『レタスクラブ』からわたし主宰の読者グループを作り、アンケートでページを構成したいというオファーがあった。 1994年当時、アンケートを集めるといったら道具はファクスだ。 投稿欄の常連読者を中心としたチームに、質問ファクスを送って回答してもらい、わたしはそれを読んで面白い答えをピックアップ、コメントをつけて見開きの記事にする。 連載タイトルは「爆笑タイムズ」に決まった。 漫画家の田島みるくさんが3コマ漫画で迫力を加えてくれる。 第1回のテーマは「うちの冷蔵庫のビンテ
連載エッセイの依頼を最初にくれたのは『週刊ポスト』だった。 東野圭吾さんと交互の隔週連載。 タイトルは「かわいくなるまで待って」と自分でつけた。 OLから女性全般にまつわる話を、男性読者向けに書いた。 毎回わたしの写真が入る。 担当編集者は、わたしが結婚していることは「内緒にしておきますね」といった。 次が創刊まもない『日経WOMAN』。 日本経済新聞社の出版局の人たちは、朝日新聞社の人たちとは少し違う雰囲気。 硬派でスマートな感じがした。 朝日新聞社の出版
『部長さんがサンタクロース』(はまの出版)を出版して、最初にインタビューを申し込んできてくれたのは「夕刊フジ」の三保谷浩輝さんだった。 カメラを肩に一人で荻窪までやってきた三保谷さんは、インタビューの後、外で写真を撮りながら、 「羽生さんは結婚されてるんですか」 と聞いた。 「してるんですよ」 かっこ笑、みたいな雰囲気になった(笑) それから三保谷さんとは親しくなって、いっしょに競馬旅行にもいく仲間になった。 かっこ前夫もいっしょにね。 三保谷さんは「お局さま
単行本を書き下ろすことは決まった。 さて、テーマはなんにするか。 当時女子大生ブームはもう終わっていた。 いっぽう『週刊文春』では「OL向上委員会」という、OLにアンケート調査をしたり投稿を募ったりしてOLのライターが構成する見開きページがあった。 これがとても面白かった。 構成している人たちのセンスがよかったのだ。 次はOLブームがくる、もうきているのかも、と思った。 わたしも数年前に『週刊朝日』で「OL コンサイス」を連載していた。 OLの会社生活の面白が
編集プロダクション・アルクでの仕事が落ち着いてきたころ、思いがけず単行本を書かないか、という話が舞い込んできた。 『週刊朝日』でお世話になり親しくもしてもらっていた川口優香里さんが、はまの出版という出版社を紹介してくれたのだ。 はまの出版では月に2冊ずつ新書版のエッセイを出版していた。 88年の10月に出版する予定の本が1冊しか見込めなくて困っているという。 書店での平積みのスペースを一度失うと次の月に2冊出してももう1冊しか並べてもらえないとか。 話を聞いたのは8
単行本の編集は、この上なく緻密な作業だった。 文章については自分なりに細かいつもりだったが、それは書くほうの文章。 赤ペンしか持たない編集者として一冊の本に神経を隅々まで行き届かせるには経験と時間を必要とする。 誰にでも最初の仕事というのがあるものだけれど、わたしもここアルクでの初めての書籍と秋山さんにハードに鍛えられた。 結婚したばかりということもあり、家事と仕事のプレッシャーが一度にやってきた。 いま思い出そうとしても、記憶があまり定かでない。 覚えているのは
単行本編集の話を続ける前に、談志師匠について書いておこう。 文筆修業の直接の師ではないけれど、わたしの人生でもっとも大切な人のひとり。 伊丹さんのことを書いて談志師匠のことを書かないと向こうですねてしまいそうだし。 4歳のときに日劇で林家三平さんを観て以来、わたしは演芸と相当近しく育った。 日曜日の昼間は「大正テレビ寄席」を見て「がっちり買いまショウ」を見てから「末広演芸会」。 お盆とお正月には日比谷の東宝名人会に連れていってもらい、前のほうで「あはは」と笑っては「
27歳、わたしは結婚した。 それを機に10代からお世話になった週刊朝日編集部をおいとまし、神保町にあった編集プロダクション「アルク」に週三日のアルバイトとして雇っていただいた。 新婚旅行から帰った翌日に出社するものの、すぐにインフルエンザで倒れ、仕事を始めたのは次の週だった。 社長は秋山晃男さん。 青土社から独立されて、音楽関係の出版に特化したアルクを始められたそうだ。 クラシック音楽を愛しておられるせいか、声と話し方はまるで指揮者のそれのように音楽的でノーブルだっ
