honeysuckle11

エッセイストの羽生さくると申します。 1988年『部長さんがサンタクロース』(はまの出…

honeysuckle11

エッセイストの羽生さくると申します。 1988年『部長さんがサンタクロース』(はまの出版)でデビューしました。 70年代以降の雑誌編集や単行本の出版について書いていきます。

記事一覧

主婦アンケートでレタス白書

『レタスクラブ』からわたし主宰の読者グループを作り、アンケートでページを構成したいというオファーがあった。 1994年当時、アンケートを集めるといったら道具はファク…

honeysuckle11
3年前

雑誌連載はじまる

連載エッセイの依頼を最初にくれたのは『週刊ポスト』だった。 東野圭吾さんと交互の隔週連載。 タイトルは「かわいくなるまで待って」と自分でつけた。 OLから女性全般…

honeysuckle11
3年前
2

お局さまの指環

『部長さんがサンタクロース』(はまの出版)を出版して、最初にインタビューを申し込んできてくれたのは「夕刊フジ」の三保谷浩輝さんだった。 カメラを肩に一人で荻窪ま…

honeysuckle11
3年前
1

お局さま誕生秘話

単行本を書き下ろすことは決まった。 さて、テーマはなんにするか。 当時女子大生ブームはもう終わっていた。 いっぽう『週刊文春』では「OL向上委員会」という、OLにア…

honeysuckle11
3年前

二つ返事

編集プロダクション・アルクでの仕事が落ち着いてきたころ、思いがけず単行本を書かないか、という話が舞い込んできた。 『週刊朝日』でお世話になり親しくもしてもらって…

honeysuckle11
3年前
4

付箋がふさふさ

単行本の編集は、この上なく緻密な作業だった。 文章については自分なりに細かいつもりだったが、それは書くほうの文章。 赤ペンしか持たない編集者として一冊の本に神経…

honeysuckle11
3年前
1

人生成り行き

単行本編集の話を続ける前に、談志師匠について書いておこう。 文筆修業の直接の師ではないけれど、わたしの人生でもっとも大切な人のひとり。 伊丹さんのことを書いて談…

honeysuckle11
3年前
4

書籍の編集へ

27歳、わたしは結婚した。 それを機に10代からお世話になった週刊朝日編集部をおいとまし、神保町にあった編集プロダクション「アルク」に週三日のアルバイトとして雇って…

honeysuckle11
4年前
5

OL コンサイス

24歳になったころ、婦人欄担当になった加賀さんから「OLのともだちってたくさんいる?」と聞かれた。 中高大女子校だったので、同級生は大多数がまだOLだった。 そういう…

honeysuckle11
4年前
4

別冊は別室で

「週刊朝日」からも別冊が出ることがあった。 甲子園別冊はレギュラー。 特別の企画で作られたものでわたしが関わったのは「日本語」と「アメリカ西海岸」と「東京」の別…

honeysuckle11
4年前
3

一生物

「山藤章二の似顔絵塾」の単行本が出版されたのは82年の11月。 わたしが大学を卒業した年だ。 出版局の「図書」という部門の天羽さんは、似顔絵塾が始まったときから「こ…

honeysuckle11
4年前
5

塾長秘書として

大学4年生のとき、宮本貢さんが「山藤章二の似顔絵塾」を企画した。 「塾長秘書になってくれるかな」 彼のこの一言で、山藤塾長と塾生たちとの5年に渡るおつきあいが始ま…

honeysuckle11
4年前
7

暗号解読倶楽部

編集委員の平泉さんがある大御所ミステリー作家の担当になった。 「忠臣蔵」の前だったろうか。 美人姉妹が主人公の連載が始まった。 しばらくしたころ、平泉さんに会っ…

honeysuckle11
4年前
1

前号までのあらすじ

月曜日は「週刊朝日」の校了の日だった。 週刊誌は綴じてある真ん中のページ(正しくは「折」といって8ページ単位)から作っていく。 月曜日にはすべてのページの文字原…

honeysuckle11
4年前
1

修羅場にて

編集者として、わたしが好きな仕事の一つにテープ起こしがある。 いまでは「テープ」は使わないだろうけれど、わたしがしていた頃はカセットレコーダーだった。 MacBook…

honeysuckle11
4年前
5

遠くが見える日

篠山紀信さん撮影の「女子大生表紙写真館」。 当時「週刊朝日」の目玉といってもよかっただろう。 なんといっても宮崎美子を輩出した企画だ。 編集委員の平泉悦郎さんが…

