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せわしなくて透明になる

最近の生活、ずっと目が回っているようだ。
仕事が地味~に忙しくて、朝はちょっと早く出るし帰りはちょっとだけ遅いし帰宅するとなんかもうクタクタで、気絶するように寝ている。当たり前だけど仕事中は仕事に時間を使っているわけだし、そのあとがクタクタとなるとあまりその他のことができない。できないどころか意識すら向かなくなってきた気がする。そうなると仕事が唯一にして最大の活動じゃん?というのを内心は否定してるけど、いざ人に「最近のトピックス」みたいな話をしようとしたときに引き出しがからっぽだったので焦った。
私は、思い出せない日々を目まぐるしく生きている……。

という文章を書き残してまた気絶していた。


①早歩きになる ②移動や作業をしながら食事している ③トイレに行く回数が減る、というのが個人的な「せわしなさチェック項目」なのですが、それでいくと最近はちょっと心配なゾーンにいる。忙しく働くことは好きなほうだ、けど残業や疲労によって罪のない予定が狂う日々を繰り返していてはたまらない。

先ほどの文で私が嘆いているとおり、今つらいのは生活に"自分のパート"が極端に少ないことだ。
それはおそらく急いでいることと疲れていることが原因、つまりせかせかしながらぼーっとしているわけで、たしかに最近は最小限の意識で動いているような気分でいる。酒に酔いながらてきぱき動いている時に似ている。単に自由時間を作ってあげるだけでは酔いは醒めないらしく、でも何らかの行動が突破口になればいいなと思って四苦八苦する毎日だ。

四苦八苦の一環で、というかストレス発散のため職場から家まで歩いて帰ることがある。だいたい50分くらい、大きな通りをまっすぐまっすぐ、お気に入りのラジオを聴きながら。

ある日、夜の道からは明るい室内がよく見えた。

私は、私の視線など気にも留めずに繰り広げられる知らない人の生活を鑑賞する。飲み屋で笑う人々やジムで勤しむ人々、髪を仕上げる美容師と客、窓を開けて外の空気を確認する住人。それらを眺めながら「私はいま透明人間みたいだ」という感想が急に思い浮かんだ。
自分が限りなく表面だけの存在になり、外側で起こっていることが自分にとって出来事のすべてになるような感覚。それは、自分なりに考えたり感じたりする時間が消えていくこの日々の感覚だったのかもしれない。

私は自分の内側に生まれる感情や言葉がより自分の本来であり基本だと思っているようで、それがなくても仕事や生活は成立するという考えを拒んでいるきらいがある。
だからその夜道での実感には心底絶望すると思いきや、透明になって歩くのはとても心地がよかった。こうしていれば目を回さずにすむ気もするのだ。