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書いておくこと

1年ごとに手帳を新しくしている。普通のノートに簡素なカレンダーがくっついたもので、用途はほぼ自由帳。旅の計画やレシピをメモしたりノートをとったり、日記や落書き、書き写しや書き殴りがごちゃごちゃに増えていく。

基本的に私はSNSに載せたり人に話したりしないことを手帳へ書いていて、それは大抵つまらないことか苦しいことだ。そこには美しい物語も結論もない。それを一発書きするものだから文法や文体がめちゃくちゃ荒くて独特で、自分でも理解に時間がかかるような怪奇文に仕上がる。
いつもなら整った文章を作ることが書く楽しみの軸にあるけど「自分の言葉(原液)」みたいなものも見過ごせないくらい醸成されているらしく、手帳はそれを発散する場所なのだろう。

発散された雑な言葉はしかし、強い。
このまえ2022年の手帳をぱらぱらめくっていたら、あるページに「親しい人たちのことを私はとても必要としていて、でもその気持ちがあることで”私も必要とされなければ価値がない”という観念や”楽しい日々は終わる”という悲しみの先取りから逃れられなくて苦しい!」といったことが書いてあった。
これはまさに最近感じていたことなのだが、過去に書いたことを覚えていなかったのでずいぶん驚いた。あれこれ推敲せず流れに身を任せて書いた文章に胸の内を言い表されるとは、いったい自分のどの部分がこれを書いたのだろう?

あとから読み返すと手帳には自分の生っぽい感情がありありと記されていて痛々しく、でも書き手とは違う時点にいる「もう1人の自分」として私は、他者の思考に触れるようなおもしろさとか過去の自分を慈しむ気持ちみたいなものを感じながらそれを読む。難解だし痛いけど楽しんでいる。私はたぶん自分と喋りたいというか、未知なるものとして観察したいのかもしれない。