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距離は厚みでもあってほしい

いつからか、人に対する「愛着」という感情をうしろめたく感じている。

なぜならそれが自分本位な心の動きだからで、そんなものをあまり信頼したくないからだ。
たとえば自分の周囲にいる人たちについて「私が ”この人とはとても親しい・相手も自分のことをある程度好いている” と思うのは、相手からそう感じるのではなく単に強い愛着心の裏返しなのではないか?」と思うことがある。極端にいえば、自分が親しみや好意を感じるだけで、愛着があるというだけで「私たちは仲がよい」と勘違いできてしまえるんじゃ?ということだ。
私は自分の愛着心を自覚せずに思い上がるようなことだけはしたくないと思っていて、だから自分が抱く愛とか情の処理はときどき難しい。

愛着という感情はまた、その対象を失うことへの悲しさや恐怖でもあるからうしろめたいのだと思う。現実味のない心配をしたくなるのも愛ゆえなのかもしれないけど。
物理的なお別れではなくても、精神的な距離が離れて( ≒ 趣味や性格や生活における共通項が減って)しまうことへの抵抗だってある。うーん、ここまでいくともはや「自分にとって理想的な関係の人間」に対する幼稚な執着といったほうがいいのだろうか。愛着があるとそんなことさえ頭をよぎるから厄介だ。
……というようなことをたまに考えては落ち込んでいる。たぶん卑屈になることで安心したいのでもあろう自分に嫌気がさしています。


こうやってウジウジしているのはきっと私が未熟だからだ、と信じたい。
青年時代は溢れんばかりの出会いと人間関係が日々を満たしていたから、そこを通過しつつある今の私はたくさんの可能性を過剰に恐れているだけだ、と。
それにこれからは人間関係のありかたを新しく享受できるようになっていくかもしれない、とも。


このまえ大学時代の友人と久々に会って感じたのは、我々は一旦別れて遠い人生を過ごし別の考え方をするようになったが、こうして開いた距離というのも案外に愛おしくなってきた、ということだ。
自分とは異なる生活や思考という「遠さ」が自分の世界にもたらされた厚みのようにも感じられて、意外とそこには悲しさがなかった。
そうやって相手に執着することなく前向きな感情を抱けることも愛着をもつことの作用じゃん!と思えたらいいのかも……と都合よく考えたりした。