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ローマ教皇が同性愛者に差別発言をしたという話を聞いて、カトリック信者が思うこと

はじめに

ローマ教皇のフランシスコさんが、同性愛者に差別的な表現をしたというニュースを見た。

この記事では、その概略と、カトリック信者である私の意見を書いていこうと思う。

概略

上の記事によると、

"(Nei seminari,) c'è troppa frociaggine"

と言ったことが差別的だとされている。

{このセミナーには}frociaggineがたくさんいる(ある)、といった意味だが、この言葉の意味を言う前に、ローマ教皇が別のところで言った言葉を見てみよう。

"Il problema del nostro mondo non sono i bambini che nascono: sono l'egoismo, il consumismo e l'individualismo, che rendono le persone sazie, sole e infelici"

引用元:

これの意味は、こんなものだ。

私達が生きるこの世界の問題というのは、生まれてくるこどもたちのことではない。自己中心主義、消費主義、そして個人主義だ。これがひとびとを飽きさせ、孤独にさせ、そして不幸にする。

frociaggineとは、「同性愛者」を意味する、ローマ方言の差別語だという。

「控えめで過激でない小児性愛者」といった意味もあるようだ。

こちらの記事によると。frocioという言葉の派生形であるこの言葉は、フランス人を意味するfrancesiから来たという説を紹介している。

ローマ教皇はローマ人ではないので、ローマ方言が含む差別的あるいは侮蔑的なニュアンスに気づかなかったという擁護する意見がある。

一方、カトリック教会で権力を持っている彼のことだから、もっと包括的かつ誰にでも優しい表現を使うべきだったし、その表現を探す努力をする必要があるという意見もある。

私の意見

カトリック教会は、同性愛者を差別することを奨励してはいない。

私達はみんな神様から愛されて生まれてきた、平等な存在だ。

同性愛者であろうとなかろうと、私達はみんな同じ人間だ。同性愛者は人間ではないとか、生きる価値がないとか、そういった話は一切聞かないし、万が一誰かがそう言ったとしても、それはカトリック教会の公式見解ではない。

事実、私にはトランスジェンダーであることを公表している友人がいる。彼との友達付き合いについて神父さんにきいたところ、「教会の意見なんて気にしないで、仲良くしてください」と言われたことがある。

「トランスジェンダーなどのセクシャルマイノリティとは関わるな、仲良くするな、話すな」ということを言っている宗教ではない。

繰り返すが、カトリックは差別を勧めるような宗教ではない。

もしカトリックが差別を勧める宗教なら、「隣人愛」というキリスト教の基礎的な考え方すら共有されないものになってしまう。

隣人愛について、ChatGPTの要約がわかりやすいので載せる。

隣人愛についてのChatGPTの説明

以下、載せる。

***

カトリック教会の隣人愛について説明するためには、まず隣人愛(愛徳、カリタス)の概念とその聖書における根拠を理解することが重要です。隣人愛は、キリスト教の中心的な教えであり、他者に対する無償の愛と奉仕を意味します。

聖書における隣人愛

旧約聖書

  1. レビ記19章18節
    「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」
    この教えは、隣人に対する愛を律法の中核に据えています。

新約聖書

  1. マタイによる福音書22章37-39節
    イエスは答えて言われた、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これは重要な第一の戒めである。第二もこれと同様である、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」

  2. ルカによる福音書10章25-37節(善きサマリア人のたとえ)
    「ある律法の専門家がイエスを試みようとして、『先生、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいでしょうか』と尋ねた。イエスは彼に言われた、『律法には何と書いてありますか。あなたはどう解釈しますか。』彼は答えて言った、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』イエスは言われた、『あなたの答えは正しい。そのとおりに行いなさい。そうすれば生きるであろう。』」

カトリック教会の教え

カトリック教会は、これらの聖書の教えを基に隣人愛を重要な徳として強調します。

教会の社会教説

  1. 愛徳の実践
    カトリック教会は、慈善活動や社会正義の追求を通じて、隣人愛を具体的に表現します。これは貧しい人々、病気の人々、社会的に疎外された人々への援助や支援を含みます。

  2. カリタス
    「カリタス」という言葉は、ラテン語で愛を意味し、特に無償の愛、神の愛を指します。カトリック教会の多くの慈善団体や組織が「カリタス」と名付けられており、これは隣人愛の具体的な実践を示しています。

教皇の教え

  1. 教皇フランシスコのメッセージ
    教皇フランシスコは、繰り返し隣人愛の重要性を強調しています。彼の回勅「フラテリ・トゥッティ(Fratelli Tutti)」では、普遍的な兄弟愛と社会的友愛を推進し、全ての人々が互いに隣人として愛し合うことの必要性を説いています。

まとめ

隣人愛は、カトリック教会の教えの中心にあり、聖書の教えに深く根ざしています。レビ記や福音書に示されるように、神への愛と隣人への愛は切り離せないものであり、これが実践されることで神の愛が世に現れます。教会は、この隣人愛を様々な形で実践し、特に弱者や困窮者に対する愛と奉仕を強調しています。

***

隣人愛についての私の補足

「あなたの隣人」とは、当然同性愛者も犯罪者もマイノリティもなんでも含む。だから、性的マイノリティを差別することは、カトリック教会の思っていることとは違う。

ただ、カトリック教会において、同性愛は罪である。

これは正教会も同じだと、ウクライナの友人から聞いた。

同性愛のみならず、婚前交渉(結婚する前に性的関係を持つこと)や、自慰行為も罪に当たる。

また、中絶も罪に当たる。

そのすべてに共通するのは、「出産する目的以外で性的関係を持つこと」である。

同性愛者の方が性的関係を持ったとして、それは妊娠には基本的にはつながらない。

同性愛についてのChatGPTの説明

ChatGPTに同性愛とカトリック教会について聞いたので、それも載せる。

***

カトリック教会において同性愛行為が罪とされる理由について、聖書の教えを交えながら説明します。重要なのは、カトリック教会は同性愛者の存在自体を罪としているのではなく、同性愛行為を罪としている点です。以下に、聖書の根拠とカトリック教会の教義を説明します。