24歳になったころ、婦人欄担当になった加賀さんから「OLのともだちってたくさんいる?」と聞かれた。 中高大女子校だったので、同級生は大多数がまだOLだった。 そういう意味のことを答えると、加賀さんは、彼女たちに取材してOLのいまの流行りでコラムが作れないかな、という。 わたしは彼女たちの内輪の言葉を見出しに立てて本文でエピソードを書いたらいいと思う、と提案。 そのままOLの流行語辞典を連載することになった。 タイトルは「OL コンサイス」と案を出し、加賀さんが決めて
「週刊朝日」からも別冊が出ることがあった。 甲子園別冊はレギュラー。 特別の企画で作られたものでわたしが関わったのは「日本語」と「アメリカ西海岸」と「東京」の別冊だった。 別冊は、出版局の奥のほうにある「別室」で編集する。 5人も入ると満員の感じの小部屋だ。 ポットとインスタントコーヒーやティーバッグを置いて、いつでもお茶を飲めるようにしたりするのも楽しかった。 「日本語別冊」は平泉さんが「日本語のルーツはタミル語」と説く学習院大学の大野晋先生に取材した本誌の記事
「山藤章二の似顔絵塾」の単行本が出版されたのは82年の11月。 わたしが大学を卒業した年だ。 出版局の「図書」という部門の天羽さんは、似顔絵塾が始まったときから「これは単行本にできる」と思っていたそうだ。 モノクロで始まってからの24週分、掲載時の入選6作に次点24作を加えて編集した。 あわせて各週の入選作のモデルから一人を選んで、山藤さんが巻頭の「塾長あいさつ」でいったところの<描かれた側の感想、反論>を収録。 なかほどにはさまれた「特別講座」のモデル3名も含めて
大学4年生のとき、宮本貢さんが「山藤章二の似顔絵塾」を企画した。 「塾長秘書になってくれるかな」 彼のこの一言で、山藤塾長と塾生たちとの5年に渡るおつきあいが始まった。 似顔絵の課題は自由。 ハガキに描いて編集部に送ってもらう。 塾長は土曜日に編集部にいらっしゃり、その週に届いた作品を1枚ずつ丁寧にすべてご覧になる。 最初に分けた候補の山から6枚選んで、レイアウトも塾長がされる。 その後、選評もご自分で原稿用紙に書かれる。 わたしはそこまで待っていて、レイアウ
編集委員の平泉さんがある大御所ミステリー作家の担当になった。 「忠臣蔵」の前だったろうか。 美人姉妹が主人公の連載が始まった。 しばらくしたころ、平泉さんに会ったら元気がない。 「どうしたの」 「これ…」 先生の原稿のファクスをわたしに見せる。 太字の万年筆で書かれた文字が… 「…読めないね」 「うん…」 一枚前のを見せてくれた。 行と行の間に平泉さんが赤ペンでぜんぶ書き直していた。 数文字ずつ朱を入れるくらいでは入稿できないのだ。 「すごく時間がか
月曜日は「週刊朝日」の校了の日だった。 週刊誌は綴じてある真ん中のページ(正しくは「折」といって8ページ単位)から作っていく。 月曜日にはすべてのページの文字原稿と写真と書き文字とイラストと漫画と広告…を完成させて、あとは印刷するだけにしなくてはならない。 それが「校了」だ。 記者、編集委員、デスク、編集長、レイアウトをする人、校正する人、全員でゴールめがけて走り込むのだ。 わたしもある時期から月曜日遅くまで編集部に残るようになった。 森村誠一さんの小説「忠臣蔵」
編集者として、わたしが好きな仕事の一つにテープ起こしがある。 いまでは「テープ」は使わないだろうけれど、わたしがしていた頃はカセットレコーダーだった。 MacBookもなかったから、原稿用紙と鉛筆。 プレイを押してはすぐポーズ。 その間の数語を書き取る。 またプレイを押してポーズ、書き取る。 その繰り返し。 ときどき書き損なってリワインド。 ひたすら、耳と頭と手をぐるぐる酷使する。 いつしか無我の境地に至り、テープ起こしハイがやってくる。 村松友視さんが「
篠山紀信さん撮影の「女子大生表紙写真館」。 当時「週刊朝日」の目玉といってもよかっただろう。 なんといっても宮崎美子を輩出した企画だ。 編集委員の平泉悦郎さんが担当になり、わたしも裏方を手伝うことになった。 応募の手紙と写真を1枚のルーズリーフにに切り貼りする仕事から始めて、選考当日の手伝い、撮影前日に上京してきた地方の女子大生を半日東京案内して、旅館にいっしょに泊まり、翌朝撮影現場に送る、なんてこともした。 選考は、朝日新聞社の会議室で行われた。 合間の休憩時間