最近の記事

フレーム・パー・セカンド

時間の感じ方について、ダンス部で初めて舞台に立った日の記憶がある。踊っている最中、何度も練習した曲がいつもより少し遅いテンポで聞こえて不思議に感じたのだった。そのあとしばらくして「動物は寿命の長さが違っても一生の脈拍数は同じくらい」という話を聞いたときに、あの感覚はこれかも、と思った。 一生の脈拍数が同じということはつまり寿命が短い動物の脈は速く、長く生きる動物はその逆であり、その結果として”感覚的な”一生の長さが同じくらいになる、と仮定してみる。 ここでイメージする脈拍数

    • カラフルかつパワフル

      映画館で『ゴーストワールド』を観て、その日のうちにまんまと鮮やかな色の服を買った。この冬の私には明らかに色が足りない! とびきりカラフルでパワフルなものを観るぞ〜と出かけたものの、思いのほか苦しい余韻が続く映画だったな。この作品のことは「あの2人」の物語だと聞いていたけど、いや、これは主人公ひとりのお話じゃん……。 彼女のことをすてきだとか痛いなとか不憫だなとか色々に感じはしたけど、それにしても、自分のお気に入りメンバーに囲まれて生きることの幸せよ。そしてその危うさよな。親

      • 片目でのぞいて、ずっと覚えて

        人前でカメラを使ってたら「ひとみさんは左目で写真を撮るんだね〜」と言われて絶句してしまった。写真を撮る瞬間に自分は片目だ、ということをその時はじめて自覚した。 いやそれにしてもカメラで写真を撮り始めたのはもう15年くらい前で、今まで私はずーっと左目で写真を撮っていたのか。写真を撮る行為については何度も何度も考えているのに、その時自分がどんな状態でいるかに思いを馳せたことは一瞬たりともなかった。その無自覚が、すっかりカメラに馴染んだ私の身体を大きく揺らした。 - 後輩が最近

        • すべて不可逆の夏

          8月最終日、仕事を終えてレイトショーを観に行った。体調崩すわ辞令出るわ旅行するわで混乱を極めていた1か月をそっと閉じる感覚でスクリーンをぼんやり眺める。 あまり何も考えたくなかった。その数日前の夜、私はひとり心をぐちゃぐちゃにしてベッドの中で泣いたり暴れたりしたのだった。難しいことにその苦しい時間は、楽しいとか愛おしいとか、かけがえのない感覚の揺り戻しとしてやってくる。自分ではどうしたら克服できるかわからなくて、これがいつか解ける呪いだといいなと思う。今年はそうして呼吸を直し

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          世界にとり残される季節の特別なさびしさについて

          カメラロールの写真が1枚も増えていないのを毎朝一瞬だけ確認する日々。 お盆の直前に体調を崩して、予定キャンセルのち休養のち仕事と雑務、と1人であくせくしていたらあっという間に平穏な日常から遠ざかっていた。 回復して久しぶりに外へ出てみるといい天気なのに世界が驚くほど静かで、ああこれは年末と同じ空虚だ、自分以外の全員に予定がある日、みたいなさびしさ!! と悲観にくれようとしたが暑くてやめた。 真夏に孤独はしっくりこない。 外は灼熱で忙しなく、騒々しく、人々は集って笑って力い

          世界にとり残される季節の特別なさびしさについて

          書いておくこと

          1年ごとに手帳を新しくしている。普通のノートに簡素なカレンダーがくっついたもので、用途はほぼ自由帳。旅の計画やレシピをメモしたりノートをとったり、日記や落書き、書き写しや書き殴りがごちゃごちゃに増えていく。 基本的に私はSNSに載せたり人に話したりしないことを手帳へ書いていて、それは大抵つまらないことか苦しいことだ。そこには美しい物語も結論もない。それを一発書きするものだから文法や文体がめちゃくちゃ荒くて独特で、自分でも理解に時間がかかるような怪奇文に仕上がる。 いつもなら

          書いておくこと

          明るい人

          誕生日がきた。私は夏至うまれであることをとても気に入っていて、小さいころ母に言われた「1年でいちばん陽の長い日に生まれたあなたは明るい人間であれ」という言葉を自分の使命のように思い出している。 私にとって「明るくありたい」はたぶん「人を幸せにしたい」ということだ。 誰かに光をもたらす人。 私の人格そのものはあまり明るくない。まぶしい魅力や朗らかな陽気さを備えるのには向いてないことが歳をとるたびに分かってきて、でも周囲の人に自分との時間を楽しく感じてほしいなとか、好きな人た

          明るい人

          共鳴と境界

          量子物理学の研究かなにかで 、ものすごく小さな個体を半分にして隔離する話がおもしろかった。半分にされた2つはまったく影響されない距離にあるはずなのに、一方が反応を起こすともう片方も同じ反応を示したらしい。 これはとても極端な例だけど、人間の親子やきょうだいが離れた場所でお互いの状態を察知しあう話に似ているなと思った。おもしろいのは2つの個体が何かを「共有」しているのではなく一方がもう片方に「共鳴」していること、発信者と受信者がいて瞬間的なものである、ということだ。 もう少