honeysuckle11
4年前
2
主婦アンケートでレタス白書

主婦アンケートでレタス白書

『レタスクラブ』からわたし主宰の読者グループを作り、アンケートでページを構成したいというオファーがあった。

1994年当時、アンケートを集めるといったら道具はファクスだ。

投稿欄の常連読者を中心としたチームに、質問ファクスを送って回答してもらい、わたしはそれを読んで面白い答えをピックアップ、コメントをつけて見開きの記事にする。

連載タイトルは「爆笑タイムズ」に決まった。

漫画家の田島みるく

もっとみる
雑誌連載はじまる

雑誌連載はじまる

連載エッセイの依頼を最初にくれたのは『週刊ポスト』だった。

東野圭吾さんと交互の隔週連載。

タイトルは「かわいくなるまで待って」と自分でつけた。

OLから女性全般にまつわる話を、男性読者向けに書いた。

毎回わたしの写真が入る。

担当編集者は、わたしが結婚していることは「内緒にしておきますね」といった。

次が創刊まもない『日経WOMAN』。

日本経済新聞社の出版局の人たちは、朝日新聞社

もっとみる
お局さまの指環

お局さまの指環

『部長さんがサンタクロース』(はまの出版)を出版して、最初にインタビューを申し込んできてくれたのは「夕刊フジ」の三保谷浩輝さんだった。

カメラを肩に一人で荻窪までやってきた三保谷さんは、インタビューの後、外で写真を撮りながら、

「羽生さんは結婚されてるんですか」

と聞いた。

「してるんですよ」

かっこ笑、みたいな雰囲気になった(笑)

