世界中が彼らに支援をしている。パレスチナだけではない。ここ日本にも、こども食堂がある。欧米では、カリタスなどの非営利組織が、ちゃんと食事を用意していることだろう。

だから、その愛を平和のために使おう。世界でミサイルが落ちる空がどこにも見当たらなくなる日まで、私達は食事を通して愛を伝えていこう。

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