          共鳴と境界

          せわしなくて透明になる

          最近の生活、ずっと目が回っているようだ。 仕事が地味~に忙しくて、朝はちょっと早く出るし帰りはちょっとだけ遅いし帰宅するとなんかもうクタクタで、気絶するように寝ている。当たり前だけど仕事中は仕事に時間を使っているわけだし、そのあとがクタクタとなるとあまりその他のことができない。できないどころか意識すら向かなくなってきた気がする。そうなると仕事が唯一にして最大の活動じゃん?というのを内心は否定してるけど、いざ人に「最近のトピックス」みたいな話をしようとしたときに引き出しがからっ

          せわしなくて透明になる

          旅について雑感

          京都には、大学時代の4年間住んでいた。 夜の鴨川散歩も行きつけの喫茶店もない地味な暮らしだったけど、美しい瞬間や苦しい時間を私はたくさん経験した。その記憶は京都とともにあるし、かけがえのない4年間とともに京都という街がある、とも思える。 だからここ数年の京都旅行は、過去の自分と重なりにいく旅、みたいな特別な感覚だった。どこか具体的な場所を訪れて懐かしむのとは違って、たとえば四条通の雑踏の中で、川と山々を見晴らす橋の上で、静かな寺の境内で、いつか味わった感情が呼び起こされる

          旅について雑感

          5月2日の夢日記

          夢の中で小さい頃の自分に会ったのは初めてだった。 私の夢にはよく「小さい子ども」が出てくる。 その配役は架空の弟妹とか自分の産んだ子とか全くの他人とか様々で、とにかく知らない子だということだけが共通している。ある時、夢占い的には何かの象徴なのか?と調べてみたら「それは自分自身である」という回答を見つけて、腑に落ちるほどではなかったけどひとまずそう思っておくことにした。 というのも、知らない子どもたちと私はけっこううまくやっているからだ。夢に出てくる子どもは毎回別人だけど、だ

          5月2日の夢日記

          距離は厚みでもあってほしい

          いつからか、人に対する「愛着」という感情をうしろめたく感じている。 なぜならそれが自分本位な心の動きだからで、そんなものをあまり信頼したくないからだ。 たとえば自分の周囲にいる人たちについて「私が ”この人とはとても親しい・相手も自分のことをある程度好いている” と思うのは、相手からそう感じるのではなく単に強い愛着心の裏返しなのではないか?」と思うことがある。極端にいえば、自分が親しみや好意を感じるだけで、愛着があるというだけで「私たちは仲がよい」と勘違いできてしまえるんじ

          距離は厚みでもあってほしい

          人生は短いし、できれば独りでいないほうがいい

          こんな感じの台詞があった。最近観た映画のワンシーンだ。死とか性とか汚物とか狂気とか、私たちが苦手な(なぜなら理解できないうえに抗えないから)ダークサイドの"逃れられなさ"について力の限り愛おしく編まれた物語で、あたたかいような冷たいような不思議な気持ちになった。 人間が苦手な、逃れられないし理解できないもの(つまり本能?運命?性?業?)を仮に暗闇と呼ぶことにしよう。 近ごろ様々な暗闇についてたびたび考えるのだが、いつまで経ってもまとまらない。行き着く先はいつも同じ、自分が抗

          人生は短いし、できれば独りでいないほうがいい

          そんな論理はない日記

          春めいてきたようで、まだまだ長い冬と春の間だ。 3月になってから仕事の時間がとてもせわしなく、少し参ってしまった。やる人のいない業務を引き受けたり知らない人からの理不尽な叱責に耐えるだけの日があったり、不条理!!と心の中で叫ぶ一方、こんなことで弱音を吐くとは若手の甘えをいつまで続けるつもりだよと情けなくなってもいるここ1週間である。 せわしない時に感じる絶望には言葉にまつわるものが多い。 「今日は職場でしか声を発していないな」とか「今日の私の発言、ほとんどが謝罪だな」とか。

          そんな論理はない日記

          1日は長い

          この季節は毎朝動き出すまでに1時間くらいかかるのだが、今日はすぐに身体が起き上がった。顔を洗い、ストーブをつけ、コーヒーを淹れながらパンを焼く。ここ半年ほど気に入っている朝食は、かたくて香ばしいパンをオリーブオイルでカリカリに焼いたやつ。コーヒーはカップのぎりぎりまで淹れて、それを冷ましつつゆっくりすすって量を調整する。と同時に窓の外を眺めるのが習慣で、そのまま向かいの家を見下ろした。その家はおそらく空き家で、はがれた網戸が風にゆれている様子や屋根に積もったお布団のような雪が

          1日は長い

          落語ってすごいな

          不眠にいいと教わったのをきっかけに落語を聞き始めて数年、ついに寄席へ行った。音源と映像以外で落語に触れるのはほぼ初めてだ。 会場の様子、舞台上でふるまう落語家、そして噺の内容、さまざまなものに新鮮な違和感があってとてもおもしろかった。 ・舞台と客席の関係性 開演直後から驚いたのは、客席の照明がずっと点いていることだ。なるほど落語は上演ではなくライブで、舞台と客席の境界が閉じていないんだな。お互いがよく見え、お互いが働きかけあうことが前提なのかな。 とはいえ、もちろん落語

          落語ってすごいな