それから三保谷さんとは親しくなって、いっしょに競馬旅

もっとみる
お局さま誕生秘話

お局さま誕生秘話

単行本を書き下ろすことは決まった。

さて、テーマはなんにするか。

当時女子大生ブームはもう終わっていた。

いっぽう『週刊文春』では「OL向上委員会」という、OLにアンケート調査をしたり投稿を募ったりしてOLのライターが構成する見開きページがあった。

これがとても面白かった。

構成している人たちのセンスがよかったのだ。

次はOLブームがくる、もうきているのかも、と思った。

わたしも数年

もっとみる
二つ返事

二つ返事

編集プロダクション・アルクでの仕事が落ち着いてきたころ、思いがけず単行本を書かないか、という話が舞い込んできた。

『週刊朝日』でお世話になり親しくもしてもらっていた川口優香里さんが、はまの出版という出版社を紹介してくれたのだ。

はまの出版では月に2冊ずつ新書版のエッセイを出版していた。

88年の10月に出版する予定の本が1冊しか見込めなくて困っているという。

書店での平積みのスペースを一度

もっとみる
付箋がふさふさ

付箋がふさふさ

単行本の編集は、この上なく緻密な作業だった。

文章については自分なりに細かいつもりだったが、それは書くほうの文章。

赤ペンしか持たない編集者として一冊の本に神経を隅々まで行き届かせるには経験と時間を必要とする。

誰にでも最初の仕事というのがあるものだけれど、わたしもここアルクでの初めての書籍と秋山さんにハードに鍛えられた。

結婚したばかりということもあり、家事と仕事のプレッシャーが一度にや

もっとみる
人生成り行き

人生成り行き

単行本編集の話を続ける前に、談志師匠について書いておこう。

文筆修業の直接の師ではないけれど、わたしの人生でもっとも大切な人のひとり。

伊丹さんのことを書いて談志師匠のことを書かないと向こうですねてしまいそうだし。

4歳のときに日劇で林家三平さんを観て以来、わたしは演芸と相当近しく育った。

日曜日の昼間は「大正テレビ寄席」を見て「がっちり買いまショウ」を見てから「末広演芸会」。

お盆とお

もっとみる
書籍の編集へ

書籍の編集へ

27歳、わたしは結婚した。

それを機に10代からお世話になった週刊朝日編集部をおいとまし、神保町にあった編集プロダクション「アルク」に週三日のアルバイトとして雇っていただいた。

新婚旅行から帰った翌日に出社するものの、すぐにインフルエンザで倒れ、仕事を始めたのは次の週だった。

社長は秋山晃男さん。

青土社から独立されて、音楽関係の出版に特化したアルクを始められたそうだ。

クラシック音楽を

もっとみる
OL コンサイス

OL コンサイス

24歳になったころ、婦人欄担当になった加賀さんから「OLのともだちってたくさんいる?」と聞かれた。

中高大女子校だったので、同級生は大多数がまだOLだった。

そういう意味のことを答えると、加賀さんは、彼女たちに取材してOLのいまの流行りでコラムが作れないかな、という。

わたしは彼女たちの内輪の言葉を見出しに立てて本文でエピソードを書いたらいいと思う、と提案。

そのままOLの流行語辞典を連載

もっとみる
別冊は別室で

別冊は別室で

「週刊朝日」からも別冊が出ることがあった。

甲子園別冊はレギュラー。

特別の企画で作られたものでわたしが関わったのは「日本語」と「アメリカ西海岸」と「東京」の別冊だった。

別冊は、出版局の奥のほうにある「別室」で編集する。

5人も入ると満員の感じの小部屋だ。

ポットとインスタントコーヒーやティーバッグを置いて、いつでもお茶を飲めるようにしたりするのも楽しかった。

「日本語別冊」は平泉さ

もっとみる
一生物

一生物

「山藤章二の似顔絵塾」の単行本が出版されたのは82年の11月。

わたしが大学を卒業した年だ。

出版局の「図書」という部門の天羽さんは、似顔絵塾が始まったときから「これは単行本にできる」と思っていたそうだ。

モノクロで始まってからの24週分、掲載時の入選6作に次点24作を加えて編集した。

あわせて各週の入選作のモデルから一人を選んで、山藤さんが巻頭の「塾長あいさつ」でいったところの<描かれた

もっとみる
塾長秘書として

塾長秘書として

大学4年生のとき、宮本貢さんが「山藤章二の似顔絵塾」を企画した。

「塾長秘書になってくれるかな」

彼のこの一言で、山藤塾長と塾生たちとの5年に渡るおつきあいが始まった。

似顔絵の課題は自由。

ハガキに描いて編集部に送ってもらう。

塾長は土曜日に編集部にいらっしゃり、その週に届いた作品を1枚ずつ丁寧にすべてご覧になる。

最初に分けた候補の山から6枚選んで、レイアウトも塾長がされる。

もっとみる
暗号解読倶楽部

暗号解読倶楽部

編集委員の平泉さんがある大御所ミステリー作家の担当になった。

「忠臣蔵」の前だったろうか。

美人姉妹が主人公の連載が始まった。

しばらくしたころ、平泉さんに会ったら元気がない。

「どうしたの」

「これ…」

先生の原稿のファクスをわたしに見せる。

太字の万年筆で書かれた文字が…

「…読めないね」

「うん…」

一枚前のを見せてくれた。

行と行の間に平泉さんが赤ペンでぜんぶ書き直し

もっとみる
前号までのあらすじ

前号までのあらすじ

月曜日は「週刊朝日」の校了の日だった。

週刊誌は綴じてある真ん中のページ(正しくは「折」といって8ページ単位)から作っていく。

月曜日にはすべてのページの文字原稿と写真と書き文字とイラストと漫画と広告…を完成させて、あとは印刷するだけにしなくてはならない。

それが「校了」だ。

記者、編集委員、デスク、編集長、レイアウトをする人、校正する人、全員でゴールめがけて走り込むのだ。

わたしもある

もっとみる
修羅場にて

修羅場にて

編集者として、わたしが好きな仕事の一つにテープ起こしがある。

いまでは「テープ」は使わないだろうけれど、わたしがしていた頃はカセットレコーダーだった。

MacBookもなかったから、原稿用紙と鉛筆。

プレイを押してはすぐポーズ。

その間の数語を書き取る。

またプレイを押してポーズ、書き取る。

その繰り返し。

ときどき書き損なってリワインド。

ひたすら、耳と頭と手をぐるぐる酷使する。

もっとみる
遠くが見える日

遠くが見える日

篠山紀信さん撮影の「女子大生表紙写真館」。

当時「週刊朝日」の目玉といってもよかっただろう。

なんといっても宮崎美子を輩出した企画だ。

編集委員の平泉悦郎さんが担当になり、わたしも裏方を手伝うことになった。

応募の手紙と写真を1枚のルーズリーフにに切り貼りする仕事から始めて、選考当日の手伝い、撮影前日に上京してきた地方の女子大生を半日東京案内して、旅館にいっしょに泊まり、翌朝撮影現場に送る

もっとみる