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そんな論理はない日記

春めいてきたようで、まだまだ長い冬と春の間だ。
3月になってから仕事の時間がとてもせわしなく、少し参ってしまった。やる人のいない業務を引き受けたり知らない人からの理不尽な叱責に耐えるだけの日があったり、不条理!!と心の中で叫ぶ一方、こんなことで弱音を吐くとは若手の甘えをいつまで続けるつもりだよと情けなくなってもいるここ1週間である。

せわしない時に感じる絶望には言葉にまつわるものが多い。
「今日は職場でしか声を発していないな」とか「今日の私の発言、ほとんどが謝罪だな」とか。
どれだけ仕事用の言葉だと区別していても、自分の発した言葉なのだという重みを無視できない。

そのうち私は「1日に自分が発した言葉の総和」みたいなものを思い浮かべるようになった。形式的な会話や謝罪があまりにも大部分を占めていて、情緒みたいなものが大きく欠けていて、とても健全とはいえない。特効薬になるであろう人たちにも会いたいと伝えられず、1人の時間ばかりが流れていく。
それでもどうにかして、と私は考えたのかもしれない。家で本を読むとき、気がついたら適当なページを音読してみていた。本に疲れたらピアノを弾きながら歌をいっぱい歌った。人の書いた文章や詩は私のものではないが、声に出すことで私の言葉にもなるし少しだけ情感も加わる……「1日の発言の総和」をそうやって無理やり豊かにすることで絶望の濃度が薄まるとでもいうのだろうか?実に説得力がないし効果もよくわからない。
ただその時はそう仮定して、そう信じたうえで私は自分をどうにか癒そうとしたのだった。