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クリスチャンは神社やお寺に行ってもいいのか

はじめに

私は2024年の復活徹夜祭のときに、カトリック教会で成人洗礼を受けた。それは長年洗礼を受けたいと思っていた私にとって喜ばしいことだったが、ひとつ周囲に言わなければいけないことがある。

それは自分で選んだことではあるけれども、神社やお寺に行かないという選択を私はした、ということだ。

エホバの証人のひとたちも神社やお寺に行かない

流石に公式サイトを見るのは怖かったので、ChatGPTに説明してもらう。

ー引用開始ー

偶像崇拝の禁止: エホバの証人は、聖書の十戒に従い、偶像崇拝を禁じています。彼らは、神社やお寺にある神像や仏像を崇拝することが偶像崇拝にあたると考えています。出エジプト記20章4-5節には、「あなたは自分のために彫像を作ってはならない。また、上にある天、下にある地、地の下にある水の中にあるものの、いかなる形も作ってはならない。」「それにひれ伏してはならない。それらに仕えてはならない。」と書かれています。

唯一神信仰: エホバの証人は、唯一の神(エホバ)を信仰しており、他の神々や宗教儀式に参加することは、その信仰に反すると考えています。イザヤ書42章8節には、「わたしはエホバである。これはわたしの名である。わたしは自分の栄光を他の者に与えず、自分の賛美を偶像に与えない。」と述べられています。

中立の立場: エホバの証人は、政治的・宗教的中立を保つことを重視しています。彼らは、他の宗教や政治に関与することを避け、自分たちの信仰に専念することを選びます。このため、他の宗教の施設や儀式には参加しません。

聖書の教えに忠実: エホバの証人は、聖書の教えに忠実であることを重要視しています。彼らは、日常生活のあらゆる側面において聖書の指導を受け入れ、それに従うことを目指しています。他の宗教の儀式や習慣に参加することは、聖書の教えに反するとみなしています。

ー引用終了ー

なお、エホバの証人は一般的なキリスト教(カトリック教会、プロテスタント教会、東方正教会)とはかなり考え方が違う。異端に属している。ただ、私としては、彼らが他人に強制しない範囲で彼らなりに幸せなのであれば、なにも言うことはないと思っているし、温かく見守りたいという立場である。ただ、一部の異端でないキリスト教のひとからは、「絶対に関わりたくない」といった意見もある。私はそこまで過激ではない。

カトリックの友人のケース1: 私は信仰があるけれど、神社仏閣には抵抗はない

私の大学は、いろいろな学科があるが、国際系の学部が有名なので、留学生が割と来る。

彼らと日本人学生を組み合わせて、関西近辺を旅行するというサークルが複数あるが、土地柄上、どうしても京都方面に行くときにはどこかの神社仏閣を入れてくる。

私が洗礼を受ける前、最後だからとそのツアーに参加したとき、外国人の友人たちがなんの迷いもなく数珠を買い、御朱印を貰い、神社で手を合わせ、お賽銭を入れているのを見た。

知らないとかわいそうなので、一応、「これは宗教的なもので、あなたが信じているキリスト教とは違う宗教だよ」と説明したところ、「知っているよ。アニメの影響で神社仏閣にも興味を持ったんだ。私はプロテスタント/カトリックだけど、なんの抵抗もないよ。それは私の信仰を捨てることにはならないから。」と言っていた友人たちがいる。

カトリックの友人のケース2: 宗教施設としてではなく、文化を感じるために祈る

私のイタリア人の友人を、彼女の強い希望で、伏見稲荷大社に連れていったときのことだ。

彼女は敬虔なクリスチャンだったから、私は疑問に思った。

なんで彼女は、他の宗教の施設に行きたがるのだろう。

彼女は「私はクリスチャンだけれど、他の宗教のことも知りたいし、あくまで日本文化を体験できる場所という扱いで行っている。学べることは多いし、建築は美しいし、落ち着くから。イエス様はここにもきっといるんだと思う。」と言っていた。

そして、彼女は鳥居をくぐり、写真を撮ったものの、御朱印やお守りは買わず、お賽銭も入れなかった。ただ、お賽銭を入れるところで、主の祈り(キリスト教の有名な祈り。簡単に言うと般若心経みたいなもの)を唱え始めたときには驚いた。

こういう方法があるのか、と素直にびっくりした。

カトリックの友人のケース3: キリスト教は一神教。だから私は他の宗教施設には行かない

そもそも「行かない」という選択をした私のようなケースを紹介する。

キリスト教は、一神教だ。

「ここにも神様Aがいて、あそこには神様Bがいて、遠くには神様Cがいる」といった考え方はない。神様はひとりだけだ。三位一体という話を出すと長くなるが、少なくとも「八百万の神様」という考えはない。もっとわかりやすく言うと、水の神様、山の神様、海の神様といったものはない。

だから、たとえばモスクに行ったところでそこにいるのはイエス様ではなくてアッラーだし、お寺に行ったところで話を聞いてくれるのは仏陀だということになる(間違っていたら済まない)。

だから、そんな無礼なことはしたくないと、行かない選択をしたひとたちもいる。

私のケース: 単純に抵抗があるから

私の場合、洗礼を受けているので、とあるカトリック教会の名簿には私の名前が信徒として載っている。

たとえば、仏教の洗礼(洗礼に値するようなものがあるのかどうかさえ知らないが)を受けたとしたら、仏教のほうにも名簿に名前が載る。

そんなことはできない。

それはたとえば東京大学に籍を置きながら、京都大学に籍を置くようなものだ。

ダブルディグリー制度は東京大学と京都大学のあいだにない(と思う)から、そのようなことは制度上できない。

ダブルディグリー制度があって、二十在籍が可能な大学もあると思う。

それは、宗教で例えると、仏教と神道の関係にあたる。

神仏習合というものがあるから、「ここは神社でもありお寺でもある」といったことが起こりうる。あるいは、その区別はとてもあいまいだ。「神社だったけれど、お寺になった」といった事例もあるのだろう。詳しくないのでわからないが。

ただ、「キリスト教徒でもあり、イスラム教徒でもある」ということは起こりえない。

なぜなら、ダブルディグリー制度がない2つの大学に同時在籍はできないのと同じことだからだ。

だから、キリスト教会に籍を置いている以上、私はほかの宗教施設を訪れることはない。それは仏教でも神道でもモスクでも幸福の科学の施設でも同じことだ。(幸福の科学に恨みはない)

まとめ

クリスチャンでも、信仰の深さのレベルはひとによって違うし、神社仏閣に行くことに抵抗を示さないひとはある程度いる。ただ、相手がクリスチャンであることが想定される場合には、お守りなどをプレゼントとして渡すのは、喜ばれる場合が多いが、ひとこと聞いてからのほうがいいだろう。


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