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1日は長い

この季節は毎朝動き出すまでに1時間くらいかかるのだが、今日はすぐに身体が起き上がった。顔を洗い、ストーブをつけ、コーヒーを淹れながらパンを焼く。ここ半年ほど気に入っている朝食は、かたくて香ばしいパンをオリーブオイルでカリカリに焼いたやつ。コーヒーはカップのぎりぎりまで淹れて、それを冷ましつつゆっくりすすって量を調整する。と同時に窓の外を眺めるのが習慣で、そのまま向かいの家を見下ろした。その家はおそらく空き家で、はがれた網戸が風にゆれている様子や屋根に積もったお布団のような雪がきれいなのだ。しかし昨晩ふと見たらその分厚い雪がすっかりなくなっており、網戸のはがれた窓からは室内に巨大なズタ袋のようなものが見えた。今朝になると側面に足場が組まれていることにも気づき、この家は間もなく解体されるのだろうと私は思った。先月このコーヒーをすする時間に見た、屋根の雪に射す朝の光があまりにも美しかったのでカメラで写真を撮ったことも思い出した。あの美しい雪は捨てられてしまった。風にきらめく網戸ももうすぐ消えてしまうはずで、それは私の朝にとって大きな喪失であるような気がする。風景の変化はいつも、あまりにも唐突であるか目で見てとらえにくいかのどちらかだ。
窓辺から椅子に移動してカリカリのパンを食べる。部屋に流していたポッドキャストの中で紹介されていたお便りは「ある知見を得た途端、やけにそれが目につくようになる」という内容。ものすごく共感した。あるモチーフが短期間で何回も目に入るとか違う人から同じ話を聞くとか、私は自分の中でそれを「生活の伏線」とか呼んで愛でている。それは偶然や無意識、勘違いによるものだろうから予測不可能で、自分を超越した力が働いているのだよと言われたほうが納得がいくくらいだ。しかし一方でなぜか「生きている実感」みたいな、これは自分が生きている人生なんだなあというでかい感慨がその時にもたらされることもあるから不思議だ。
朝食のあと、そういえば、と『村上春樹全作品』の1巻を本棚から取り出して読んだ。この本に収録されている『使い道のない風景』という文章が私はとても好きなのだ。そこには旅行(移動)する意味とか「理由もなく忘れられない風景」の記憶について書かれている。あまり使い道はない、けれどそこにあった自分を思い出させてくれるような風景、あの空き家は私のそれになるだろうか(まだ解体されていませんが)。

出勤。最近の音楽(沈黙の恋人/阿部芙蓉美)を聴きながら雪道を駅まで歩く。信号のない交差点がいちばん日当りのいい場所で、少しでも車が見えると横断待ちのふりをして光を浴びる。朝から家で色々と考えてしまったのもあり、今日の夜は何かnoteに書こうかしらなどと考えながら電車に乗ってあっという間に職場に着いた。金曜日は全員で朝の掃除をする日だ。掃除機の音でいっぱいになる事務所を抜け出し、薄暗い会議室を1人で掃除する。拭き掃除をしながらずっと文章のネタを考えていた。ここ最近の関心ごとは主に「出会いとは何か?」「小さな出来事を丁寧に書くこと」で、新潟の喫茶店で店主のお母さんと束の間の仲良しになったことなどを思い出す。が、こういうのはエピソードだけを掲げた半端な文章になりそうでいつも悩ましい。会議室の机はよく汚れていたので綺麗になり満足した。
午前中はものを運ぶ系の雑務をすることになり、運動するか〜と段ボールを抱えながら頭はずっと同じことを考えている。それで新潟の話は、うーんなんか思い出のままでもいいな、忘れるかもしれないけど思い出せはするだろうしな、いい思い出だから……と、頭の引き出しにしまいなおした。最近読んだ本に「人との出会いを通じて、はじまりに満ちた世界を愛する」というような一節があり私はとても感動したが、はじまる隙もないくらい別れが迫った儚い交わりも出会いではあるな、というところまで考えて段ボールをつぶす。

