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フレーム・パー・セカンド

時間の感じ方について、ダンス部で初めて舞台に立った日の記憶がある。踊っている最中、何度も練習した曲がいつもより少し遅いテンポで聞こえて不思議に感じたのだった。そのあとしばらくして「動物は寿命の長さが違っても一生の脈拍数は同じくらい」という話を聞いたときに、あの感覚はこれかも、と思った。

一生の脈拍数が同じということはつまり寿命が短い動物の脈は速く、長く生きる動物はその逆であり、その結果として”感覚的な”一生の長さが同じくらいになる、と仮定してみる。
ここでイメージする脈拍数は映像のフレーム数みたいなもので、映像が短くてもfpsが多いぶんゆっくりと"感じられる"はず、みたいな考え方だ。そういえば、飛び回るハエは人間の動きがスローモーションに見えているから我々の動きをかわすのも造作ないらしい。きっとフレームの多い時間感覚があれば受け取れる情報も高精細になるわけで、なんにせよ時間に量があるとすればそれは長さではなく密度なのかもしれない。

ダンスに話を戻すと、おそらくあの時私は瞬間的にハエの感覚に近づき時間を引き伸ばして感じていたんだと思う。それ以来なんとなく、時間は実体というか感覚なんだな~と感じるし「自分がその時どれくらいのfpsで生きているか」みたいなことを一緒に思い浮かべるようになった。費やすフレーム数を変えながら時間を色々な密度で感知している、という捉え方をたぶん気に入ってもいるので。

とはいえ自分のfpsが(脈拍のごとく)緊張度とか集中度とかエキサイト具合によって決定するとして、そのfpsの多さが感覚的な時間を引き伸ばしうるとして、では楽しい1日をあっという間に感じるのはなぜ?といったあたりをうまく説明できないのは、時間の感覚がもっともっと複雑だからだろう。単に時間をゆっくり、長く感じさせてくれるためのfpsではないらしい。

それじゃあ一体何のためのフレームか、と思う。瞬間の手触りを精細に体験するために使うのかもしれないし、あとから鮮明に再生するために使うのかもしれない。わからないけど、現在にしろ過去にしろ、フレームを費やすということが時間を愛おしむ1つの方法だという気はしている。