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旅について雑感


京都には、大学時代の4年間住んでいた。

夜の鴨川散歩も行きつけの喫茶店もない地味な暮らしだったけど、美しい瞬間や苦しい時間を私はたくさん経験した。その記憶は京都とともにあるし、かけがえのない4年間とともに京都という街がある、とも思える。

だからここ数年の京都旅行は、過去の自分と重なりにいく旅、みたいな特別な感覚だった。どこか具体的な場所を訪れて懐かしむのとは違って、たとえば四条通の雑踏の中で、川と山々を見晴らす橋の上で、静かな寺の境内で、いつか味わった感情が呼び起こされるような瞬間を私は楽しむ。
大切な街に大切な記憶が埋まっていることを感覚的に確認できて安心する、これが私にとって京都を旅する効用だった。


5月初旬。京都は思っていたよりも爽やかな初夏で、空に広がる青と鮮やかな新緑がまぶしい。天気がよかったので自転車を借りて、まっすぐ北に向かって川沿いを走った。今日のような美しい景色と心地よい風を、京都に住んでいる時にもよく味わったな。私はこの気持ちよさが好きだ。

しみじみしながら、でもこの感覚は「京都にいたあの頃」だけに重なるわけでもない、とふと感じた。これと似た瞬間を私は人生で幾度となく経験してきて、今ふわっと湧き上がる感覚はきっと様々な場所や時代が混ざり合ったものだ。だから何も思い出せないくらいぼんやりしていて、でも心の深いところにまで響く。
この感情が埋まっていたのはもしかして、街ではなく私の中だったのか。

昔と今の自分にはそれぞれ重なりきらない部分がある。もちろん。けれど混ざり混ざって1人の自分でもあるわけで、旅はなぜかそれをひしひしと感じさせてくれる。


ひたすら自転者を漕いで私は、当時と変わらず川を眺めたり風を受けたり木々を見上げたりした。道すがらの蕎麦屋にサッと入ったり古本屋で変な本をひょいと買ったり、少しだけ大人びた寄り道もした。楽しみ方を少しずつ変えながらずっとその街を好きでいられるのはうれしい。
また時間をおいて、少し違う自分になって訪れることが楽しみになった初夏の京都旅だった。