昼、さすがに別のことを考えたくて筒井康隆の短編集『にぎやかな未来』を読みはじめる。まさに今日の私が欲していた小説!おもしろくてどんどん進んだ。にやにや読んでいるとちょうど親しい人からLINEがきた。こちらも本がおもしろいぞという内容で、たしかにおもしろそうだったので目の前の筒井康隆とLINEの中の民俗学本を行ったり来たりやりとりをする。その本は先週一緒に図書館に行ったとき借りていたものだ、と私はその日のことをぼんやり考え、なんというか、人と図書館を見るのがあれほど楽しいとは思わなかった、と思った。好きな場所好きな人好きなものなのだからそりゃ楽しかろうが、しかし数年前までは私にとって図書館を見る時間や本を買うこと借りること読むこと、本にまつわる様々なことはほとんど誰とも共有しない閉じた営みだったのでこれは驚くべき発見だ。読んだ本について話すとか貸し借りをするとか、そうやって人と様々を共有することができ、それは楽しい、と教えてくれたのもそういえばその人だった。私は最近ますます安心して本を読めている気がする。

午後は1時間の会議を続けて2つ。自分が見当違いな意見や質問を言わないか心配しながら過ごすので気が張る。珍しく強めに言いたい意見があったので、話を聞きながらパソコンにカンペを書いて喋った。伝わりはしてよかった。あと5日で期末なので会社の人はみんな忙しそうだ。退社間際、転勤してしまう先輩に挨拶をした。年齢が近くてよく気にかけてくれた人なので私はそれなりに寂しく感謝の気持ちも大きいが、一方的に思いを述べているとありきたりに聞こえるような言葉しか出てこなくてもどかしい。しかし先輩だって時間をかけた切実な別れの言葉をそこまで求めてはいないのだろう。それは悲しむことではないし、なかなか上手にいかないにしても人に感謝を伝えることに誠実でありたいだけだ。挨拶を終え、淡々とした仕事も終えてお直し屋さんに寄る。微妙な丈だったワンピースを詰めてブラウスにしてもらった。地下鉄の改札まで歩きながら、今日はひき肉のカレーを作ろう、玉ねぎ2玉くらい入れたろう、と考えた。

1つ前の駅で降りて野菜と肉とヨーグルトを買う。八百屋までの道すがら、工事現場の見上げるほど高い保護シールドの外側から真っ赤な重機が長い首を伸ばしていてかっこよかった。通り過ぎて少し歩くと立ち止まった女性がおそらくその写真を撮っており、行き場のない感動を分かち合えたようで勝手にうれしくなる。家まで歩きながらまたしても「何を書こうかな~」と考えてみるが、気を抜くと関係ないことばかり考えているのでもう今日はやめておいていいかもしれない。ふと西の空を見ると小舟のような細い月が鈍く光っていて、ああ細い月はこんなに早く沈むのか、と、同じ名前の月をもう何度も見ているはずなのに新鮮な気持ちになる。家に帰ると先日買ったCDが届いていて、これは自分があまりにもCDを買っていないので好きな5枚を選んで注文してみたのだった。お楽しみはさておき玉ねぎを炒め、Aマッソの漫才を観ながらほうれん草のカレー(納豆のせ)を食べ終え、CDを1枚ずつ開封する。ジャケットのさまざまな手触りをたしかめ、見開きいっぱいのイラストや写真が入っているのを見る。小冊子のちいさなページをおそるおそるめくり、メロディを思い浮かべずに詩をゆっくり読む。いつも触れている、スマホの中で1枚絵だったアートワークとは別物のような情報量と迫力がある。好きな音楽が重さをもって手元にあるというのは想像以上にうれしいものだ。結局CDではあまり聴かないかもれないけど、それでもこんなに豊かな気持ちになれるなんて愉快だ。5枚は窓辺に並べて飾った。

窓辺から食卓に移動する。テーブルとソファには買ったり借りたりした本がまあまあ積まれていて、最近の夜はソファに閉じこもりずっと本を読んで過ごしている。数日前から読み始めた、乙一『小生物語』をだらだらと読み進めていたら、私も日記のようなものをやってみようかなという気持ちになってきた。それでこの1日の出来事や考えたことをなるべく取りこぼさずに書いてみようとしたら思いのほか長くなってしまった。その日に起こった出来事を通して当時の思考が思い出され、そこから別の時間の記憶が連なっていき……と、ひょっとしたら永遠に書き続けられるのかもしれない。
言葉にすることで、曖昧な記憶であっても引き伸ばされて鮮明に定着する感じがする。目で見たり心で思ったりしただけのものは言葉に比べてずっと軽く、少しの風で飛ばされてしまうようだ。日々それらはどれだけ隙間からこぼれているのだろうと切ない気持ちにはなるが、またどこかで思い出したり思い出せなかったりするだけ、それだけのことだ。