見出し画像

片目でのぞいて、ずっと覚えて

人前でカメラを使ってたら「ひとみさんは左目で写真を撮るんだね〜」と言われて絶句してしまった。写真を撮る瞬間に自分は片目だ、ということをその時はじめて自覚した。
いやそれにしてもカメラで写真を撮り始めたのはもう15年くらい前で、今まで私はずーっと左目で写真を撮っていたのか。写真を撮る行為については何度も何度も考えているのに、その時自分がどんな状態でいるかに思いを馳せたことは一瞬たりともなかった。その無自覚が、すっかりカメラに馴染んだ私の身体を大きく揺らした。

-

後輩が最近『アルジャーノンに花束を』を読んだという。いいね、私もちょっと前に読んだよ、印象深くてけっこう覚えてる、みたいなことを言ったら「読んでどう思いました?」とすごい質問がくる。
設定こそSFっぽいけども、そこでの出来事は"全然起こることだよね"と思って読んだ。というか"私に起こっている"くらい身に覚えがあった。自分が言葉や概念を獲得する楽しさやそれによって人と親密になれる喜びがあり、でも反対側では人と"知性の距離が開く"(距離は水平なことも垂直なこともあると思う)ことによる他者への絶望や自己嫌悪があり。物語ではその位置関係が目まぐるしく変化して、みんな混乱しているのがすごく辛かった。それでその乖離や混乱を埋め合わせるのも加速させるのも愛情、という構図がまた切実で。愛情というやつがしばしば論理よりも決定的な感情であるせいで、期待とか折り合いみたいな不合理じみた姿勢もとってしまうよな〜とか、かなり自分に落とし込んで考えてしまった。もっと前に読んでみたかったし、時間をおいてまた読みたいとも思う!!
読んだのは半年くらい前なのに喋り出したら案外感想が出てきてびっくりした。後輩には「そんなこと考えてたんですねー」とか言われた。いやほんとだよ、そんなこと考えてたんだったわ。

-

詩のすごさとは何なのか?という疑問がずっと頭の片隅にあり、有名な詩集を借りてみたり「詩はどうして生まれるか」という本を読んでみたりしたけど大きな成果はまだない。
それとは別に、自分なりに詩のすごさを言い表すヒントになりそうと思い出したフレーズがある。
・ある小説に「どんな物も"役割"と"詩"をもつ」という一節があった
・あるラジオで「人には人の地獄がある」と言っていた
でもこれらを忘れられないのも「詩的に気に入っている」からにすぎないのか?と思うと無限入れ子になってだめだ。詩を詩で説明してる……
うーんわからん、と思いつつ大学時代に書いた詩っぽいものを読み返してみたら、日記のような具体性はないのにけっこう当時の気分を思い出せておもしろい。が、これが詩であるかをどうやって考えればいいのだろう。そもそも詩的なものとは何?

それで結局、言葉にするまでもないが大切な気がする体験、が詩に近そう?という感覚に留まる。何かに思い悩んだ時間の断片とか、目の前の光景に一瞬だけはっとする孤独な感動とか。
でもこれも思考停止ぎみな憶測だ。

-

この秋も月をよく見た。私は月がとても好きで、どんな気分の時でも心がすっとする。帰り道はいつも月を眺めながら丁寧に歩く。人と一緒に月を見られるとうれしくて胸が一杯になる。
そのためだろう、月を見ている間は月を見たときのことをよく思い出せる気がする。1日前の同じ時間も、月きれい見て!と叫んだいつかの夜も、眠れずに月の光を浴びていたずっとずっと昔の明け方も。
日々の月を覚えておきたいけど、写真にうまく写らないのでカメラは出さない。代わりに片目を閉じてその光景を焼き付ける、それが写真を撮る時と同じ動きだということに最近気がついた。