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共鳴と境界

量子物理学の研究かなにかで 、ものすごく小さな個体を半分にして隔離する話がおもしろかった。半分にされた2つはまったく影響されない距離にあるはずなのに、一方が反応を起こすともう片方も同じ反応を示したらしい。

これはとても極端な例だけど、人間の親子やきょうだいが離れた場所でお互いの状態を察知しあう話に似ているなと思った。おもしろいのは2つの個体が何かを「共有」しているのではなく一方がもう片方に「共鳴」していること、発信者と受信者がいて瞬間的なものである、ということだ。

もう少し近い距離であれば、そのようなことは普通の人間にもわりとよく起こっている。
いわゆる振動体としての「共鳴」(音の波を浴びると身体に衝撃がくる)もあるけど、人間は認知する生き物なので「誰かが発信したものを受信する共鳴」にはきっと振動に限らず色々があるだろう。一緒にいる人の言葉や動作がうつってしまう、というのはその分かりやすい例ではなかろうか。

私が最近それを思わぬ形で感じたのは、先日初めてお笑いのライブを観に行ったときのことだ。
動画よりもライブのほうがおもしろいのはなぜ?と考えたときに「同じ空間にいることでお笑い芸人のテンションが断然伝わってきて、自分の身体が”おもしろく感じている人の身体”に近づいているんじゃないか?」という仮説にいたった。

文章や映像から得られる没入感とは少し違う、何かを受け取ってトレースする快楽(大袈裟にいえば乗り移られる感じ)。感動というよりは身体反応。これ、最終的にはみんなで歌うとか踊るとかそういった「一体になる喜び」に向かう気持ちよさなのではないか、とぼんやり思った。
誰かの感情を「受信する」ということはおそらく、自分の感覚や体験を拡大させうる。まるで、ふわふわしたものを見るだけでその触覚を脳内で再生できてしまうように、限りなく「その感情を体験する」ことに近づけるのかもしれない。



さて昨日は共鳴体験の最たるイベント、カネコアヤノの素晴らしいライブに行った。
音色もリズムも音の波も、言葉も声も些細な動作も。彼女の音楽には私の心と体が喜ぶ要素ばかりがつまっていて本当に幸せな時間だ。
不思議なことに、歌う彼女を前にすると自分もあの切実な歌詞を大声で歌っている感覚になる。そうやって心の中で声を出すと、悲しみも喜びも入り混じった人生の色々な感情が戻ってくるみたいだ。
ひょっとしたらカネコアヤノの音楽には音や言葉になる以前の体験が記録されていて、その歌を受け取りながら私は彼女の人生と自分の人生をごちゃ混ぜに再生しているのかもしれない。
帰り道はその不思議な感覚のことをずっと考えていた。

共鳴することは瞬間の・自分の体験に他ならないのに、過去や他者と限りなく近づく感覚をもたらすことがある。その境界の曖昧を体験できることが私はいつもおもしろい。