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修羅場にて


編集者として、わたしが好きな仕事の一つにテープ起こしがある。

いまでは「テープ」は使わないだろうけれど、わたしがしていた頃はカセットレコーダーだった。

MacBookもなかったから、原稿用紙と鉛筆。


プレイを押してはすぐポーズ。

その間の数語を書き取る。

またプレイを押してポーズ、書き取る。

その繰り返し。

ときどき書き損なってリワインド。

ひたすら、耳と頭と手をぐるぐる酷使する。

いつしか無我の境地に至り、テープ起こしハイがやってくる。


村松友視さんが「週刊朝日」で対談のホストを務めたことがあった。

担当は古田清二さん。

わたしが同行したのは、原田芳雄さんの回と三代目市川猿之助さんの回だった。


原田さんのときにはふぐやさんで、ヒレ酒を酌み交わす彼と村松さんを鑑賞するかのようなひとときだった。

原田さんのもしゃもしゃした前髪の裾から始まる鼻の線が美しくて、こんな男の人がいるんだ…と思考停止になっていた。


猿之助さんとは代官山の小川軒で。

わたしたちは横の小さなテーブルでサンドイッチをかじりつつ、メモを取りつつ、お二人のフルコースを、いえ、対談を見守った。


村松さんには毎回秘書のような男性がついてきていた。

若くてあんちゃんの感じがして、頭の回転がとんでもなく速い。

情報センター出版局の編集者の加田昇さんだった。

入社したての20代半ばに、中央公論の編集者だった村松さんに『私、プロレスの味方です』を書かせた伝説の天才編集者、とはちょっとほめすぎ。

この出会いをきっかけに、彼とは渡世をともにするきょうだい分となった。


対談が終わった。

猿之助さんと村松さんをそれぞれハイヤーに乗せてお見送りし、古田さんと加田さんとわたしはタクシーで新聞社に帰る。

この時点で10時半。


しばらくお茶を飲んで休み、おもむろに対談の録音テープをそれぞれ引き取る。

このために三本に分けて録っていたのだ。

なんと締切日にしか対談のスケジュールが取れず、なんとしても今夜のうちに、というか朝までに、入稿しなければならない。


加田さんとわたしは空き机で、古田さんは自分の机で、起こしの体勢に入る。

編集部の人たちはだんだんと少なくなっていく。

プレイ、ポーズ、プレイ、ポーズ、リワインド、プレイ…

わたしたちの他、誰もいなくなった。

トイレに立ったり、自動販売機にコーヒーを買いにいったり、三人ともときどき動く。

「いまどのへん」と聞き合ったりもする。


3時過ぎ。

古田さんができあがり、わたしができあがり、加田さんもできあがった。

受けもったテープの音声をすべて書き取ったのだ。

原稿用紙を古田さんのところに集めて、行数の調整を始める。

削って寄せるだけでは意味が通じなくなるから、技が必要だ。

三人で額を突き合わせて、ああしよう、こうしよう、と相談する。

古田さんがきれいな字でまとめていく。


ぴったり、入ったあ。

がらんとした出版局にわたしたちの歓声が響くころ、窓の外は明るくなっていた。


加田さんと、何度もこの夜の話をした。

楽しかったね、わたしたちサンドイッチとコーヒーだったよね、修羅場っていいな、うん、集中力全開でね。


わたしたちは、編集者として似たタイプだった。

インタビュイーや著者に感覚で寄り添い、言葉を引き出していく。

ときには相手と一体化してしまうほどに。

彼のおかげで、自分の筆力というものを知ることもできた。

これからもずっと、わたしが言葉を綴れるかぎり、妹分としてついていこう。


船場の電器屋さんのぼんだった加田さんは「サくる」と「さ」を高く呼んだ。

バイリンガルのように完璧な標準語でしゃべっていた彼の、たった一つの関西訛りだったように思う。


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