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全然映画の感想じゃない

軽い気持ちで選んだラブストーリーを観て大泣きしてしまった。
私、なんだかいつも驚くほど簡単に泣く。ただ涙もろいのではなく、本来の物語から勝手に脱輪し、勝手に想像を膨らませて勝手に泣いている。

今回の映画も、気がついたらストーリーとは全然関係がないことを考えて泣いていた。「愛しさと死をときどき一緒に思い浮かべてしまうのはなぜか」ということである。

主人公の女性に想いを寄せる男性が、時間が止まった世界で彼女を海へ連れていくシーンがある。その光景は生者と死者の逃避行のようだった。彼は微笑んだまま動かない彼女に語りかけ、景色を見せ、写真を撮る。弔いのようだ、となんとなく私は思った。

以前読んだ、たくさんの人が死について考えた本を思い出す。『もしも宗教や葬送の文化がないとして、大切な人をあなたはどうやって弔うか?』という質問に寄せられた数々の答えに、映画の彼の行動はよく似ていた。彼女を愛することに対して「これで終わりにしよう」と決意していたから余計にそう思えたのかもしれない。
そういえば私はこの本を読んでから、身の回りにいる大切な人たちの死や不在について時おり考えるようになった。でもその想定はあまりにも難しくて悲しくて、一体何を思い浮かべているのかと呆れる。納得できそうな考えは当然浮かばない。弔いが愛おしみと終わりの儀式だとして、自分はそこで”愛”みたいなものをどんな行為に変換しようとするのだろうか。何をもって終わりにすればいいのだろうか。


映画鑑賞の脱線にはもう1つ展開があった。
動き出さない彼女に懸命に愛を表現する彼を見ていたら、あれ、もしかしてこれは”去る者から残る者に向けた弔い”ともいえるのか?と思えてきた。そんなものないかもしれないが、そんなものがあるような気もする。
もしも自分が大切な人の傍らにおり、でもその人は自分に気づいていなくて、2人がこの先で会えないことを自分が察知していたら、私は死んだ人を弔うのと同じような気持ちで行動するのではないか。そうだとすると弔い的な感情に必要なのは”死”ではなく、最後であるという当人の認識、そして相手が無言であること、なのかも。

先ほど書いた「人の死や不在を時おり考えることがある」のは、この”最後”や”無言”をわりと日常的に感じることができるからかもしれない。
自分の大切な人たちは今も各所で生きているが私の目の前にはいない。だからもう会えないかもしれないし、私の一挙一動に反応してはくれない。同じように私も基本的には誰かにとって不在の人であり無言の人ということになる。これは死が近くにあるみたいな話ではなくて、私たちはすでにほとんど別れの中にある、という見方ができてしまうということだ。その見方をすることで、自分や誰かが「いなくなる可能性」が様々な場面で想起される。
たとえば人を見送る時とか思い出す時とか、自分だけがその人を向いているために、自分がやめたら終わってしまう、と悲しくなる瞬間がある。もしくは自分が誰かに見やられ思い出される時、私は死者と同じでその人に気づけないのを惜しく思う。自分や誰かがいなくなることがどう考えてもあり得ると再確認できてしまい、永遠のお別れを疑似体験しているようなたまらなく悲しい気持ちになるのだ。それでどちらが先なのか、そんな時に愛おしいという感情が込み上げてくる。愛と死が近いといったら大袈裟だけど、でもこのさびしくて苦い愛情は、いつか誰かを弔うための身構えとして今ここにあるのだろうか。