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暗号解読倶楽部


編集委員の平泉さんがある大御所ミステリー作家の担当になった。

「忠臣蔵」の前だったろうか。

美人姉妹が主人公の連載が始まった。


しばらくしたころ、平泉さんに会ったら元気がない。

「どうしたの」

「これ…」

先生の原稿のファクスをわたしに見せる。


太字の万年筆で書かれた文字が…

「…読めないね」

「うん…」


一枚前のを見せてくれた。

行と行の間に平泉さんが赤ペンでぜんぶ書き直していた。

数文字ずつ朱を入れるくらいでは入稿できないのだ。


「すごく時間がかかるんだ」

「かかるね」

「一枚見てくれる?」

「うん」


彼のそばの机を借りて、わたしも赤ペンを握った。

平泉さんと二人だけの暗号解読倶楽部の発足だった。


万年筆が太いことが解読をより難解にしている。

かつ、ファクスだと濃淡がわからないので、筆勢から推察することもできない。

読めたところから文脈をたどって類推し、仮に書いてみて、その先でちょっと読めたところから遡って調整する、の半返し縫いだった。


数号分先んじている平泉さんの解読例を見て「あっ、そうか」と気づくものもあった。

その日はわたしが2枚くらいで、残りは平泉さんだった。

原稿用紙8枚はあったように覚えている。


「助かったあ、ありがとう。来週も頼める?」

平泉さんが困るとくまさんが困っているみたいでいやとはいえない。

「うん、来週もくるね」


翌週からは半分ずつに分けた。

やや、パターンが読めてきた。

「つ」と「う」は、どちらも二つの点で構成されていて、一点めの向きがほんのちょっと違うだけ。

暗号というより、もはやモールス信号のようだった。


ある週、二人で考えても考えても、どうしてもわからない二文字があった。

漢字ではある。

熟語なのだ。

前後の文脈からすると名詞のように思える。

でも、わからない。


平泉さんが最後の最後の手段に出た。

先生宅に電話を掛けるのだ。

提督へのホットラインばりに、めったに掛けてはならない電話を。


「読めなくて」などとはもちろんいえない。

「申し訳ありません、編集部のファクスの調子が悪く、二文字だけなのですが、かすれてしまっていまして、ご教示いただけますでしょうか」


お答えは「煙草」だった。

「たあばこおおお」

叫ばずにはいられない。

「煙草」だと思って見れば「煙草」に、見えたとはいいにくい。


それからも暗号解読倶楽部の活動は続いた。

8枚ぜんぶわたし一人で解読した週もある。


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