聖書の教え

旧約聖書

  1. レビ記 18章22節
    「あなたは男と寝て女と寝るようなことをしてはならない。それは忌まわしいことである。」

  2. レビ記 20章13節
    「男が男と寝るときに女と寝るようなことをして、二人とも憎むべきことを行ったなら、彼らは共に死刑にされなければならない。その血は彼ら自身の上にある。」

新約聖書

  1. ローマの信徒への手紙 1章26-27節
    「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡された。すなわち、女は自然の用を捨てて不自然なものを使い、男も同じように、女との自然な用を捨てて互いに情欲に燃え、男が男に対してはずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いを身に受けたのである。」

カトリック教会の教え

カテキズム(カトリック教理問答)

カトリック教会の教理問答は、同性愛者に対する取り扱いと、同性愛行為に対する教えを次のように説明しています。

  1. カテキズム第2357項
    「聖書は同性愛行為を厳しく非難している。聖伝も同性愛行為を『重大な逸脱』とみなし、『いかなる場合にも不自然であり、道徳的に許されない』と教えている。」

  2. カテキズム第2358項
    「同性愛の傾向を持つ人々は、神の子として尊重されなければならない。彼らを不当に差別してはならない。彼らもまた、貞潔を守り、自己制御を保ち、特に祈りと恩恵の助けによって、徐々に完全なキリスト教生活を送ることが求められている。」

  3. カテキズム第2359項
    「同性愛の傾向を持つ人々は貞潔を守ることを召されている。彼らは自制の徳を学び、内面の自由を養い、友人との不純ではない友情を通して霊的な生活を成長させることができる。」

カトリック教会の立場

カトリック教会の立場は、同性愛者への尊重と愛を強調しつつも、同性愛行為自体は聖書と伝統に基づいて罪と見なされています。これは、性行為が夫婦間の愛と命の伝達の場であるという教会の教えに基づいています。性行為は、生命を創造する能力を持つものであり、婚姻の枠組みの中でのみ適切であると教えています。

まとめ

カトリック教会では、聖書に基づいて同性愛行為を罪と見なしていますが、同性愛者自体は尊重され、愛されるべき存在とされています。同性愛の傾向を持つ人々にも貞潔と自己制御が求められ、キリスト教の生活において成長することが促されています。教会は、これらの教えを通じて、神の愛と人間の尊厳を大切にしようと努めています。

***

私のセクシャルマイノリティーや同性婚などについての意見

同性愛者を差別してはならない。それは覆せない大前提だ。

差別は悪いことだ。なぜなら、彼らもまたこの地球で生きる同じ人間だから。異性愛者と同じように、神様に愛されて生まれてきて、神様に愛されて生きていくひとたちだ。

ただ、同性婚だとか、あるいはレズビアンの方の難民認定だとか、そういったことには私は割と慎重な意見だ。なぜなら、聖書が罪であると言っている行為を、法が認める、あるいは推奨するというのは、カトリックとして良いことではない。カトリックは聖書を文字通り人生のバイブルとして生きるべきであって、そこに正解も間違いも書いてある。

たとえが適切かどうかわからないが、万引きは悪いことだ。なぜなら、この社会でみんなが共有している「法律」で罰せられることだからだ。もちろん、万引きをすると店の利益にならないとか、補導されるとか、そういったこともあるけれど、万引きを悪いことだと決めているのは、法律だ。極端な話、法律が万引きを推奨したら、世界はがらりと変わるだろう。

それは一般社会がそう動いているということだが、カトリックにとって、法律に当たるのは聖書だ。聖書がYESと言えばそれはYESだし、NOと言えばNOになる。ただ、聖書を100パーセント純粋に鵜呑みにするのではなく、あくまでそれは判断材料にすぎない。

だから、「私は極度の貧困で飢え死にしそうなので、法律では万引きはNOとされていますが、罰を受けること覚悟で私は自分の判断で万引きしました」といったことは十分にあり得る。

そして、聖書もまたそうで、「私は親しい友人にゲイの方がいるから、聖書ではNOと言っていても、私は同性婚なりLGBTQ+の権利拡大なりに賛成です」というクリスチャンがいるということは十分あり得ることだ。

ただ、「同性愛は悪い」あるいは「罪だ」というのは、あくまでカトリックとしての意見であって、宗教を取り払った個人としては、同性婚によって救われるひとがいるならそれは認められるべきだと思うし、不当な差別を法制化することで減らせるなら、法制化したらいいと思っている。

こんなことを書いたら教会に怒られるかもしれないが、事実、LGBTQ+の方は不当な差別を受けている側面があるし、法律で同性婚が認められたとして個人的に困ることは一切ない。

今回の騒動についての意見

それを踏まえたうえで、今回の騒動についての意見を書く。

スタンスは同じで、教会としてLGBTQ+の方を認めるわけにはいかないとしても、差別的な言葉を使う必要はなかった。素直に omosessuali で良かったのに、侮蔑的な言葉を選ぶ必要はなかった。

そうすると、カトリックは弱者を迫害する宗教だということを誰かから突っ込まれても仕方ないと言えてしまうからだ。

それはもはや隣人愛以前の問題で、認められるものではない。

どんな言い訳も差別の前には無効だからだ。

みんなに救いがあるように祈りながら、ここで終わりにする。

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